礼拝説教要旨(2021.5.2)
キリストの愛を感じる
(創世記43:16-34) 横田俊樹師 
<今日の要点>
状況がどうであれ、疑うことなくキリストの愛を信じる。
キリストの愛に希望を置く。

<あらすじ> 
 前回見たようないきさつで、ヤコブは目の中に入れても痛くない、秘蔵っ子中の秘蔵っ子ベニヤミンをついに手放して、9人の兄たちとともにエジプトに行かせました。
エジプトへの道中の守り、そして、兄たちに荒々しい態度で、不条理なことをぶつけてきたというエジプトの宰相からの守り。
最終的には、神の御手に委ねたとはいえ、なしうる限りの祈りは、積み上げたでしょう。
毎日、何度も、神のご加護を祈って待つヤコブでした。

カナンからエジプトまで、2週間ほどの道中は守られ、一行はエジプトに着きました。
どうか、今度はおかしな言いがかりをつけられませんように・・・。
彼らは、祈るような気持ちで、エジプトの宰相ヨセフの前に出ました。
他方、ヨセフの方は、忘れもしない、愛する弟ベニヤミンの姿を、22年ぶりにもかかわらず、ひとめで認めました。
昔、いっしょによく遊んだでしょう。

日頃から、母違いの他の10人の兄弟たちに憎まれていたヨセフにとって、ようやく同じ母から生まれたもう一人の兄弟は、特別に可愛かったでしょう。
ベニヤミンはまた、懐かしい母ラケルの面影も宿していたでしょうか。
ヨセフも、毎日祈りつつ、今日来るか、明日来るか、指折り数えて待ち焦がれていたでしょう。
すぐさま、ヨセフは家の管理人に、歓迎の宴の用意を命じました。
ところが、彼らは、どこかに連れていかれる様子に戸惑いました。
なぜ、自分たちだけ、どこかに連れていかれるのだろう?いったいどこへ?と不安になります。
そしてヨセフの家に連れてこられたとわかると、彼らの顔からサーッと血の気が引きました。

前回が前回だっただけに、無理もありません。
何しろ、顔を見ただけで、イキナリ、スパイ扱いされ、投獄ですから。
今回も、まったく身に覚えのないことで、何か言いがかりをつけられるのではないか。
そういえば、この間、袋に、殼物の代金に払ったはずの銀が返されていた。
ああ、きっとあれだ。
あれで今度は我々を泥棒呼ばわりして、縛り上げ、我々を奴隷にする魂胆なのだ。
そうして、我々のろばも贈り物もみんな、自分の懐に入れようという寸法に違いない。
そう、案じて身を震わせました。
実際は見当違いの心配だったのですが。

 こうなったら向こうから言われる前に、こっちから先手を打とう、と彼らは、家の管理者にカクカクシカジカと申し出ました。
前回、自分たちは食糧を買いに来ただけですが、帰りに宿泊所で袋を開けてビックリ仰天しました。
払ったはずの銀がそのまま、返されていたのでございます。
それで、正直者の私たちはそれを返しに持って参りました。
いったいぜんたい、誰が、私たちの袋に銀を入れたのか、皆目見当がつきません・・・。
恐る恐る言うと、あらかじめ、ヨセフから指示があったのでしょうか。
管理人の口から返ってきたのは、思いのほか、やさしい答えでした。

「安心しなさい。恐れることはありません。
あなた方の神、あなた方の父の神が、あなた方のために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありませんよ。
あなたがたの銀は、あの時、私がもう受け取っていますから。」
もう受け取っているって…。
では、あの銀はどこから?何が何だか、わけがわからず、狐につままれた気持ちのまま、人質となっていたシメオンの所に連れていかれて合流し、それからヨセフの家に入りました。

旅人をもてなす作法に従って、足を洗う水を与えられ、ろばのための飼料が与えられ、と完全にお客様扱いです。
前回が前回だっただけに、これはいったいどうしたことか…ちょっと気味が悪い・・・。
そう感じながらも、彼らは足を洗い、ろばに飼料を与えて、ようやく一息つきました。
食事までお呼ばれすることになっていると聞いて、贈り物を用意して、抜かりなく、その時を待ちます。

 やがてお昼時になり、ヨセフが帰ってきました。
緊張が高まります。
ヨセフが部屋に入ってくると、一同、ハハーッと地面に額をこすりつけます。
またまた、例の夢の成就です。
28節でも繰り返されます。
神の預言の確かさを印象付けられます。
ところで、ヨセフは父ヤコブのことが気になって仕方ありません。
あなたがたの年老いた父親は元気か、まだ生きているのか、と問います。
彼らから、元気で、まだ生きていると聞いて内心、ホッとします。

そしてヨセフは、同じ母の子であるたった一人の弟ベニヤミンを見て「これがあなたがたが私に話した末の弟か。」
と言ってベニヤミンの方に目をやります。
そして「我が子よ。神があなたを恵まれるように。」
と、そこまで言うと、ベニヤミンの顔を改めてじっと見たからか、あるいはベニヤミンと目が合ったか、懐かしさが込み上げ、泣き出したくなって、急いで奥の部屋に入って嗚咽したのでした。

もう、だいぶ前になりますが、中国残留孤児の方たちが、肉親に一目会いたくて、老いた体を鞭打って、日本に来られました。
幸いにも再会できた方は、顔中ぐしゃぐしゃにして喜びの涙を流されました。
そんな肉親の情は古今東西変わるものではないでしょう。
ヨセフは訳あって、まだ正体を明かせませんが、弟ベニヤミンに対する熱い思いが込み上げてくるのは、どうすることもできませんでした。
「ヨセフは弟懐かしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた。」
こういう感情の豊かさも、ヨセフという人の魅力です。

