<今日の要点>
キリストの愛は、私たちを救うために、自ら進んで身代わりとなり、犠牲となられた愛。
<あらすじ>
「彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。」
(43:34)と直前の章は終わっていました。
ヨセフはまだ正体を明かしていませんでしたが、10人の兄たちと、それに同じ母から生まれたたった一人の兄弟ベニヤミンと、内心、込み上げる懐かしさを抑えながら、表面は平静を装って、食事の時を過ごしていました。
彼らが食事をしているときの様子も観察していたでしょうか。
過去の痛みがあるので、兄たちもベニヤミンに対して、以前ヨセフに対して抱いたようなトゲトゲしさ、憎しみはなかったでしょうが、さりとて、他の10人とまったく同じに付き合っていたかと言えば、それも難しかったかもしれません。
ベニヤミンはやはり、どこか距離を置かれていた様子が伺われたかもしれません。
ともかく、その日、昼から始まった宴は、夕方まで続いたのでしょうか、兄弟たちもほろ酔い加減になって、和やかな雰囲気のまま、終わりました。
その夜のうちでしょうか。
ヨセフは家の管理者に、彼らの袋に運べるだけの食糧を詰め込み、彼らが代金として払った銀は、袋の口に返すよう命じました。
ここまでは、前回と同じ。
戻した銀は難癖をつけるためではなく、父ヤコブが困らないようにという配慮でした。
ところが、今回はそれだけではありませんでした。
ベニヤミンの袋の口に、ヨセフの銀の杯を入れておけ、と家の管理人に命じたのです。
この杯は、実際に飲むためにも、占いにも使われるもので、ヨセフは実際には占いはしていなかったと思われますが、当時は一般的に政治に占いが取り入れられていたので、エジプトの高官にとっては大切な道具とされていました。
これをベニヤミンの袋に入れておく。
そしてあとから彼らを追いかけて、これはいったい何のマネだ!と言え、と命じたのです。
これが見つかった時、彼らがどうするか、どういう行動に出るか、彼らを試すためのわなを仕掛けたのでした。
まるでジギル博士とハイド氏のような、と思ってしまいそうですが、そうではなくて、ヨセフはただ、彼らが本当に悔い改めているのかどうか、本心を試したのです。
翌朝早く、11人の兄弟たちは、ろばといっしょに送り出されました。
何も知らない彼らは、ヤレヤレ、なんとか大任を果たすことができたな、ベニヤミンも無事で、シメオンも解放され、殼物はふんだんに手に入れることができた、ああ、神様、感謝します、と祈り、時折、笑い声が聞こえ、晴れやかな気持ちきでカナンに向かっていたでしょう。
そこに突然、ヨセフの家の管理人が追いかけてきて、雰囲気は一変しました。
待て、待て、待て。
待てと言ったら待て!お前たちは、なぜ、ご主人様の大事な杯を盗んだのか!イキナリ、詰問されて、全く身に覚えのない彼らは、真っ青になりながらも、無実を主張します。
「なぜ、そのようなことをおっしゃるのです。
しもべどもが、そんなことをするなど、とんでもありません。
私たちは、袋の口にあった銀でさえ、遠いカナンの地から返しに来たではありませんか。
それほどの正直者の私たちが、どうしてご主人さまの家から何かを盗むなどいたしましょう。
ようございます。
それでは、誰からでも、それが見つかった者は殺して下さってけっこうです。
残りの者も、ご主人さまの奴隷になりましょう。」
まったく身に覚えがないのですから、潔白を証明するために、考えられる限りの大胆な申し出をします。
これを聞いた管理人は、あらかじめヨセフから指示があったのでしょう、杯が見つかった者だけが奴隷となり、他のものは無罪とする、と応じました。
何も知らない彼らは、年長のものから順番に袋を開けます。
まずルベンから。銀がまたもや、返されていて、一瞬、ドキッとしましたが、それは問題にされませんでした。
おとがめなし。
続いて、シメオン、レビ、ユダ、と順番に袋を開けますが、やはり銀が返されていただけで、杯はありません。
身に覚えはないけれども、一人ずつ、シロとわかるたびにホッとする。
そして最後、ベニヤミンの袋を開けると、なんとそこで出てきました。
もちろん、彼らも、ベニヤミンが盗んだとは思わなかったでしょう。
