<今日の要点>
キリストの十字架で流された血潮だけが、罪責を取り除くことができる。
<あらすじ>
ときは、紀元前19世紀頃のことと思われます。
当時の中近東世界一帯を襲った大ききんは、多くの犠牲者を出しかねないものでしたが、エジプトだけは神の人ヨセフの活躍により、十分に食糧が備蓄され、しかも、ありがたいことに、それはエジプトの分だけでなく、世界中の人々を助ける分までありました。
それで「エジプトに行けば食べ物があるぞ」という噂は人から人へと広がって、世界中から続々と人々がエジプトのヨセフのところに押し寄せてきた。
そこまでが、前回のお話でした。
その噂は、遠くカナンの地にいたヨセフの父ヤコブの所にも届きました。
この地も例外ではなく、ヤコブたちも食糧が底を尽きかけていました。
周りの人たちはこぞってエジプトに買い出しに行きます。
ところが、どうしたことか、ヤコブの息子たちの様子がおかしい。
すぐに買い出しに行くかと思いきや、彼らは互いに顔を見合わせるばかりで、グズグズしている。それもそのはず。
彼らは今を去ること22年ほど前に、腹違いの弟ヨセフをエジプト行きの奴隷商人に売り払っていたからです。
エジプトと聞くと、ズキンと彼らの心に痛みが走ります。
あの時は父に偏愛されているヨセフに嫉妬し、憎たらしくて、前後の見境なくあんなことをしてしまったが、あいつは今頃、どうしているだろうか…。
生きているのだろうか、それとも…。
怒りに任せて暴走した後は、後味の悪さをいつまでも引きずるものです。
また、エジプトに行って、万が一にもヨセフにバッタリ会いでもしたら、とも頭をよぎったでしょうか。
絶対ないとは言い切れない。
そんなことを考えて、気が重かったのでしょう。
それで見かねた父ヤコブは「おまえたちは、なぜ、互いに顔を見合って、手をこまねいているのか。
エジプトには穀物があるそうだから、行って買って来なさい。」
と尻を叩いたのでした。
背に腹は代えられません。
彼らは仕方なく、重い足取りでエジプトに向かいました。
ただし、ヤコブは、ヨセフの弟ベニヤミンだけは、行かせませんでした。
最愛の妻ラケルの遺してくれたベニヤミンをヤコブは偏愛していたので、万が一にも、彼にわざわいが降りかかるといけないと思ったからです。
こうして10人はエジプトに着き、穀物を売ってくれるところに案内されました。
世界中から集まった人々でごった返していたでしょうか。
そこにはヨセフがエジプトの権力者として、采配を振るっていました。
やがて順番が来て、兄たちはおずおずと進み出て、頭を地面にこすりつけました。
昔、ヨセフが見た夢、神が見させた預言の夢が、ついに実現したのです(37:6―8)。
6節「ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。
ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。」
こうしてヨセフの前にひれ伏した兄たちですが、目の前のエジプト高官がヨセフだとは、夢にも思いません。
ヨセフは17歳でエジプトに売られ、それから山あり谷ありでこの時はおそらく39歳ほどだろうと思われます。
22年隔てて、しかもエジプトの宰相として、立派なエジプト風の衣装に身をまとい、通訳をおいて話している目の前の人物が、まさか自分たちが奴隷として売り渡したヨセフとは、気づかないのも無理はありません。
他方、ヨセフの方は、兄たちを見てすぐにそれとわかりました。
が、彼らに対して荒々しく振舞い、挙げ句の果てに、彼らをスパイ呼ばわりして監禁所に放り込んでしまいました。
ヨセフも、こうして突然、兄たちを目の前にして、昔のことを思い出し、怒りが込み上げてきたのかもしれません。
ヨセフとて生身の人間。
そういう感情が出て来るのが自然です。
ただその感情に飲み込まれて、取り返しのつかないことをしてしまったら、あとで一生後悔することになります。
ヨセフは、エジプトの宰相ですから、その気になれば兄たちをこの場でひっとらえて、極刑にすることもできました。
が、ここでも、神がヨセフをそんな落とし穴から守って下さいました。
ヨセフは、最初は激しい感情に突き動かされたかもしれませんが、すぐにあの例の夢のことを思い出しました(9節)。
神が思い出させてくれたのでしょう。
