礼拝説教要旨(2021.3.28)
マナセ、エフライム
(創世記4146-57) 横田俊樹師 
<今日の要点>
神は、慰めの神。
私たちが受けた苦しみに倍する慰めを与えずにはおかない。

<あらすじ> 
46節「ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは三十歳であった。
ヨセフはパロの前を去ってエジプト全土を巡り歩いた。」
父ヤコブにことのほか、愛され、特別扱いされていたヨセフが、一転、エジプトに売られ、奴隷とされたのがまだ17歳のことでした。
言葉も文化も習慣も何もかも違う異国の地で、見ること聞くことすべてが初めてという日々。

しかもその後、せっかく主人に認められていたのに、主人の妻から濡れ衣を着せられて囚人として牢獄へ突き落された。
無実の罪で地下牢に閉じ込められる残念・無念のほどやいかに…。
そして獄中で出会った頼みの献酌官長にも忘れられて二年、待たされました。
ここまで13年の、忍耐の歳月が経っていました。
それが、ようやく神の時が来て、地下牢から王宮へと一気に引き上げられ、これから訪れる大豊作と大飢饉に備えて、エジプト全土を治める大役に着いたのでした。

ヨセフは、全エジプトを治めるにあたって、まず現地を見て回りました。
ヨセフは、現場主義の人でした。
土地や人々の様子、どれくらい収穫が見込めそうか、見積もり、倉庫を建てる準備もし、また現地で実際に事を行う監督を選び、任命して回りました。
そして神がヨセフを通して示された通り、豊作、豊作、大豊作の七年が来ました。
人々が喜び、浮かれている間に、ヨセフは将来を見据えて町ごとに食糧を貯えました。
これくらいあれば、大丈夫だろう、と普通は思われる量をはるかに超えても、まだまだ。
何しろ、そのききんの厳しさは、ガリガリにやせた牛が、まるまる太った牛をペロリと飲み込んでも、飲み込んだのがわからないほどだったという、あの印象的な夢に示されていたので、気を緩めず、できるだけ蓄えました。
あまりに多くて量りきれなくなるほど集めました。
中には、反発する人も出たでしょう。
去年もその前もその前も大豊作だった。
その大ききんとやらは、本当に来るのか?と。
そんな声を押し返して、ヨセフは手を緩めず、できる限りたくわえました。
そのおかげで、エジプトも世界も生き延びることができるのです。

ところで、豊作は農作物ばかりでなく、ヨセフの家庭にも訪れました。
2人の胎の実が実りました。

51節「ヨセフは長子をマナセと名づけた。
『神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた』からである。」
忘れる君とは、なかなかいない名前でしょう。
しかしその言われを知ると、胸が熱くなります。
神が、ヨセフのこれまでの苦労を忘れさせてくれたからと。
良かった、ヨセフが報われて…と思います。
「私の父の全家を忘れさせた」これまでは、懐かしい父を思い、望郷の念に駆られて涙することもあったが、今はそうではない。
この地で十分に幸せになった。
それから二人め。

52節「また、二番目の子をエフライムと名づけた。
『神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた』からである。」
こちらは実くん。
苦しみが忘れ去られただけでなく、実り多くなりました。
「苦しみの地で」まさに、苦しみのあった場所で豊かに実を結びました。
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」。
「泥中の蓮」という言葉もあります。
蓮が泥沼の中できれいな花を咲かせるように、ヨセフは苦しみの地できよらかな霊の花を咲かせました。
それはヨセフ自身が言っているように、神がそうさせて下さった、神の御業でした。
この豊作の年々は、ヨセフにとって、これまでの苦労をいたわるかのような、神からの祝福のときでした。

さて、神の時計の針は、止まることなく動いていました。
大豊作の七年が終わると、ついにききんが来ました。
豊作の方は、エジプト限定だったかもしれませんが、ききんの方はエジプトのみならず、全世界に及びました。

53-54節「エジプトの地にあった豊作の七年が終わると、ヨセフの言ったとおり、七年のききんが来始めた。
そのききんはすべての国に臨んだが、エジプト全土には食物があった。」
最後の「エジプト全土には食物があった」というのは、まだ最初のうちは各家庭にも、たくわえがあったということでしょう。
しかしそれもすぐに底をついて、パロに食物を求めるようになります。

55節「やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。
そこでパロは全エジプトに言った。
『ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。』」
パロはすっかり、困ったときのヨセフ頼み。
ヨセフもその期待に応えました。
56節「ききんは全世界に及んだ。
ききんがエジプトの国でひどくなったとき、ヨセフはすべての穀物倉をあけて、エジプトに売った。」
全世界を襲っている大ききんの中、彼らはヨセフのおかげで安心でした。
もしヨセフがいなければ、パロにはこの事態に対処するだけの力はなく、全国的に米騒動、打ちこわし、一揆などが起こり、治まらなかったかもしれません。
犠牲者が多く出ていたかもしれません。

 さらにエジプトは危機を乗り越えただけでなく、全世界に向けて威光を高めることにもなりました。
57節「また、ききんが全世界にひどくなったので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た。」
ここの「全世界」は古代中近東世界のことと思われますが、世界中から人々がヨセフのもとに食物を買いに来たのです。
こうして、ヤコブ一家がエジプトに移住する状況が整えられていきました。

