<今日の要点>
真の神の民も、最暗黒の時を通らされることがある。
が、神が支えて下さる。春を待て。
<あらすじ>
2年続きの大ききんの中、エジプトには食物があると聞いて遠路はるばる、カナンの地からやってきたヤコブの息子たち10人。
「どうか穀物を売ってください」と地面に頭をこすり付けてエジプトの宰相にお願いしたところが、なんと顔を見ただけで、イキナリ、「お前たちはスパイだ!」と一方的に決めつけられてしまいました。
顔で決めつけられたのではたまりません。
まったく身に覚えのない言いがかりに、彼らも、そんな殺生な、とあれこれ弁明するも、いっこうに聞いてもらえず、アレヨアレヨという間に、ついに監禁。
スパイ容疑は下手をすると死刑ですから、これはいったいどうなることか…、とおののき、眠れない夜を過ごしました。
そして三日目に解放され、エジプトの宰相に言われたことは、彼らが言ったことが本当かどうか、家に残してきたという末っ子のベニヤミンをここに連れて来いということ。
それまで、一人を人質としてここにとどめておく、とシメオンを縛り上げられました。
縄を解かれた残りの9人は、「走れ、メロス」ではありませんが、一人残されるシメオンに「必ず、ベニヤミンを連れて戻ってくるからな」と約束して、帰路に着きました。
ところがエジプトの宰相、実は彼らの弟ヨセフは、ひそかに彼らにたっぷりの食糧と別に、もしや万が一、買いに来るお金が底をついているかもしれない、と気を回して、彼らが代金として払った銀貨も返していた。
そこまでが前回でした。
彼らは、エジプトを後にしてカナンへの帰路に着きました。
ろばに荷物を背負わせましたが、彼らの心にはもっと重い重荷がのしかかっていました。
彼らは思ったことでしょう。
「大変なことになってしまった。
これというのも、あのとき、弟ヨセフを怒りに任せて、エジプトの商人に売り飛ばしたからだ。
神が我々を罰しているのだ・・・。
それにしても、どうしたら父ヤコブを説得できるだろうか。」
ベニヤミンを溺愛しているヤコブは、すんなりと手放してくれるはずはなく、かといって、もちろんエジプトに残してきたシメオンを見捨てるわけにはいかず、頭を抱えながら、重い足取りでトボトボと歩いたでしょう。
さらに、そんな彼らの不安に、輪をかける出来事が起こります。
途中の宿泊所でのこと。
一人がろばに飼料を与えるために袋をあけると、なんと、払ったはずの銀が袋の中にあった。
ヨセフが善意で返しておいてくれた銀でしたが、彼らはこれを見て震えあがりました。
これではまるで、お金を払わずに盗んできたみたいではないか。
あれほど正直者ですと言ってきたのに、盗んだと濡れ衣を着せられては、今度こそ終わりだ・・・。
彼らはここでも、自分たちの罪に対する神の報いだと思って「神は、私たちにいったい、何ということをなさったのだろう。」
とさらに恐れるのでした。
確かに、私たちでも、例えば買い物に行って、レジの人の間違いで10円でもおつりを多くもらったら、悪い気がして返すでしょう。
それをまるまる払ったはずの銀が返されているというのです。
身に覚えのないスパイ容疑で監禁された後ですから、なおさらです。
しかし、同じ青ざめるのでも、彼らが曲がりなりにも神を知っていたと言うことは、不幸中の大きな幸いでした。
事柄の背後に神の御手を認めるのと、認めないのとでは、ずいぶんと、心持ちが違ってきます。
前の21節で「これも、あの二十数年前にヨセフに対してした悪の報いなのだなあ、」と身にしみて己の罪を告白し、ここでも「神は私たちにいったいなんということをなさるのだろう」と、神を認める。
そこに希望がありました。
これがまったくの偶然だとか、運命などという無機質なものの結果だったら、希望はなく、あきらめ、受け入れるしかないかもしれません。
しかし、恵み深く、憐れみ深い全能の神がなさったことであれば、望みがあるのです。
こうして彼らは、あおい顔をしてヤコブのところに戻ってきました。
シメオンが人質となっていること、シメオンを取り戻すためにはベニヤミンを連れていかなければならないこと、そのあたりの事情をかくかくしかじかと、前回見たようなことを説明して、何とかヤコブを説得しようとします。
しかし、それに対するヤコブの言葉は、何も記されていません。
沈黙しているのです。