あの夢が思い浮かんだことで、兄たちに対する憎しみ、怒りが消えた。
その瞬間に切り替わったのではないか。
これは神がなさったことだったのだ、あの、神が見せて下さった夢の実現なのだと。
ヨセフは神が与えた夢を思い出すことによって、正しい道を踏み外さずに済みました。
彼の場合は夢でしたが、今は御言葉です。
人生にはあちこちに落とし穴があります。
御言葉は私たちをそれから守ってくれるものです。
御言葉によって足元を照らして歩むことの幸いです。
ところで、ヨセフが見た夢の一つは、父ヤコブも、弟ベニヤミンも、ヨセフを伏し拝むというものでした(37:9)。
それでヨセフは、神の御計画は、父ヤコブとベニヤミンもここに来ることだと理解したでしょう。
ただし、ここですぐに正体を明かして、ヤコブとベニヤミンを連れてきて下さい、とは言わず、まずベニヤミンを連れて来いと命じたのは、ヨセフが兄たちを試すためだったと思われます。
兄たちがあのことをどう思っているのか、悔い改めているのか、確かめなければ。
ヨセフが正体を明かすのは、その後ということでしょう。
ヨセフは怒りに駆られて兄たちに仕返しをしなかったと同時に、かといって、そのまま無罪放免ともせず、悔い改めの実を確かめることにしたのです。
ヨセフは、彼らを監禁所に入れました。
彼らは、恐怖を感じたでしょう。この先どうなることか、と。
我が身をつねって人の痛みを知れ、と言います。
理由なく苦しみを受けることがどういうことか、明日の命もわからない恐怖の夜を過ごすことが、どういうことなのか、身に染みて味わう必要がありました。
他方、ヨセフにとっても、この三日間は、兄たちをどう取り扱うか、神に祈り、また寄せては返す波のようにわいてくる感情との葛藤を乗り越えるのに必要な時間だったでしょうか。
人を心から赦すには祈りが必要です。
三日後、ヨセフは再び彼らを呼び出し、改めて命令を下しました。
最初は9人エジプトに残して1人だけ帰らせ、弟を連れてこいと言いましたが(16節)、今度は一人だけ残して、あとの9人を帰そうと言いました。
父ヤコブが受けるショックを考えたのでしょうか。
それで9人は帰れることになりましたが、一人を見捨てるわけにはいかない。
必ずベニヤミンを連れて戻って来なければいけません。
しかしそれ言ったら、父ヤコブが嘆きを深くするのは目に見えています。
それを思うと、またも心が締め付けられるように痛む彼ら・・・。
この苦しみの中で、彼らの口から思わず、本音が漏れました。
21節「彼らは互いに言った。
『ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。
あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。
それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。』」
22年前の非情な行いを悔い、嘆くのでした。
今頃、悔いても始まらないのだが、悪いことをしたと心を痛めるのです。
なんだかんだ言っても、神の裁き・懲らしめがないと、心底、悪かったと思えないという面が人間にはあるのではないでしょうか。
さらに長男のルベンが「あのとき、私は彼に罪を犯すなと言ったのに、お前たちは・・・」と他の9人を責めます。
それを黙って聞くしかない9人。
彼らは、近くにいるのがヨセフだとは知らずにですから、芝居でなく、本心でした。
こんな彼らの言葉を耳にして、ヨセフは耐え切れず、彼らから離れて一人泣きました。
兄たちもこの22年間、苦しんでいた・・・。
それはヨセフの心を大いに慰めたでしょう。
しかし、これだけではまだ、正体を明かすことはできません。
ヨセフは兄たちが悔いているだけでなく、悔い改めているか、試す策を次に用意していました。
なので己を制し、再び鬼のお面をつけて芝居を続けます。
エジプトに残す一人としてシメオンを取って彼らの前で縛り上げました。
かつてヨセフが奴隷として売られたときにそうされたように。
本来なら、長男のルベンが責任を問われるところだったでしょうが、ルベンは止めようとしたことを聞いて、次男のシメオンになったか。
また、シメオンは血の気が多かったようなので(34:25,49:5)、かつて、一番張り切ってヨセフを縛り上げたのかもしれません。
