<今日の要点>
クリスチャンは、イエス様の兄弟姉妹というだけで、永遠の御国に住まわせて頂ける!
<あらすじ>
二十数年ぶりのヤコブとヨセフの再会。
ヨセフはもはや言葉もなく、会うなり父の首を抱いて、ただただ、泣き続けるのみ。
一方ヤコブの方も、死んだと知らされていた最愛のヨセフが、何と生きているのを実際に見、その腕に抱きしめると、「もう、今私は死んでもよい。
こうしてこの目で、あなたが生きているのを見たのだから。」
と感極まる。
そんな聖書屈指の名場面を前回、見ました。
失われた愛する者を回復した喜びという聖書の一大テーマ、福音の中心テーマが写し出される光景でもありました。
さて、感動の涙が収まり、一息つくと、ヨセフはこれからのことについて、段取りを指示します。
その内容は、彼らが、エジプト人の忌み嫌っている羊飼いであることをわざと強調するように、というものでした。
まずヨセフがパロに「彼らは、羊を飼う者でございます。
もう一度繰り返しますが、家畜を飼っていた者でございます。
彼らは、自分たちの羊や牛、全部引き連れてきております。」
と紹介し、彼ら自身もパロに聞かれたら「私どもは、若いときから今までズーッと羊飼い一筋で、それどころか、私たちの先祖も、家畜を飼う者という先祖代々の、それはもう筋金入りの羊飼いです。」
と言うように勧めるのです。
骨の髄まで、頭の天辺から足の爪先まで羊の匂いのプンプンする、生粋の羊飼いです!と。
そうすれば、ゴシェンの地という、牧畜に最適の場所に住むことができる、と。
ゴシェンは、エジプトの中心の外に位置していましたから、これはエジプトの都会風の、また異教的な風習に染まらないように、との配慮もあったと言われます。
また危なっかしい兄たちが、エジプトの豊かさに魅入られ、スッカリ骨抜きにされて、神の約束を捨ててしまうことのないように、というのもあったでしょうか。
彼らは、エジプトに永住するのでなく、一時的に滞在するだけ。
いづれはカナンに戻ると、神は約束しておられる。
そういえばゴシェンは、エジプトの北東の端っこですから、後に出エジプトするにも最適の位置です。
そうしてかつてアブラハム、イサク、ヤコブに語られた、カナンの地を継がせるという約束を神は成就される。
それが壮大な神のご計画でした。
ヨセフの力をもってすれば、兄弟たちを宮廷の何かのポジションにつかせることもできたのでしょうが、そんなみかけの華やかさ、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(第一ヨハネ2:16、新約p466)よりも価値あるもの、大切なものがある。
カルヴァンが、「我々にとって、教会の外の、宮殿のど真ん中に留まるよりも、主がご用意下さる部屋の端っこに留まる方が、どんなによいことか。」
と言う通りです。
ゴシェンこそ、主が彼らのためにご用意下さっていた地でした。
ところで、もしかしたら、パロはカナンに住むヤコブたちに「最高待遇をもって迎えるから、すぐにこちらに来るように」と言ってよこしましたから、もしかしたら、都の真中の一等地に家を与えて住ませる、くらいの用意があったかもしれません。
しかしそれはヨセフにとって、気持ちはありがたいけれど、遠慮したいこと。
そこで知恵が必要になります。
断るにしても、パロ直々のせっかくの好意を面と向かって断ったら、パロもおもしろくないでしょう。
そこで、パロの方から都の一等地に住ませようなどと言い出す前に、自分たちが羊飼いであることを強調しておけば、エジプト人に忌み嫌われている羊飼いである彼らを、わざわざ町のまん真中に置くことはないだろう、という作戦だったようです。
同じ断るにしても、ただノーと言えるわけではなく、パロに気を遣いながら、先手を打っていくという。
宮仕えをしているヨセフの気苦労が伺われるところです。
世にあって働いている方々も、神の民としての良心を守りつつ、かといって、片っ端からアッチコッチで立てなくていいカドまで立てて、ギクシャクしてしまうことのないよう、円満に事が運ぶよう、気を使い、苦心しているでしょうか。
イエス様も、弟子を世に遣わすにあたって
