礼拝説教要旨(2021.3.21)
地下牢から王宮へ
(創世記41:1-45) 横田俊樹師 
<今日の要点>
神はどんなところにでも、道を造ることがお出来になる。
神に希望を置くべし。

<あらすじ> 
1節「それから二年の後」前回見たように、ヨセフが夢を解き明かした通りに、献酌官長がパロに再び召し抱えられてから二年ということです。
ヨセフは献酌官長に、元の職に返り咲いたあかつきには、私のことをパロにとりなして下さい、私は何も悪いことをしていないのですから、と頼んであったものの、すっかり忘れられていた忍耐の2年間。
しかしついに神の時が来ました。
ヨセフが知らない所で神が動きました。
エジプト王パロに、ある夢を見させたのです。
当時の大国エジプトの王も、神の御手の中で自由自在です。

 ある夜、パロは二回、夢を見ました。
一つ目。パロはナイル川のほとりに立っていた。
「母なるナイル」「エジプトはナイルの賜物」と言われます。
雨が降らないエジプトでは、農業は、定期的に氾濫するナイル川にかかっていました。
そこに、最初はつやつやした、肉付きの良い、(おいしそうな!?)七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草を食んでいた。
これだけなら福々しい絵。
ところが次の展開がパロを不安にしたのでしょう。

今度は、ガリガリにやせ細った雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる肥えた雌牛のそばに来たかと思うと、それをペロリと食い尽くしたというのです。
ガリガリのやせたのが、まるまると太ったのを飲み込んだのです。
やせの大食い。
しかも後でパロが言った所によると、食べたのがわからないくらい、食べた後もやせ細ったままだったと言います(21節)。
そこではっとパロは目が覚めました。

何か、あまり気持ちのいい夢ではないな、と思いながらも、再び眠りにつくと、今度は、肥えた良い七つの穂が、一本の茎から出ていた。
するとすぐそのあとから、東風―聖書ではしばしば乾燥した熱風で、作物を枯らすものとして出てきますーに焼けた、しなびた七つの穂が出てきた。
そしてしなびた穂が、あのまるまると肥えた七つの穂を、これまたペロリと飲み込んでしまった。
そこでパロは目が覚めた…。

詳しい解き明かしはわからなくても、何となく不吉なものを感じそうな夢です。
国政を預かっているパロとすれば、なおさらです。
朝になってもパロは、心にトゲが残っているようで落ち着きません。
当時、こういうことに詳しいとされたエジプトの誇る呪法師たち、知恵者たちを呼び寄せましたが、誰もその意味を解き明かすことができません。
パロの不安はいやがうえにも増幅します。

しかし、人の力の尽きるところが、神の力の現れるところ。
ここに来てようやく献酌官長は、ヨセフのことを思い出しました。
夢の解き明かしと言えば、あのヨセフという若者の解き明かしは、見事なものだった、と思い出すや、ようやくパロにかくかくしかじか、とヨセフのことを言ったのです。

神の時がついに来ました。
これを聞いたパロは、すぐさま伝令を地下牢のヨセフのもとに遣わします。
いよいよです。
地下牢にいるヨセフに、ある日突然、王宮へ来るようにと、パロからお呼びがかかりました。
パロの一声で、ヨセフはこの日を境に地下牢から王の宮殿へと一気に引き上げられました。
一日のうちに、です。
すべてがガラリと変わりました。
時至ってなされる神の御業の鮮やかさよ、です。
ヨセフは、パロの前に出るのに、ひげをそり、着物を着替えて、とたたずまいを整えました。
この世の秩序も軽んじない、礼節をわきまえたヨセフです。
これも大切なことです。
ちなみに、当時男性はヒゲを生やす事が一般的だったのですが、エジプト人はヒゲをそる習慣があったようです。
ツルツルです。