ベニヤミンを連れていかれる、と聞いて、ヤコブはグッと言葉に詰まったのです。
素直に、「そうか、では仕方がない。
ベニヤミンを連れていってくれ、よろしくたのむぞ」と言えなかったのです。
おそらくヤコブも、ヨセフを失ってからの二十数年、いろいろなことを考えたでしょう。
どうも10人の兄たちの様子がおかしい。
そういえば、彼らはヨセフのことを快く思っていなかった、彼らは、気が荒く、短慮で、衝動的なところがある。
もしや、彼らがわざとヨセフが獣に襲われるように仕向けたのではないか、あるいは彼らはヨセフが獣に襲われているのを見ていながら、見殺しにしたのではないか、などと疑念が生じたのかもしれません。
この後36節では「あなたがたはもう、私に子を失わせている。」
という言い方をしています。
そんなことを思うと、この上、ベニヤミンにもし、万が一のことがあったら…と思わずにはいられない。
いや、ヤコブにすれば、万が一などではない。
実際、ヨセフは野原で獣にかみ裂かれてしまった。
その万に一つに当たってしまった。
実際はエジプトで生きていたのですが、ヤコブは息子たちにだまされて、そう思い込んでいました。
ヤコブも、他の10人のことも、もちろん憎いわけではありませんが、ヨセフとベニヤミンは特別。
そしてヨセフなきあとは、ベニヤミンは老ヤコブにとって最後の宝でした。
ヤコブは、固く口を閉ざすのみでした。
そこにもってきて、ヤコブの不安を助長するようなことが起きました。
代金に支払った銀が返されていたのは、一人ではなかった。
袋を開けてみたら、全員、返されていた。
これでヤコブの思いが一気に噴き出しました。
36節ヤコブの悲痛な叫びです。
「父ヤコブは彼らに言った。
『あなたがたはもう、私に子を失わせている。
ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。
そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。
こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。』」
「こんなことがみな、私に降りかかってくるのだ。」
という一言に、この時のヤコブの心境が表れています。
まるで神が、ヤコブめがけてありとあらゆる災いを投げつけているように思われたのでしょう。
そんなヤコブを見て、ルベンは長男としての責任感からか、なんとか説得を試みます。
「もし、私が彼、ベニヤミンを、あなたのもとに連れて帰らなかったら、私の二人の息子を殺しても構いません。」
とまで言います。
もちろん、ルベンの子はヤコブにとって孫です。
ベニヤミンを失ったからと言って、孫2人の命を取るなどということは、全く意味のないことですし、できようはずもありません。
ただ、自分たちに悪意はないこと、精一杯命に代えても、ベニヤミンを守るつもりであると言う、意志をあかしする言葉なのでしょう。
しかしもう、ヤコブには何を言っても駄目でした。
ルベンの言葉にもろくに耳を貸さず、ヤコブはいったんベニヤミンを手放したら最後、失ってしまうとしか考えられませんでした。
これまでの災難続きの人生で、そういう思考回路ができてしまっていたのでしょうか。
38節、ヤコブの悲痛な叫び、その2です。
「しかしヤコブは言った。
『私の子は、あなたがたといっしょには行かせない。
彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。
あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。』」
お前たちは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせる事になるのだ。
それでもベニヤミンを連れていくと言うのか・・・。
最後は泣き落としです。
ここまで言われたら、もう、彼らは何も言えませんでした。
このあたりには、ヤコブの口から神という言葉が出てきません。
深く傷つき、嘆きや怒りで心が占められ、前向きな気持ちで神に心を向けることができなかったのかもしれません。
ヤコブの生涯の最暗黒のときでした。
「いかに恐るべき ことありとも」新聖歌311番
人の一生は、人それぞれです。
