礼拝説教要旨(2021.5.16)
実に、神なのです
(創世記45:1-15) 横田俊樹師 
<今日の要点>
私たちの人生に起こる出来事の背後に、神の善なる御心を認め、信じる。

<あらすじ> 
 前回44章では、ユダの真心からの訴えを見ました。
この私を、あのベニヤミンの代わりに、あなたの奴隷として下さい、そしてベニヤミンは、他の兄弟たちといっしょに父のもとに帰らせて下さい、と懇願したユダ。
かつて自分たちが犯した罪によって、父ヤコブの心を深く悲しませてしまった。
その悲しみは、22年経っても一向に軽くなりはしない。
この上ベニヤミンが戻らなかったら、自分たちは、しらが頭の父を、悲しみながら、よみに下らせることになる。
そんな父の姿など絶対に見たくない・・・。
人と言うのはなかなか心から悔い改めることができないものですが、ユダのそれは、チョチョッと目につばを付けて、といった悔い改めの芝居でなく、一時の感情で目蓋とほっぺたを濡らして、ああサッパリした、といった悔い改めのまねごとでもなく、正真正銘、心の底からの悔い改めでした。

そのユダの魂の叫びとも言うべき訴えを聞いたヨセフが、感極まり、号泣しているのが、今日のところです。
1節「ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、『みなを、私のところから出しなさい』と叫んだ。
ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。」
エジプト宰相として威厳を保つために、臣下の前で泣く姿は見せられなかったでしょうし、また人払いをして、兄弟水入らず、誰はばかることなく再会を喜び会いたかったのでしょう。

しかし、ヨセフの腹の底から沸き起こる泣き声は抑えることができず、宮廷中に響き渡りました。せき止めていたものが決壊した今、感情は大洪水となって一気にあふれ出ました。

「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」
ヨセフが正体を明かして、最初に口から出てきたのは、父ヤコブを思いやる言葉でした。
たった今、ユダから父ヤコブの様子を聞いたヨセフは、この20数年間、深い嘆き、悲しみに沈んでいた父の姿を思い浮かべて、一層、胸を熱くしたのでしょう。
他方、驚いたのなんの、目を丸くして、息も止まらんばかりだったのは、兄弟たちです。
彼らは、驚きのあまり、声も出ませんでした。
無理もありません。ユダの弁明が終わるや、目の前のエジプトの大臣が、イキナリ大声を上げて泣き出しかと思ったら、なんとヘブル語で「私はヨセフです」という言葉が口から飛び出してきたのです。
まさか、まさか、まさか。
あのヨセフ・・・?。
彼らは、自分たちの手で葬り去ったはずのユーレイでも見たような驚きだったでしょうか。

 しかし、しばらくまじまじと目の前に立つヨセフの顔を見ると、そういえば、と面影が見て取れたでしょうか。
やがて、それがユーレイではなく、事実、あの自分たちが奴隷商人に売り渡したヨセフだとわかると、今度はサーッと血の気が引いて、ワナワナと体も震え出したでしょうか。
かつて、自分たちがひどい目に遭わせたヨセフ本人が、今、自分たちを裁く立場にいるのですから。

遠山の金さんに桜吹雪を見せられた下手人のように、言い逃れできません。
もし、ヨセフが復讐しようと思ったら、彼らの命はひとたまりもありませんし、また実際彼らがしたことは、そうされても仕方のないものでした。

いろんな思いが交錯して、どう反応していいのか、わからず、固まっていた彼らに、ヨセフは優しい言葉をかけます。
まず、「どうか、私に近寄ってください。」
と彼らを近寄せます。
彼らが恐る恐る近寄ると、まだ半信半疑の兄たちに、続けて言いました。
「私は、あなた方がエジプトに売った弟のヨセフです。」
ともう一度、繰り返します。
そら来た!と一瞬ひるむ兄たち。

しかし、続くヨセフの言葉には、兄たちを責める言葉や恨みがましい言葉は、一つもありませんでした。
むしろ、兄たちが心を痛めないようにといたわる言葉でした。
5節「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。」
怒るというのは、兄たちが互いに責め合うことでしょうか。
それに釘をさします。
そして以下、すべては、神のご計画によること、兄たちがヨセフを売ったのも、神が前もってヨセフをエジプトに遣わしたのだ、それはこのききんに対して備えをさせるためだったのだ、とヨセフは事の背後に大きな神の御手を見て、神を指さします。
これは単なる気休めでなく、心からそう納得していたことでしょう。
だから、兄たちはいつまでも自分を責めないで下さい、とやさしい言葉をかけたのです。
7節後半「あなたがたのために残りの者をこの地に残し」が少しわかりにくいかと思いますが、「残りの者」は彼らの子孫のこと。
「この地に残し」は「この地に植える」とも訳される言葉で、彼らの子孫がエジプトの地に来て、そこに植えられる、住むようになるということです。
これは、かつてアブラハムに主なる神から与えられた預言を意識していたのかもしれません(15:13−14、p21)。

ともかく、ヨセフを商人に売り渡したのは兄たちだけれども、ヨセフは、すべてのことの背後に神のご計画を見て、今や、悔い改めた彼らが自責の念に押しつぶされてしまわないように、やさしい言葉をかけるのです。
ここであったが百年目、あのときは、よくも・・・!と責める言葉でなく、反対に、もう自分を責めてはいけません、と慰める言葉を、です。

