礼拝説教要旨(2021.4.25)
神の御手にゆだねる
(創世記43:1-15) 横田俊樹師 
<今日の要点>
人生の課題に直面したとき、なしうることをなしたら、あとは神に信頼して、お委ねする。

<あらすじ> 
さて、その地でのききんは、それはそれはひどいものだった、と43章は始まります。
9人の息子たちがエジプトから持ってきた穀物も、大事に大事に食べたでしょうが、二か月ほど経った頃でしょうか(10節、エジプト―カナンは片道約2週間)、とうとう、底を突きました。
ヤコブ一族はこの頃、子たち、孫たち合わせて総勢70数名になっていました(46:26)。
これに加えて、多くのしもべたちがいたと思われます(30:43)。
9人が、ろばに背負えるだけ持ってきたとしても、これだけの人数を養うとなると、それほど長くは続かないでしょう。
くるみ、アーモンドなどの補助食はまだかろうじてあったようですが(11節)、もう限界です。

もしかしたら、もう少し粘ったら、そのうち状況が変わるかもしれないという淡い期待もあってか、ここまでがんばってきたヤコブも、とうとう年貢の納め時です。
いつもなら、用意周到なヤコブは、手持ちの殼物がなくなる前、とっくのとうに息子たちを買い出しに行かせたはずですが、それには溺愛していたベニヤミンを連れて行かなければならないと言われていたので、それがイヤで、ギリギリのギリギリまで、がんばってきたのでしょう。
ヤコブも「天を開き、豊かな恵みを大地に降らせてください」と祈ったでしょうが、その祈りは応えられず、ききんはひどく、どうにもならないところまで来てしまいました。
どうにもならないところまで来るのが、御心だったのです。

 こうしてやむなく、ヤコブの方から「エジプトに買い出しに行ってくれ」と息子たちに言いました。
それを受けてユダが、それにはこないだも申しました通り、ベニヤミンを連れていかなければなりませんが、いいんですね、と念を押します。
エジプトの宰相が、ベニヤミンがいっしょでなければ、ここに来ることはまかりならん!と厳しく戒めたのですから、ベニヤミンといっしょなら行きます、そうでないなら、行きません、とハッキリ言います。
ヤコブは、半ば、覚悟はしていたのでしょうが、この期に及んでも、なお、もうひとゴネします。
「なぜ、もうひとりの弟がいるなどと、言わなくていいことを言って、この私をひどい目に会わせるのか。」
相変わらずのヤコブ節です。
すると今度は、9人が声を揃えて言いました。

「あの方が、私たちと私たちの家族のことを根掘り葉掘りしつこく尋ねて、『あなたがたの父はまだ生きているのか。
あなたがたに弟がいるのか。』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。
まさか、あなたがたの弟を連れて来いと言われるとは、どうして私たちにわかりましょう。」
もっともです。これにはヤコブも、言葉を継げません。

すると、黙ったヤコブを見て、ここぞとばかりに、ユダが説得の弁舌を振るうのでした。
ユダという人は、適度に押しが強くて、交渉上手、説得上手なようです。
このあと、44章では彼の感動的な弁舌を見ることになります。
賜物なのでしょう。
ここでも、もしベニヤミンに万一のことがあったときには、自分がヤコブに対して罪あるものとなります、とまで言って、ベニヤミンの身の安全に自分自身が責任を負う覚悟を表す。
と同時に、他方では、そうすればあなたも私たちも、私たちの子どもたちも生き長らえるのです、とか、もし、私たちがためらっていなかったら、これまでに二度は行って帰ってこれたでしょうとか、ヤコブの決断をグイグイと畳み掛けるように迫る。
しかも10節などは「あなたがためらっていなかったら」と言わず「私たちがためらっていなかったら」として、一方的に父を責める形にならないようにという配慮も伺えます。
こういう説得上手のユダという人を通しても、神は、ヤコブが決断できるように助けておられたのでしょう。