「あなたがたは、鳩のように素直であると同時に、蛇のようにさとくありなさい。」
と仰いました(マタイ10:16、新約p18)。
人の世で生活する上で必要な知恵を主に祈り求めます。
さて、こうして段取りを整え、47章に入って、まずヨセフがパロに、故国カナンの地から父と兄弟一行が到着しましたと報告します。
パロは、わざわざ特別製の車を父のためにと提供してくれましたから、おかげさまで老いた父一行が無事、ゴシェンの地に着きました、と感謝を込めて報告しました。
そして兄弟の中から五人を連れて、パロにあわせました。
兄たちは、打ち合わせ通り、自分たちが生粋の羊飼いであることを告げ、首尾よくゴシェンの地に住むことを許されました。
それだけでなく、兄弟たちの中に腕の良い羊飼いがいたら、その者を王直属の家畜係の長に抜擢しようという、おまけまでつきました。
こうして、最後に父ヤコブのあいさつとなります。
7節「あいさつした」と訳されたのは、欄外注にある「祝福した」という語。
カルヴァンはここから、自分が住む地の王のために祝福を祈ることを信仰者の務めとコメントしています。
(第一テモテ2:1-2、新約p407参照)ヤコブの祝福を受けたパロも、彼にやさしい言葉をかけます。
「あなたの年は、いくつになりますか。」
それに対するヤコブの答えは、どう読んだらいいのか。
「私のたどった年月は百三十年です。
私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」
ヤコブの祖父アブラハムは175歳(25:7)、父イサクは180歳(35:28)まで生きました。
彼はこのとき130歳。
結果的にあと17年この地で生き長らえることになります(47:28)。
これまでの苦労続きの人生で、そこまではもたない気がしたのか。
しかし彼の父イサクも、もう長くないと自分では思いましたが、その後数十年、生き長らえました(27:2、31:38、35:27-28)。
人の寿命は、わからないもの。
まさしく神のみぞ、知るです。
ともかく、ヨセフと再会できたというのに、嘆き一筋のヤコブ節なのです。
「ええ、おかげさまで、神様のお恵みで、130年今まで守られ、生かされております。
しかも最愛のヨセフにまで会うことができて、もう何も言うことありません。
ありがたいことです。」
と感謝の言葉は出てこない。
これまでの苦労につぐ苦労がこうしたのか、生まれつきの性分なのか。
その両方なのか。
確かに苦労につぐ苦労ではありましたが。
それとも単に、パロの前ではあまり良いことを言わず、卑下するのが礼儀だったのか。
ともかく、そんなことを言ったヤコブも、この後11-12節の様子を読むと、ようやく落ち着いた生活が与えられたようで、他人事ながら安堵します。
11節ラメセスは、ゴシェン地方の北方にある場所。
「ヨセフは、パロの命じたとおりに、彼の父と兄弟たちを住ませ、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。
またヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。」
まるで「メデタシメデタシ、幸せに暮らしましたとさ」とおとぎ話のような結末でした。
しかし、おとぎ話でなく、キリストにあるものには事実、このような結末が用意されているのです。
「わが君イエスよと 喜び歌う 尊き御名こそ 比いもなけれ」(新聖歌142番)
ヨセフが、ヤコブや兄弟たち一族をエジプトの最良の地に住ませたように、実はイエス様も私たちのために、最高の住まいを備えて下さっています。
ヨハネ14:2 (新約p209)
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
イエス様は、私たちが、それこそ幼子に至るまで全家族がそろって、天の父なる神のみもとで豊かないのちを楽しむよう、その住まいを備えるために、地上でなすべきわざを終えて、天に昇られました。
私たちもいつの日か、その、イエス様が整えて下さった住まいに、住ませて頂けるのです!先に天に召された懐かしい兄弟姉妹とともに!
