<今日の要点>
神は私たちを買い取って、滅びからいのちへと移して下さった。
感謝して神に従おう。
<あらすじ>
今日の箇所は、ヨセフが、エジプトの宰相として、厳しいききんに苦しむ民を救い、国を保つべく、見事な手腕を発揮したというところです。
「神の霊の宿っている人」(41:38)とパロをして言わしめたヨセフの名宰相ぶりです。
神の御言葉によって、ヨセフは、大豊作の7年のうちに、前もって量りきれないほどの穀物を町々に蓄えていました。
しかし、穀物があるだけでは、この困難を乗り切れるとは限らない。
その食糧を分配するのがヨセフで、よかったのです。
というのも、神を恐れるヨセフのことですから、この時も、出し惜しみすることなく、良心的に銀と引き換えに穀物を与えたことでしょう。
これが欲に凝り固まった金の亡者なら、こうはいきません。
人の命より自分の財布の方が重いのです。
日本で1918年に起こった米騒動。
ただでさえ、米が不足気味で米価が高騰していたところに、その年は輪を掛けた不作で、前年に比べ60万トンもの減収。
それに乗じた悪徳商人の買い占め、売り惜しみにより、米価は急騰を続け、ついに、食うに困った主婦たちの一斉蜂起となり、実に70万人を超える人々が立ち上がったと言われています。
そんな人でなしと比べると、我らがヨセフが、良心的な価格でパロの穀物蔵から分け与えたことは、一見、普通のようですが、実はありがたいことなのかもしれません。
為政者がこういう良心を持ってくれるように祈らされます。
14節にヨセフは穀物の代金として集めた銀をそのまま、パロの家に納めたとあるのも、当たり前と言えば当たり前なのですが、カルヴァンはこれも、ヨセフがまれにみるきよい人だったことをあかしするものと言っています。
彼は言います。
「我々の経験から言えば、王国の金庫を預かる者で、搾取に身を染めない人はいない。」
そして、「彼がそのように自制を保ちながら務めをこなし得たのは、彼が神の召命に導かれていたからである。」
と。
神を見つめる生き方が、私たちを悪から守ってくれるという面があるのではないでしょうか。
さて、こうして人々は、穀物を手にすることができましたが、やがてそれも尽きました。
人々はまたヨセフの所に泣きついてきました。
ヨセフは今度は、銀がないなら家畜と交換に穀物を与えよう、と応じました。
一見、何もこんなときに家畜まで取り上げなくても、ただであげればいいのに、と思ってしまいますが、しかし、この穀物はヨセフのものではなく、パロのもの。
ヨセフはその管理を委ねられているのです。
会社に勤めている人が、いくら良いことのためだからと言って、勝手にただで会社のものをばらまくことができないのと、似ているかもしれません。
それで、パロの台所を預かるヨセフは、銀がなくなったら家畜でも結構と、パロも納得する形で、人々を救ったのでしょう。
また、家畜を手元に置いておいても、このききんの中ではかえって人々の負担になったでしょう。
多くの家畜まで飢え死にさせてしまうのは、忍びないことです。
これは民にとっても、家畜にとっても、パロにとってもよかったという三方良しの策だったのでしょう。
こうしてその年もなんとか切り抜けましたが、ききんはまだ続きました。
人々は、銀もなくなり、家畜もなくなって、もはや残っているのは土地と自分たちの身一つとなりました。
それで、土地と自分たちを奴隷として買い取って下さい、と申し出ました。
ヨセフはそれを受けて、彼らから土地を買い取り、彼らを小作人として、農業に従事させました。
ところで、ここでエジプトの古代史に興味深い記録があります。
ヨセフが、どの時代の人かについては二つの説がありますが、その一つは、エジプト中王国、第12王朝の時代としています。
第12王朝は、当初から地方豪族の力が強く、そのため時が経つにつれて王朝の権威が脅かされる傾向にありました。
やがて各地で争いが頻発するようになり、いわば戦国時代の様相を呈したようです。
それが、セヌセレト3世(前1878―1843年)の治世の後半になって、こうした地方豪族の力が何事かによってくじかれたというのです。