未曾有の大ききんが世界を襲い、絶滅の危機にさらされたときに、ヨセフはまさに救世主でした。
食べ物がなくなって、このままだとみな死んでしまう。
しかし、ヨセフのところに行けば、食べ物が手に入り、生き延びることができる。
ヨセフはこの点でもキリストを象徴していました。
キリストを信じる者は、永遠の滅びからまぬかれ、永遠のいのちを得られるのです。
キリストは、わたしはいのちのパンです、と仰っていました。

 <天の力に 癒し得ぬ 悲しみは 地にあらじ>新聖歌443番
 今日はヨセフの息子たちの命名にちなんだ言葉に注目したいと思います。
51節「ヨセフは長子をマナセと名づけた。
『神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた』からである。」
52節「また、二番目の子をエフライムと名づけた。
『神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた』からである。」

こう並べてみて、2つのことに気づきます。
一つ目は、どちらにも「労苦」「苦しみ」という言葉が入っていることです。
51節では「私のすべての労苦」一つ二つではない、多くの苦しみだったことがうかがわれます。
52節では「私の苦しみの地」17歳で連れて来られてからの13年間もの長きにわたって、ここは苦しみの地でした。
ヨセフは素直な、まっすぐな信仰を貫いてきましたが、だからと言って苦労がなかったではなかったし、苦労を苦労と感じなかったわけでもなかった。
ヨセフも木石ではないし、心がコンクリートでできているわけでもありません。
つねれば痛いし、切れば赤い血が吹き出す生身の人間です。
人から心無い言葉や扱いを受ければ、平常心ではいられず、眠れない夜もあったでしょう。
ヨセフも苦しんだのです。
ただその苦しみの中で、怒りや絶望、嘆きの感情の中に溺れてしまわなかった。
苦しみの中で、葛藤を経ながらも、最後は神への信仰が勝利した。
神の恵みによって、聖霊によって、信仰の試みに勝利したということでしょう。
彼は、神に信頼することをやめませんでした。
またその信仰が彼の心を支えるものともなっていました。
心と信仰は、お互いに補完しあうものです。

 そして二つ目。
どちらにも「神が」とすべてを神がなさって下さったことと、神を指さしていることです。
神が、私のすべての労苦を忘れさせて下さった。
神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者として下さった。
苦しみを忘れることも、苦しみの地で実り多い者となることも、神がなさったこと。
神なしにはあり得ないことだった。
そのことをヨセフは、ハッキリと知っていたのです。

苦しみは、神が忘れさせてくれるもの。
神でなければ、癒すことのできない苦痛というものが、世の中にはあります。
どんな人の言葉も善意も届かない、響かない、そんな苦しみ。
また、この苦しみを、神が忘れさせてくれる時が、果たして来るのだろうか、と思うこともあるでしょうか。
そんなときなど、永遠に来ないように感じられる…。
神でも、この苦しみは癒すことができないのではないか。

いや、癒されてはいけない、癒されてたまるか…と思うこともあるかもしれません。
しかし、それでも、です。
やはり神にあって、―ただ神にあってのみー完全に癒されるときが、来るのです。
神は全知全能の神であり、神は慰めの神です。

第二コリント1:3-5(新約p345)
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

 神は慰めの神です。
苦しんだ魂を慰めずにはおかない神です。
たとえそれが、自分の蒔いた種であったとしても、です。
悔い改めの機会を何度与えても、頑なに拒み続け、神に背を向けて偶像崇拝に走ったイスラエルを、神は一度は裁きを下し、懲らしめましたが、その後はあたかも神ご自身の方がこらえきれないかのように「慰めよ、慰めよ」と語りかけます。

イザヤ40:1-2(旧約p1187)
40:1 「慰めよ。慰めよ。
わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。

40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。
これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」

罪の報いを受けて、十分に苦しみ、悔い改めた魂には、二倍のものをもって慰めずにはいられない神なのです。
ましてや、罪ゆえではない苦しみに対しては、なおさらです。

Worth it all という賛美があります。
(検索はworth it all brooklyn tabernacleで。
同じ題で違う歌があるため)私訳した歌詞(一部)を記します。

しばしば 私たちには 理解できないことがあります
地上の生涯でふりかかる苦しみ
神には完璧なご計画があると 信じているけれども、
ときどき、なぜ…?と疑問を感じてしまうのです
泣き続けて 溢れ流れた涙
眠れない夜々

やがて すべてのことが それだけの価値があったとあきらかになるでしょう
あれほどの経験をしたこともすべて それだけ価値があったとわかるときが来るでしょう
その日には すべての恐れは消え
すべてのことに その価値があったとわかるでしょう
私たちが安息の地に着き
イエス様の御顔を見る、その瞬間
私たちがイエス様を見つめる、そのとき
すべてのことに その価値があったとわかるのです
歴史の最終章、ゴールでは、神ご自身が私たちの涙を完全にぬぐい取って下さいます。
完全に、です。
ヨセフが、それまでの苦しみをすっかり忘れ去ったと言い得たように、そのとき私たちも、そのように心から言うことができるのです。
今は信じられないかもしれませんが。ただ神にあって、です。

最後に、黙示録21:3-4(新約p500)
1:3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、
1:4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」