縛り上げられたシメオンは今、恐怖におびえ、あの時のヨセフの恐怖を思い知らされるのです。
しかし、ヨセフは心の中ではすでに兄たちを赦していたのでしょうか。
カナンに帰る9人には穀物をいっぱいに満たし、それとは別に道中、彼らが食べるための食糧も与えました。
また彼らが払った銀も返しました。
すでに2年も続いていたこの大ききんの中、もし万が一、お金が尽きていたら困るだろうという心遣いでしょうか。
表向きは、こわもてで接していますが、すでに恵み深く彼らに施さずにはいられない。
この点でもヨセフはキリストを表しているようです。
神が、私たちに試練を与え、苦しみを与えているときでも、その御腕をたどって行けば、そこには目に涙をたたえておられる神の御顔があるのです。
<イエスよ血潮を われに注ぎて 今よりわれを きよき宮とし>新聖歌112番
今日のところでは何といっても21節のヨセフの兄たちの口から図らずも漏れた、罪を悔いる言葉が心に残ります。
22年前のことを昨日のことのように思い出して、ずっと重い心を引きずっていたことをうかがわせます。
羊を飼っているときも、夜、寝るときも、何をしていても、罪責感が離れることがなかったでしょうか。
過去に犯してしまった罪を消すことはできません。
よく、時が私たちの心を和らげると言いますが、そうではありません。
罪を消すことができるのは、時間ではなく、イエス・キリストが十字架で流された血潮だけです。
神が下さった御子イエス・キリストの十字架の御業だけが、罪そのものと、私たちの良心に刻まれた罪責感とを洗い流すことができるのです。
キリストの血潮によって、罪の赦しと罪責感から解放を得るためには、悔い改めと神への信仰が必要です。
まず、ヨセフの兄たちはここで自分たちは罪のゆえに、こんな苦しみにあっていると認めることができました。それは恵みでした。
カルヴァンは言います。
「神は、時には、罪を犯してすぐあとに、すぐにそれが神からの裁きだとわかるように懲らしめを与えることもあるが、また時には、長い期間を置いて、忘れ去った頃に意外な方向から、懲らしめを与えることもある。
それゆえ、ヤコブの子らのように、懲らしめにあったときには、聖霊の助けによって、できるだけ謙って、自らの非を数え上げ吟味してみるべきである。
というのも、人は、もっとも大きな苦しみに会って、戒めを受けていながら、なお、それを神からの懲らしめとして、己の罪を真剣に思い、悔い改める者は実にまれなのだから。」
神は外側からの懲らしめと、内側からの聖霊の導きによって、私たちを悔い改めへと導かれます。
そこに聖化も癒しもあるのです。
自分の罪を認めずに周りのせいにばかりしていては、重荷をおろすことはできません。
そこに真の平安はありません。
そして罪そのものと、罪責感からの解放のためには、神に対する信仰が必要となります。
本当の意味で罪を赦すことができ、罪の赦しを宣言することができるのは、神お一人です。
本当の意味で人を裁くことができるのは、神お一人であるように、罪を赦し、赦しの宣言をすることができるのもそうなのです。
神には、完璧に罪に定める権威もあれば、完璧に罪を赦す権威もあるのです。
神に栄光を帰して、神の権威を認めましょう。
そのとき、神の口から発せられる罪の赦しの宣言にも権威があることが分かり、完全な罪の赦しを心から確信することができるでしょう。
その、人の罪を赦す権威のある方が、こう言われます。
イザヤ1:18(旧約p1127)
「さあ、来たれ。
論じ合おう」と【主】は仰せられる。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
第一ヨハネ1:9(新約p465)
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
最後に、主イエス様のこの宣言を聞かせて頂きましょう。
マルコ 2:5(新約p66)
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、
「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
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