 こうしてパロの前に呼び出されたヨセフ。
パロが、お前は夢を解き明かすことができるということだが…、と聞くと、それに対するヨセフの答えがまたヨセフらしい、まっすぐな答えでした。
16節「ヨセフはパロに答えて言った。
『私ではありません。
神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。
』」誰に対しても変わらないヨセフ。
礼儀を重んじつつ、神への信仰はパロに対してもハッキリと言い表す。
以前、献酌官長たちに対しても「夢を解き明かすのは、神がなさることではありませんか。」
と言ったヨセフは、パロに対しても、「私ではありません。」
といわばパロの言葉を否定して、「神が」と神を指さします。
すがすがしいヨセフ。
しかもこれは、取ってつけたような、単に謙遜ぶった言葉でないことは、このあと、25,28,32節でも「神が」「神が」「神によって」「神が」と繰り返されていることからも、うかがわれます。
主がともにおられることを、すべてにおいて実際に経験していたヨセフは、額面通り、神がすべてをなさっていることを心から実感していたのでしょう。

17節以下、パロはヨセフにかくかくしかじかと、夢を知らせました。
それに対するヨセフの答えがまた単純明快。
いわく、パロの見た二つの夢は、一つのことをあらわす。
七頭の立派な雌牛も七つの立派な穂も七年のこと。
そのあとに出てきた七頭のやせた雌牛も、東風に焼けた七つの穂も同じ。
それはききんの7年。

ここで、なに?ききんじゃと?それも7年も!と驚くパロのために一呼吸おいて、もう一度、「これは、私がパロに申し上げたとおり、神がなさろうとすることをパロに示されたのです。」
と挟んで、さらに続けます。
今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れる。
そのあと、七年間のききんが来る。
それは非常に厳しいききんのため、先の豊作が跡形もなくなり、地も荒れ放題になる。
夢が二度繰り返されたのは、神が、確かに、またすみやかにこれをなさるからです…と。
ナイル川は農業の源泉で、雌牛は農業のシンボル。
言われてみれば、なるほど、納得です。

 そしてヨセフは、夢の解き明かしだけで終わりません。
どう対処したらよいか、ききん対策も進言します。
ヨセフは管理の賜物、治める賜物の人ですから、むしろこちらが本領発揮です。
どなたか、有能な人をエジプトの国の上に置き、その人のもとで現地で事を行う監督官を国中に任命して、農作の七年の間にエジプトの地に備えをするように。
ちなみに34節は、原文では「五分の一を徴収するように」です。
口語訳、新共同訳、新改訳2017ではそう訳しています。
そして集めたものをパロの権威のもとに、町々に蓄え、保管させ、それをききんの七年のための備えとするという。
全エジプトをあげての食糧備蓄政策です。

 この提案は、パロとすべての家臣たちの心にかないました。
パロは家臣たちに向かって言いました。
38節「…神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
当時は神権政治、つまり宗教が政治において最高の権威を持っていましたから、「神の霊の宿っている人」は、最大級の賛辞です。
パロはすぐさま、この難事業をヨセフにあたらせると家臣たちの前で宣言しました。
39-40節
「パロはヨセフに言った。
『神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。
あなたは私の家を治めてくれ。
私の民はみな、あなたの命令に従おう。
私があなたにまさっているのは王位だけだ。』」

ヨセフに丸投げです。
虎視眈々と地位を狙っていた古株の廷臣たちの頭を飛び越えて、パロ自らの大抜擢により、一気にエジプト全土を支配する宰相となりました。
42節の指輪は、王の印鑑のこと。
亜麻布の衣服は高価なもので、金の首飾りとともに、その地位にふさわしい威厳をあらわすのでしょう。
そしてパロに次ぐ第二の車に乗せて、ヨセフを人々の前に知らしめました。
国家規模の、それも七年にわたる大豊作の中での食糧備蓄という難事業にあたらせるには、このようにヨセフの威厳を周知しておく必要があったのでしょう。
大豊作が七年も続くと気が大きくなり、放っておくと、あればあるだけ飲めや歌えや、となりがちなもの。
バブルの時に一晩で何百万円も浪費した人たちがいたように。
人々が浮かれている中に、先を見据えて備えをするのが、本来の政治であり、そのための権威です。
このとき、人々からちゃんと食糧を供出させるには、パロの権威とヨセフの知恵が必要でした。