ヤコブのように、災難が自分めがけて飛んでくるかのようなときを経験する人もいれば、そういうこととはほとんど無縁に、穏やかな一生を終える人もいるでしょう。
私たちの側からすれば、穏やかな一生が望ましいと思いますが、お決めになるのは神ですから、どちらがよくで、どちらが悪いとかは、人間が言うことではありません。
すべては創造主なる神が、ご自身の究極の権威をもって、御心のままに、お決めになっていることです。
自分が災いに会わないのが、まるで自分が良いからとか、賢いからであるかのように誇るのは、愚かですし、反対に、苦難の集中砲火を浴びているかのように思えるからと言って、自分が神に憎まれている、嫌われていると思うのも、誤解です。
大いなる誤解です。
ヤコブを見よ、です。
神の民イスラエルの祖ヤコブ。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、と後々並び称されるに至ったヤコブ。
間違いなく、彼は、神に愛されている神の民です。
その彼が、このような最暗黒のときを通らされていたのです。
むしろ、聖書は、神は愛する者を懲らしめるとさえ、書いているではありませんか。
(ヘブル12:5-13、新約p440-441)
私たちの長老教会が採用している信仰基準に、「ウェストミンスター信仰告白」というものがあります。
その第18章「恵みと救いの確信について」4節に以下の文章があります。
まことの信者も、自分の救いの確信を維持することの怠慢、良心を傷つけ・御霊を悲しませるある特殊な罪に陥ること、ある突然の激しい誘惑、神が御顔の光を隠されて神を恐れる者をさえも、闇の中を歩き、光を持たないままにしておかれることによる、など種々の方法によって、それ(=救いの確信)を動揺させ、減らし、中断させることがある。
しかし彼らは決して、神の種(=みことば)と信仰の命、キリストと兄弟とへの愛、義務を行う心と良心の誠実さ、を全く欠いているのではない。
(くすぶる炭火のように、外からは良く見えなくても、これらのものは、その人のうちに残っている。
)これらから、御霊の働きによって、適当な時にこの確信が回復され、またこれらによって、全くの絶望に陥らないよう、その間、支えられている。
まことの信者、神を恐れる者でさえも、神が、あたかも御顔を隠されたかのように感じられるときがある、というのです。
この時のヤコブも、そう感じていたでしょう、間違いなく。
しかし、それでもそれは、神に愛されていないからでは決してない。
人生には、晴れの日もあれば、雨の日もあっていいのです。
ただ、希望を捨てないこと、信仰を手放さないことです。
苦難に打たれているときは、積極的に希望を高く掲げて、ハレルヤ!と踊ることはできなくても、うなだれながらでも、信仰を、希望を手放さないこと。
神への思いを、キリストへの思いを捨ててしまわないことです。
ヤコブも、わが身の不幸を嘆きながらも、なお、神を捨てませんでした。
こんな目にあわせる神なんか!とたたきつけませんでした。
これが本物の、心に神の種が深く植えられた信仰でした。
そして実は、ヤコブが、これほどの厳しい試練にあいながら、信仰を持ち続けることができたのも、神からの恵みでした。
以前引用しましたが、神は、右手で災いをもたらしながら、左手で支えておられる、とカルヴァンが言う通りです。
彼のうちには、くすぶるようにしてかもしれませんが、神への信仰が残され、神の約束を手放すことは、なかったのです。
外には厳しい試練に直面しなければならないとしても、内にはなお、信仰の火が消えないよう、主は、聖霊の油を注ぎ続けておられたのです。
信仰は、与えられるときも、その後、持ち続けることにおいても、最初から最後まで神の恵みであり、神の御業です。
神の御業なのです。
そして、時至れば、神が、御霊の働きによって、確信を回復して下さる。
再び、立ち上がらせて下さるのです。
明けない夜はないと言います。
むしろ、夜明け前が一番、闇が濃いとも。
最暗黒は、出口が近いことのしるしかもしれません。
冬来たりなば、春遠からじ、とも言います。
ヤコブもこの後、明るい朝を、喜びの春を迎えます。
望外の歓喜の春を。
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