 こうして、にっちもさっちも行かない状況に追いつめられ、説得上手のユダに迫られて、さしものヤコブも、ついに、思い切ってベニヤミンを神の御手に委ねる決断をしました。
このままでは一族全滅ですから、仕方がありません。
もちろん、尽くせるだけの手は尽くします。
カナンの名産品で、貴重な乳香、蜜、樹香に沒薬、それに保存のきく木の実類はわずかばかり残っていたのでしょうか、くるみとアーモンド。
それに、前回返されていた銀もあわせて二倍の銀を持っていって…と財を惜しまず、努力を惜しまず、できるだけのことをします。
そうしてのちに、ヤコブは神の恵みを祈り求めました。

14節「どうか、全能の神が、その方に、あなた方を憐れませてくださるように。
そうしてもう一人の兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。」
ここにきて、ようやく神の御名がヤコブの口から出てきました。
「全能の神が」と、当時の超大国エジプトの権力者をも、御心のままに自由自在に動かすことのお出来になる方に望みを置いて、恵みを乞い願います。
人間のなすわざを真に有効にするのは、神の祝福です。

詩篇127:1、旧約p1038。

主が家を建てるのでなければ、建てるものの働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ、守るものの見張りはむなしい。

 そして最後に、結果は神に委ねます。
「私も、失う時には失うのだ。」
半ば開き直りともとれそうな表現ですが、私たちもときに、良い意味での開き直りが必要なこともあるのではないでしょうか。
これまで固く固く握りしめて、絶対に放さなかったベニヤミンを、ついにヤコブは手を開いて、神の御手に委ねることができました。
どうにもならない状況に追い詰められての、強いられてした決断でしたが、それは彼の人生のターニングポイント、転換点となりました。
これによって、彼はベニヤミンを失わないだけでなく、失ったと思っていたヨセフとの再会の道も開けたのです。
こうして、今度はベニヤミンを入れた10人は、再度、エジプトに行き、ヨセフの前に立ったのでした。

<弱き者よ、われにすべて 任せよやと 主はのたもう>新聖歌232番
カルヴァンは、11節以下のヤコブの言動から、私たちが問題に直面したときの対処の仕方を学ぶことができると言います。
まず、問題の解決に向けて少しでも益となること、役に立ちそうなことを、知恵を尽くして行うこと。
神に委ねたことを口実に、怠惰になってはいけないと戒めます。
次に神の恵みを乞い願う。
そして最後に、結果を神に委ねる。
3つのステップのうち、これが、一番難しいことでしょう。

しかし、自分から進んで委ねることはできなくても、この時のヤコブのように、実際、委ねるしかないことがあるのではないでしょうか。
私たち人間には、いくら頑張っても限界があります。
なるようにしか、ならないことがあります。
そういうところに来たときに、私たちは、自分の力の限界を知らされます。
そして、神が主権者であられることを改めて覚えさせられます。
主権者は、神です。
私たちは、神を聖なる方としなければいけません。

この世界を造られた神が、私たちには到底計り知れない御心に従って、熟慮をもって、事を行われるのです。
私たちは、神の主権を認めて、「みこころが行われますように」と祈って、神にすべてをお委ねするべきです。

しかし誤解してはいけません。
神は絶対的な主権者ですが、暴君ではありません。
善なる方、恵み深く、憐れみ深い方です。
この方以上に、信頼できる存在など、どこにもありません。
人格においても、能力においても、すべてにおいて、この方以上に信頼できる方はいません。
また、神は、聖書の言う通り、私たちをこの上なく、愛しておられます。
考えてみて下さい。
御子を下さるほどに愛されたということは、並大抵のことではありません。
キリストの十字架にあらわされた神の愛は、疑う余地を微塵も残しません。

そして神は、空想上の存在ではありません。
神は、生きておられ、事実、目の前の現実を支配しておられます。
私たちが漠然と思っている以上に、実際に髪の毛一筋に至るまで、支配しておられます。
神のお許しなしには、雀一羽、地に落ちることは決してありません。
私たちが直面する困難そのものも、当然、神はご存じです。
その困難に関するすべて、波及する事柄全ても、知り尽くしています。
その困難自体も、神の御手の中にあることなのです。
その中で、私たちがなしうることをなして、神に委ねるようにと導いているのです。
そのすべては、私たちの益のため、そして神の栄光のためです。