それまでの豪奢な墓が消え、有力な首長たちの名が見えなくなり、地方の大邸宅も見られなくなったのです。
学者たちはこれをセヌセレト3世の社会改革と呼んでいますが、その実態は資料不足のためなぞに包まれているそうです。
しかしこのとき、ヨセフがエジプトの全農地をパロのために買い取ったことが、この時の地方豪族の勢力をくじいた要因だったと考える学者もいます。
そういえば17節に「馬」が出てきますが、馬は戦に使われ、当時非常に希少なものだったので、これは有力な豪族のものだった可能性が高いです。
こんな歴史的背景を知ると、もしかしたらヨセフは、このききんを利用して国家の立直し、つまり、戦国時代を終わらせ、平和な治世の実現を計ったとも考えられるでしょう。
しかも、強引な恨みを買うようなやり方ではなく、むしろ人々をききんから救い、感謝されながら、すみやかに土地の国有化を進め、その結果、中央集権的な統一国家となったのではないか、などと推測されるのです。
中央集権国家というと、現代人は悪いイメージがありますが、それは戦がなく平和という面があり、また誰が王の座に着くかによって、天と地ほどの差があるものでしょう。
この時の人々は、幸せでした。
こうしてヨセフは土地と人々をパロの所有としました。
23節の、民をエジプト領土の端から端まで町々に移動したとは、食物の配給のために、僻地から町の近くに移動させたのでしょうか。
そして24節以下、ヨセフが買い取った人々に対する、彼の言葉が記されます。
彼らが、パロの奴隷となったからといって、ヨセフは横暴な専制君主のようではなく、逆にそうしてもらった民たちのほうが喜び、感謝を捧げるほどの、温情に富んだ取り決めでした。
税は、収穫の五分の一、2割をパロに納めるとしました。
物の本によると、当時の税率は4割から6割が相場だったといいますから、2割というのは、とても寛大な税率だったことがわかります。
今日、県民税、市民税、所得税に、消費税やら重量税やら合わせたら、当時の奴隷よりも、私たちの方が重税…?ヨセフの恩情政治、善政です。
これだけあれば、彼らは、次の年に蒔く種も、家族みんなが食べる分も十分に手にすることができます。
しかも24節の最後の方で「あなた方の家族のもののため」といったあと、わざわざ付け足して「あなた方の幼い子供たちの食糧としなさい。」
というあたりは、ヨセフという人はこんなふうに小さな子どもにまで心を配って、心を痛めていたのかな、などとも思われます。
人々は感謝にあふれて、ヨセフの恵みを頂いてパロの奴隷になりますと応じました。
このとき、人々は本当に生きるか死ぬかの瀬戸際でした。
愛する家族を、子どもたちを飢え死にさせてしまうところでした。
パロの奴隷となることは、仕事を保証され、生活を保証されることです。
それは彼らにとって救いでした。
その危機から救われた彼らは、どれほど安堵したことか。
彼らのこの言葉には、喜びや感謝が感じられるのではないでしょうか。
滅びを免れた喜び、滅びから救ってもらった感謝。
パロの奴隷になることも、家族を飢え死にさせずに済むのなら、恵みであり感謝でした。
こうみてみると、ヨセフが彼らを買い取ったことは、むしろ彼らを滅びからいのちへと移したということだった、と言えるのではないでしょうか。
買い取ってもらえなかったら、彼らは滅びるしかなかったのですから。
なお、24節のヨセフの言葉から、この年はききんが終わって、大地が穀物の恵みを生じるようになったと思われます。
普通に家族を養い、次の年の種まきの分まで残しておけるくらい。
また26節「今日」とは、これを書いたモーセの時代のことです。
こうして7年に及ぶ大ききんに臨んで、エジプトはヨセフの善政のおかげでエジプト版米騒動も起こらず、多くの民の命も失われることなく、危機を乗り切ることができました。
「主のものとせられし わが身こそ幸なれ 感謝なき日はなく・・・」新聖歌266番
今日、心に留めたいのは、25節のヨセフのおかげで命拾いした人々の言葉です。
「あなたさまは、私たちを生かしてくださいました。
私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」
これは、私たちも主に申し上げるべき言葉ではないでしょうか。