あとの方でユダが「神がしもべどもの咎をあばかれたのです。」
(16節)と言っていますから、彼らはこれも神の裁き、神がなさったのだと思ったのでしょう。
彼らは着物を引き裂き、ベニヤミンといっしょに引き返しました。
衣を引き裂くのは、激しい嘆きをあらわすしぐさです。
嘆きながらも、途中、ユダは、どうするべきか、祈り、考え、そして覚悟を決めていたでしょうか。
彼らが着くと、ヨセフは彼らを問い詰めました。
「あなたがたのしたこのしわざは、いったい何だ。
エジプトの政治を一手に引き受けている私のような者は、まじないをするということを知らなかったのか。」
これに対して、弁舌の賜物のあるユダがまず、16節で、杯が見つかったのはベニヤミンですが、自分たちもいっしょに奴隷として残ります、と答えます。
ヨセフはこれを聞いて、グッと来たでしょうか。
昔の兄たちなら、こうは言わない。兄たちも変わってくれたのだろうか…。
しかし、しかし、苦労人のヨセフは、ここですぐさま手を打つような甘ちゃんではありませんでした。
もう一押し、もう一段、深く、彼らの本心を試します。
17節「しかし、ヨセフは言った。
『いや、それはとんでもないことだ。
杯を持っているのを見つかった者だけが、私の奴隷となればよい。
ほかのあなたがたは安心して、父のもとへ、たっぷりの食糧をもって帰るがよい。
年老いた父の世話もあろう。」
彼らがベニヤミンを置いて帰れそうな、それらしい口実を与えて、彼らが本心からベニヤミンを守る気があるのか、試します。
彼らがこの誘いに乗って、これ幸いとばかりに、サッサと見捨ててしまうのか。
それとも…。
内心、祈るような気持ちで、彼らの応答を待つヨセフ。
ゴクリとつばを飲み込む音が聞こえてきそうな、息詰まる瞬間です。
するとユダがズイッと一歩前に出て、「どうか、しもべの申し上げることに耳を貸して下さい」と訴え始めます。
「どうか、しもべを激しくお怒りにならないでください、あなたはパロのようなお方なのですから」と前置きして、彼の思いの丈を申し述べます。
「パロのようなお方」とは、人々の正しい訴えを聞く度量のある、あわれみに富む方、ということでしょうか。
以下は、ユダの真実のこもった訴えです。
19節以下31節まで、父ヤコブがいかにベニヤミンを愛しているか、切々と訴えます。
彼が年寄り子であること、同じ母から生まれた兄は亡くなって、その母から生まれた子としては彼だけが残っていて、父は彼をことのほか愛していること、それでベニヤミンを父から離してエジプトに連れて来るとなると、父は死んでしまうと思われたことを述べます。
しかしそれでも、どうしてもベニヤミンがいっしょでなければ、来てはならないときつく命じられていたので、そのことを父ヤコブに話したところ、ヤコブは「ヨセフは出て行ったきり、帰って来ない、確かに裂き殺されたのだ、とその時は言ったが、実際のところは、どうなのか、わからないが」と兄たちの言ったことに疑念も伺わせますが、ともかく、「あれ以来、彼を見ていない。この上、ベニヤミンにまでわざわいが起こるなら、あなたがたは、しらが頭の私を悲しみながらよみに下らせることになるのだ」と父ヤコブの生の言葉を伝えます。
ここでヨセフは、父ヤコブが、22年経った今も自分のことを忘れず、思ってくれているのだ、と思うと、込み上げてくるものがあったでしょう。
そしてユダは、そういう状態なので、今、ベニヤミンを置いて自分たちだけで帰ったら、父の命はベニヤミンの命にかかっているのだから、あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう、そして自分たちは、しらが頭の父を悲しみながら、よみに下らせることになるのです、と訴えました。
ユダの口からは、しらが頭のヤコブを、悲しみながら、よみに下らせることになる、という表現が二回出てきています。
ユダにとって、この父ヤコブの言葉が特に心に刺さっていたのでしょう。
ゲッソリと痩せこけ、苦悩の深いしわを刻んだヤコブの悲痛な顔とともに。
それを思うと、これ以上、父に悲しい思いをさせたくないと心底、思わずにはいられなかったのでしょう。
それで最後に32節、自分がベニヤミンの保証をしているから、自分が、ベニヤミンの代わりに一生、奴隷として残ります、と申し出ます。