ひとしきり泣いて、彼は顔を洗って出てきました。
そして自分を制して、ようやくのことで「食事を出せ」と言いつけました。
気位の高いエジプト人は、異民族と食事を共にすることを忌み嫌っていたので、別々に席が用意されました。
そしてヨセフは、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座に座るよう、指示したので、彼らは驚いて、互いに顔を見合わせました。
また、ヨセフの食卓から、彼らに食事が分けられましたが、ベニヤミンの分はほかの兄たちの分よりも五倍も多かったと言います。
この辺、ヨセフはまだ正体を明かしませんが、気持ちが抑えきれずに、ところどころ、ボロが出ているようにも見えます。
そして、彼らはヨセフとともに酒をのみ、酔い心地になりました。

<わが身の望みは ただ主にかかれり>新聖歌363番A
 今日の箇所で心に残るのは、ヨセフがベニヤミンを見て、込み上げる懐かしさに突き動かされたところです。
ヨセフは前に、兄たちが罪の重荷に苦しんでいることを知ったときにも、泣きました(42:24)。
ヨセフという人は、当時の超大国エジプトを治める大宰相として、パロから全権委任され、絶大な権威を持つ人物でしたが、一方で、こんなふうに情緒豊かで、人間味あふれる人だったのでした。

 私たちが信じている神も、実はそうなのです。
神は、全知全能で、絶対の権威をもって万物を支配しておられ、永遠に変わることのない聖なる聖なるお方・・・というと、まるでどこかの大仏のような、半開きの目で、足の裏をくすぐってもニコリともしない無表情な顔を思い浮かべるかもしれません。
しかし、意外なことに、と言いますか、聖書においてご自身を表わしておられる神様は、泣いたり、喜んだり、驚いたり、時に悔いたり、また心から怒ったり、心から嘆いたりと、実に豊かな表情をおもちです。
この時のヨセフの胸が熱くなったと言うのも、そんな神の似姿に造られた人間だからです。
神のほうが人間なんかよりももっと、豊かな感情をお持ちなのです。

たとえば、エレミヤ書31章20節(旧約p1302)。
背信の罪ゆえに、エフライム(=北イスラエル)を、やむなくアッシリヤに引き渡さざるを得なかったとき、神はこんなお気持ちでした。

エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
それとも、喜びの子なのだろうか。
わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。
それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。
─【主】の御告げ─
何の痛みもなく罰を与えているのでなく、ハンカチで目元を抑えるみたいに、行儀よく泣いているのでもなく、嗚咽している神のお姿が見えるようです。

 この時のヨセフは心情を隠していたので、兄弟たちは、自分たちとは赤の他人としか思いませんでした。
穀物を売ってくれるかどうかも、わからない。
それどころかベニヤミンまで取り上げかねない、何をするかわからない、異国エジプトの宰相としか、思っていませんでした。
同じように、今はこの世界を見るときに、また自分が試練に直面しているときに、私たちも、神の愛が見えなくなってしまうことが、あるかもしれません。
世の中を見て、どこに神がいるのか、と疑問に思い、あるいは怒り、あるいは絶望し・・・と。

しかし、目に見える所だけで、自分の置かれた状況だけで、神のご愛を疑ってはいけません。
神は私たちを愛し、御子を救い主として世に遣わされたのです。
キリストは、私たちを滅びから救うために、恐ろしい苦しみの極致である十字架刑に、自ら進んで、かかって下さったのです。
私たちは、誰かのために、実際に、自分の手足を太い釘で打ち付けられる十字架にかかることができるでしょうか。

考えてみて下さい。
キリストは、事実、私たちのためにそのようにして下さったのです。
もし、誰か身近な、この人のためならできる、と思えるほど愛する人がいるなら、神はあなたのことをそのように愛しておられるのです。
この、私たちに対するキリストの愛は、十字架の苦しみも、死も、止めることはできませんでした。
今も、キリストの私たちに対する愛は、何物も止めることができません。

キリストの愛を信じましょう!疑うことなく!目に見えるものによって、キリストの愛を疑ってはいけません。
サタンは、エデンの昔から、神の愛を疑わせる言葉を人の心に投げかけます。
それはサタンからのものです。
すべての疑いを退けて、キリストの愛を信じ通しましょう。
キリストの愛にフォーカスしましょう。
焦点を合わせましょう。

世の中にも、状況にも、また自分自身の内側を見ても、希望が見えず、自分で自分をあきらめたくなったとしても、キリストは私たちを愛して、変わらずに手を差し伸べておられます。
環境でも、自分の内側でもなく、キリストの愛を信じるのです。
「わたしは、あなたを救うために十字架にまで、かかったではないか」と今も私たちに手を差し伸べておられるキリストの愛を信じるのです。

キリストの愛を信じるとき、どんな状況でも、希望の灯が心にポッとともり、喜びさえ湧いて、生きる勇気と力が与えられます。
無神論国家ロシアのある青年が、EHCという福音のトラクトを配る働きを通して、キリストの愛に信仰を置く決断をしました。
それまで彼は、人生に失望し、世の中から消えてしまいたいと思っていましたが、あるとき一枚のトラクトをもらったことをきっかけに、やがてキリストの愛に信仰を置くことによって、生きる力を得ることができました。
キリストの愛を知ることが、私たちに希望、喜び、勇気、力を与えるのです。
キリストの愛に信仰を置くとき、新しい命が始まり、新しい人生を歩み出すことができます。
これまでの延長線上にはない、新しい命―永遠のいのちーを生きる人生です。

ローマ8:32-39(新約p302)
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。

8:34 罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
・・・
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

8:38 私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。