そして今日、特に覚えたいのは、ヨセフの兄弟たちは、ただヨセフの兄弟だからということで、この最良の地を与えられたことです。
彼らは、この時ほど、ヨセフの身内で良かったと、我が身の幸運を思ったことはなかったでしょう。
これはすべて、ヨセフのおかげです。
彼らが特別何かしたわけではありません。
彼ら自身が、何か、特別な功績を積んだわけではなく―むしろ彼らは、ヨセフに悪を行いましたが、それにもかかわらずーただただ、彼らがヨセフの身内に生まれたからという、そのことのゆえに、こんなふうにききんの中、最良の地に一族そろって住むことができたのです。
私たちも同じでした。
私たちも、ただただ、イエス様の身内だから、ということで、滅びから免れ、永遠の命を与えられ、祝福に満ちた永遠の御国まで継がせて頂けるのです。
イエス様を信じる者は誰でも、イエス様の家族です。
マルコ3:34‐35(新約p70)
3:34 そして、(イエスは)自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。
「ご覧なさい。
わたしの母、わたしの兄弟たちです。
3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
イエス様のみもとに来て、みことばに耳を傾けている人たちをさして、イエス様は「神のみこころを行う人」と仰り、「わたしの兄弟、姉妹、また母」と仰いました。
ちょうど今、会堂で、あるいはそれぞれの所で、御言葉に耳を傾けている皆さんも同じです。
彼らも、私たちも、みなイエス様の兄弟姉妹。
イエス様の身内。
そして、ただそれだけでーイエス様の身内というだけでー天のゴシェンと言いますか、父の祝福に満ちた御国に住まわせて頂ける。
この、丸もうけ感、伝わるでしょうか。
本当にそれでいいのですか?とききたくなるほど。
ただただ恵み。
イエス様のおかげ。
イエス様サマサマなのです。
これは、神学用語でいうところの「恵みの契約」と言われるものです。
ただただイエス様が勝ち取った功績のゆえに、信仰によってイエス様とつながっている私たちまで、御国に住まわせて頂ける。
そこで最高の良い物で養っていただける。
私たち自身の功績や能力によらず、ただただ、いわばイエス様の身内だというそれだけで最高の特別待遇。
イエス様と一緒に永遠の天の御国に住まわせて頂ける。
そういうことでした。
ルベンのようなものも、シメオン、レビのようなものも、ユダのようなものも、ただただヨセフの身内と言うだけで、過分な恵みに与(あずか)ったように、私たちもまた、心から悔い改めて、キリストを信じ、御言葉に耳を傾け、従う心があるならば、信仰によるキリストの身内。それだけで、救いの恵みに入れられる。
さらにはパロの家畜係ならぬ、神の御用のために、お仕えさせて頂く栄誉にも与らせて頂ける。
また、ヨセフのゆえに、兄弟たちがパロの好意に与ったように、イエス様のゆえに、私たちも神の好意を頂いています。
パロとヨセフの兄弟たちは他人のままでしたが、神は私たちをご自身の子として、家族として迎え入れて下さいました。
すべてはイエス様のゆえに、です。
イエス様、ありがとうございます、と感謝を新たにしたいと思います。
しかも、です。
私たちがイエス様を信じたという、その事だって、実はまったく私たちの力の及ばない所で定められていたことでした。
まるでどこの家に生まれるかを、私たちが選べず、一方的に定められているように。
エペソ1:4-5(新約p373)
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
この世界の影も形もないうちから、キリストのうちに選ばれていた、神の子どもと愛をもって定められていた、というのですから、私たちの側の何をした、かにをしたなどチリほども出る幕がありません。
ただただイエス様の家族に生まれさせて頂いてよかった、神様、本当に、ありがとうございます、しかありません。
「恵みの栄光が、ほめたたえられるため」とある通りです。
すべての祝福の源であるイエス様の御名を心からほめたたえましょう。
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