どうか、自分を彼の代わりに、あなたの奴隷として下さい、と自分から懇願します。
お前たちは帰ってよい、と言われてるのに。
そして、どうか、ベニヤミンを他の兄弟たちといっしょに帰らせて下さい、と願うのです。
ベニヤミンを救うために、どうか、自分を一生奴隷にして下さい、と懇願するユダの姿に、ヨセフの心は張り裂けんばかりになったでしょう。
そして最後に「あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。
私の父に起こるわざわいを見たくありません。」
と、ユダの真実な心情の吐露を聞いて、ついにヨセフの抑えに抑えていた心は決壊して、次の章で涙とともに自分のことを明かすのでした。
「主は命を 与えませり・・・その死によりてぞ われは生きぬ」新聖歌102番
今日の箇所は、ユダの独壇場の感があります。
彼の弁舌のテクニックではなく、彼の真心からあふれ出る思いが、読む者の胸を打ちます。
思えば彼は、38章ではどん底を経験していましたが、そこで「あの女は、私より正しい」と自分の罪を認めたときに、神のあわれみが豊かに注がれ、神との関係は新しいものとなったのでしょう。
正しい良心を神は祝福せずにはおきません。
そこから、神とともに歩む新しい命が始まり、彼の魂は造り変えられていったのでしょう。
兄弟を救うために、自ら進んで犠牲となるまでに。
彼は、このとき、イエス・キリストの似姿を宿していました。
キリスト教の歴史には、自己犠牲においてキリストの似姿を表わした人たちが、少なくありません。
「塩狩峠」の主人公のモデルとなった実在の人物・長野政雄。
彼は、人々を鉄道事故から救うために自分の身を犠牲にしました。
津軽海峡を渡る青函連絡船が沈みかけたとき、救命具を他の人に渡して自らは海の中に消えていった宣教師たちもいました。
ほかにも、決して少なくない兄弟姉妹たちが、隣人を救うために自分の命を犠牲にするというキリストの似姿を表して、天に凱旋しました。
もちろん、実際の殉教以外でも、自分を十字架につけて、何らかの犠牲を払って、隣人愛、兄弟愛を示すとき、そこにキリストの似姿が表れています。
第一ヨハネ3:16(新約p468)
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
先週、キリストの愛を信じましょう、と勧めました。
そのキリストの愛とは、私たちを救うために、ご自分から進んで私たちの身代わりとなることを願い、十字架上に犠牲となられた愛です。
ユダは実際に奴隷になることはありませんでしたが、キリストは実際に十字架上で苦しみを受けられました。
おとぎ話か何かのように、上の空で右から左へと聞き流してはいけません。
私たちを永遠の苦しみから救い出すために、事実、十字架上に太い釘で手足を打ち付けられ、肉を引き裂かれ、血を流され、槍で突き刺された方のことを、そのように聞き流すなど、人として許されないでしょう。
これは単なる思想や作り話ではないのです!事実、神は最愛の御子を犠牲にされたのです。
自分の愛する息子が、命をかけて、犠牲となって誰かを救おうとしたのに、忍耐を尽くして彼らが救われるように手を差し伸べ続けた挙句、最後までその人たちが、息子の死を軽く聞き流し、嘲りなどしたら、どう感じるでしょうか。
彼らが救われるためになされた、自分の最愛の子の犠牲を、死を軽んじている彼らに対して、最後は怒りを注ぎ出さないでしょうか。
ましてや、生ける神の御子、罪なきお方が、犠牲となって下さったのです。
この事実を軽んじるならば、最後には神の御怒りが注ぎ出されます。
Uテサロニケ 1:8(新約p402)
そのとき主は、・・・私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
ですから、神の愛を、キリストの犠牲を信じましょう。
御子の犠牲を決して軽んじることなどあってはなりません。
これより大きな愛はないのです。
ヨハネ15:13(新約p212)
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
キリストは、私たちを友として、私たちのためにいのちを捨てて下さいました。
|