ヨセフが人々を買い取ったように、神は、私たちを買い取って、滅びから救い出して下さいました。
滅びからいのちへ移して下さいました。
神は私たちを永遠の滅び―地獄があると、聖書はハッキリと教えていますーからさえも救うべく、私たちを買い取って下さったのです。
それもご自身の血をもって。
使徒20:28(新約p270)
・・・聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
キリストを信じる人は誰でも、あなたも私も、神の御子が十字架上でご自身の血を流して買い取られたものです。
恐れ多いと思わないでしょうか。
こんな私のために、聖なる神、全宇宙を造られた神が、きよい血を流して、そんな痛み、犠牲を払ってまで、私を買い取って下さった。
この私のどこにそんな価値があるのですか…?とお聞きしたくなります。
しかし神は仰るのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」
と。
(イザヤ43:4、旧約1194)
お前など、何の役にも立たぬ!あっちへ行け!などとは、決して決して、絶対に仰らない。
むしろ高価で尊いと仰るのです。
教会に連なる一人びとりは、神がご自身の血をもって買い取られた者です。
神が、買い取って下さらなかったら、私たちも永遠の滅びに留まっていたのです。
ですから、私たちもまた、「私は、神のお恵みを頂いて、神の奴隷となりましょう」と喜びと感謝をもって、主に申し上げるべきではなかったのでしょうか。
信じる者はみな、神がご自身の血をもって買い取った神の奴隷です。
この立場の変化を自覚する必要があります。
それは私たちの益となることです。
ローマ6:22(新約p298)
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。
その行き着く所は永遠のいのちです。
このとき、人々が自分自身をパロの奴隷として捧げたように、私たちも神に自分自身を捧げることー神の奴隷となることーが必要です。
具体的には、自分に対する神の所有権を認めて、神に従うこと。
神の御言葉に従う決心をすることです。
とはいえ、神は、暴君ではありませんからご心配なく。
神が命じることは、よいことだけ、私たちの益となることだけ、私たちを生かすことだけ、罪から解放して聖潔な生活に導くことだけ、そして永遠のいのちに導くことだけです。
神は私たちを愛しておられるのです。
それなのに、神に救いを求めながら、神に従うことを拒むのは、あたかも、病院に行きながら、まったく医者の言うことを聞く気がなく、身体に悪いことばかり続けるようなものです。
それは、神が示される救いの道を、自分で拒むことです。
自分自身のあり方を変える必要があります。
先ほどのローマ書には次のようにもあります。
6:17-18(新約p298)
6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
聖書の教えの基準に心から服従すること。
神を無視した自己中心の生き方、神に逆らう生き方から、回れ右をして、神を愛し、神に従う生き方をします、というのが、聖書のいう悔い改めです。
自分にどれだけできるかな、などと気にしなくていいです。
できても、できなくても、いづれにせよ、100%の恵み、赦しのうちに生かされているのです。
買い取ってくださった方の愛と救いのすばらしさを思って、喜びと感謝をもって、神のしもべとなりましょう。
御言葉によって足元を照らし、できるところから神の御心を行いましょう。
成長というのは、時間がかかるもの。
焦らず、気長に構えていきましょう。
神の赦しは無限です。
聖霊の助けを求めつつ、一人びとりが真剣に神に従う心を持つとき、神の統治がそこに実現し、神の栄光のあらわれるところとなります。
Tコリント6:20(新約p325)
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
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