 神に信頼して、委ねることは、言うほど簡単なことではありませんが、それができたときには、心に平安をもたらすでしょう。
平安だけでなく、強さと忍耐する力も与えてくれるでしょう。
主にすべてを委ねた人ほど、強い人はいないと思います。
ある意味、無敵です。
そして自由です。
恐れるものが、何もなくなるのではないでしょうか。

そう言えば、今日の箇所には何度か、「イスラエル」という名が記されています(6、8、11節)。
「イスラエル」とは前に見たようにヤコブの別名、「神が戦われる」という意味です(32:28)。
私たちの肉の力を打ち、神ご自身により頼む者とならせるために、神が私たちと戦われることを示す名前です。
もちろん、神は右手で試練を与えながら、同時に左手で支えておられ、最後は私たちに真の勝利を、祝福を与えることを願っておられるのです。

 こんな例話があります。
ある日、一羽の傷ついた小鳥が、部屋に迷い込んできました。
その部屋の住人は可愛そうにと思って、捕まえて手当しようとしました。
ところが小鳥は、必死に逃げ回ります。
網を持って追い立てられて、あっちいったりこっちいったりと、窓ガラスや壁にぶつかりながら、必至で逃げ回ります。
しかしやがて力尽きて、ようやくその人の手に納まりました。

それで、薬を塗ってもらい、餌と水を十分に与えられて、回復することができました。
この小鳥が、もし、口をきくことができたら、こう言ったでしょう。
どうして容赦なく、網が私を追いかけてくるのですか。
私は追いつめられて、網にかかって、捕えられてしまいます。
神様、どうしてこんなふうに私を追いつめるのですか…と。
私たちもこの小鳥のようなことがあるのかも知れません。
善意の神が、私たちに真の癒しを、救いを与えようとして、どうにも逃れられないところに追いつめられる。

しかしそれは、神が私たちを救うために、私たちと「戦って」おられるのです。
それは、私たちが、残酷無比な敵の手に落ちると言うことではなく、私たちをこよなく愛し給う御父の御手に納まるため。
自分の全存在を丸ごと、神の御手に委ねるようになるため。
そうして本当のキリストの恵みを知り、本当の癒しにあずからせて頂くため。
神は、永遠の視点から、私たちの益となることを考えておられます。

 最後に覚えたいのは、目の前に直面した課題だけ見て、そのことを神の御手に委ねなければ…と思うより、もう少し視点を広げて、神は私たちの存在そのものを丸ごと、御手の内に引き受けて下さっていると覚えるとよいのかもしれません。
私たちの人生で出会う試練、苦難。
それらをすべてひっくるめて、私たちの人生そのものを丸ごと、神は引き受けておられる。
あの十字架上で、御子が私たちの罪のために、苦しみを受けて下さったことによって、神は私たちの存在そのものを丸ごと、贖って下さいました。
この上なく尊い代価を払って、私たちを神のものとして下さったのです。
そのことを深く思い巡らすときに、目の前の具体的な一つ一つのことも含めて、私たちの人生すべてが、すでに神の御手の中にあることと思えてくるのではないでしょうか。
目の前の課題というより、私たち自身を丸ごと、神にお委ねすることができたら、と思わされます。

あなたが握りしめているものは、何でしょうか。
神に委ねるべきなのに、委ねきれないもの、あるでしょうか。
それがあなたを不自由にし、恐れの原因となり、祝福をとどめていることは、ないでしょうか。
キリストの主権を認めて、すべてをお委ねして、キリストに従うことは、私たちに平安と強さと忍耐する力、それに自由を与えてくれることをもう一度、覚えて、最後に主イエス様の御言葉に耳を傾けましょう。

ルカ9:23-24、新約p130
9:23 イエスは、みなの者に言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。