ところで、あのポティファルの妻は、この光景をどういう気持ちで見たのでしょう。
血の気が引いたでしょうか。
少しは懲りればいいのですが。神の裁きはあるのです。

 パロはヨセフに「ツァフェナテ・パネアハ」というエジプト名を与えました。
諸説ありますが「神は語り、神は生きておられる」の意とも言われます。
またオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを妻として与えました。
「オン」は、のちのヘリオポリス(太陽の都)。
その神殿の祭司の娘です。
エジプトでは祭司は上流階級でしたから、いわば名門の、それも有力な祭司の娘を迎えたことになります。パロの気配りでしょう。

それにしても、ヨセフは、こんな異教の神々だらけの環境にいたのでした。
その偶像ずくめの真っただ中に、真の神を信じるヨセフが高く上げられ、彼によって全世界が滅びから救われることになるのです。
改めて、何物も、神のご計画を妨げることはできない。
神はどんな環境でも、御心を成し遂げられるのだと、思わされるのです。

<荒海をも うち開き 砂漠にも マナを降らせ 主は御心 成し給わん>新聖歌301番
 今日、心に留めたいのは、神は道を造られる方ということです。
いくらヨセフに夢の解き明かしや、治める賜物があっても、神が道を開かなければ、一生、監獄のままでした。
監獄とパロの王宮という、普通なら結びつきそうにない所に道を造り、道を開いたのは、神です。

「主は道を日々造られる」(God will make a way)という歌があります。
(私訳)
神は道を造られる 道など一本もないように見える所にも
神は私たちには見えない方法で働かれる
神は私のために道を造られる  
神は私の導き手となり 私を脇に抱えてくださる
愛と力をもって 一日一日
神は道を造られる 神は道を造られる
神は荒野の中を道も 私を導かれ 私は砂漠の中に川を見出す。…

神は、御心のままにどこにでも道を開かれます。
ヤコブのために天と地をつなぐはしごを渡した神。
イスラエルの民のために、海の中に乾いた道を造った神。
神は、道造りの名人です。
誰も思いもしない所に道を造られます。
人間の頭では、行き止まりに見えても、監獄のようなところに閉じ込められたように感じられても、神の御力を見くびってはいけません。
神は、御心のままに道を開き、そこから救い出すことがおできになります。

ある人が中学生くらいのときに、あることで、以来学校に行けなくなりました。
ほとんど部屋にこもって、雨戸も閉めきって、パソコン、特にゲームばかりするようになりました。
20年くらいでしょうか、だいぶ経ったある日、あることをきっかけに奮い立って、とりあえず定時制の学校に行くことにしました。

定時制の学校というのは、面白い所、可能性を秘めた所です。
若い人から年配の人まで、いろんな背景の人が来ています。
そのうち、彼は、小さな会社を経営している60くらいの社長さんと少しずつ、話をするようになりました。
やがてその社長さんは彼に、パソコンできるか?と聞きました。
彼が、少しなら、と答えると、じゃあちょっとうちに来てみないか、という話になりました。
ちょうどパソコンを使える人が欲しかったのです。

で、最初は試しにと行ってみたら、それがうまくいって最初アルバイトから始まって、やがて正式にそこに勤めるようになったそうです。
彼は、そんなことを期待して定時制の学校に行ったわけではありませんが、思ってもいなかった展開になったのでした。
人生には思いもしない展開が待っていることがあるものです。

そして最後に覚えたいのは、神は、死という牢獄に閉じ込められていた人間のために、パロの王宮と比べ物にならない神の御前に引き上げる道を開かれました。
パロの一声でなく、神の召しによって、キリストの義の衣を着せて頂き、祈りによって神の御前に出させて頂けるようになりました。
また、死すべき人間が永遠にあきらめなければならなかった、永遠のいのちにあずからせるために、神の御子ご自身が十字架にかかって、永遠の滅びから永遠のいのちへと至る道となって下さいました。
ヨセフどころではない、ありえない神の御業にあずからせて頂いているわが身の幸いを覚えましょう。

ヨハネ14:6(新約p209)
イエスは彼に言われた。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。