 こうしてヨセフは、まず兄たちを慰めて、それから父ヤコブのことへと話を移します。
ロミオとジュリエットではありませんが、生きているのに死んだと思って、深い悲しみの中に沈んでいるのですから、一刻も早くその誤解を解いてあげたい。
悲劇のまま、人生の幕を閉じることのないように、目の黒いうちに、ぜひとも会って、喜ばせてあげたい。
それで、大至急、父の所に帰って、自分のことを伝えるよう、言いました。
ヨセフはエジプトの支配者になっているから、ためらわずにエジプトに来るように。
牧畜に適しているゴシェンの地(エジプトの東北部、スエズのあたり)で、ヨセフの近くに住めるようにしてくれるというのも、ヤコブにはうれしいこと。

だから、子も孫も、また羊や牛などの家畜も、全部いっしょに来るように。
ききんはあと5年続くが、みんな困ることのないように、そこで養うから安心して来てくれるように。
至れり尽くせりで父ヤコブを待つヨセフです。

こうして、必要なことを言い終えると、あとは、目の前の兄弟たちに懐かしさを爆発させます。
まずは同じ母から生まれたたった一人の弟、ベニヤミンの首を抱いて、思う存分、泣きます。
ベニヤミンも同じように、ヨセフの首を抱いて泣きました。
それから、ヨセフは、他の兄たちをも抱いて、泣きました。
しかし、兄たちの方は、ヨセフを抱いて泣いたとは、書かれていません。
ヨセフの方は心から赦していましたが、兄たちの方は、このあとまだ数十年、もしかしたら最後まで、ヨセフに対して負い目を感じていたのかもしれません。
数十年後も、ヨセフが赦してくれていることを信じきれなかったようです(50:15以下、p94)。

このときは、ヨセフが一通り、兄たちともハグをし終えると、その後、兄たちはヨセフと語り合ったとあります。
いったい、どんな顔をして、どんなことを話したのでしょうか。
あの時は、本当にすまなかった、赦してくれ、それにしてもまさか、こんな風になっていたとは。
あの夢は本当だったんだな…などと語り合ったのでしょうか。

「主は御心 なしたまわん」新聖歌301番
 前回はユダの感動的な場面でしたが、今回はヨセフの感動的な場面です。
ヨセフは、かつて自分に悪を行った兄たちに慰めの言葉をかけ、ベニヤミンだけでなく、兄たちとも抱擁して泣きました。
エペソ4:31‐32(新約p378)が、この時のヨセフにピッタリです。

4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

このとき、ヨセフは、キリストの似姿に変えられていました。

どうしてヨセフは、こんなことができたのか。
それは、事柄の背後に神の御心を認めることができるように、神がヨセフの目を開いたからでしょう。
ヨセフは5‐9節で5回も「神が」「神なのです」と繰り返して、これが本当に神がなさったことなのだと強調しています。
これまでにも、ヨセフは、すべてのことに神を認めてきました。
牢獄で、献酌官長、料理官長に、夢の解き明かしをするのは、神がなさることではありませんか、と言って解き明かし、パロに対しても夢の解き明かしをするのは「私ではありません。
神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」
と神を指さしました。

その後来る大豊作と大ききんも、神がなさろうとしていることと言っていました。
そして今、ヨセフの口からは、兄たちが自分をねたみからエジプト行きの奴隷商人に売り渡したことさえも、それをなさったのは、実に神なのです、と言い切っているのです。
そしてそれゆえに、兄たちを赦すことができたのではないでしょうか。
もちろんそれは、兄たちが悔い改めていたからです。
兄たちがしたことは、悪であることは間違いありません。
悔い改めなければ、裁きを身に受けたでしょう。
しかし、真実に悔い改めた魂には、豊かな赦しが、慰めが、注がれるのです。
神はそのようなお方です。
神をよく知るヨセフもそうだったのでしょう。

 すべての事柄の背後に、神の御手を見ることができると、人生の風景がだいぶ変わりいます。
自分に罪を犯したり、悪いことをする人が現れたときに、「あの人は、こんな悪いことをした。」
で終わったら、怒りや苦味が出てくるだけでしょう。
しかし、「神が、このことを許された。
神の御心があるのだ」と考えると、受け止め方が違ってくるのではないでしょうか。
試練にあったときも、それをなさったのは、実に、神なのだと信じるならば、そこに希望が灯り、支えとなるのではないでしょうか。
また、悪に対して悪で報いようとして自分の人生を台無しにしてしまう危険から守られるのではないでしょうか。
文句を言い、怒りを抱えていても、何もよいことはありません。
天地万物を、計り知れない御心に従ってお造りになった神の主権を心から認めましょう。
ローマ11:33‐36(新約p308)
11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

11:34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。
また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

11:35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。
どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。
アーメン。

最後に、人が神に対してなした最悪を、神は人に対する最善に変えて下さいました。
神が救い主として遣わした御子を、人は十字架につけてしまったのです。
人類にとって、これより悪いことはありません。
しかしそれさえも、神は、人の救いのための御業とされました。
どんな最悪をも、神は益とされます。
むしろ、益とするために、許されたのです。
神の計り知れない知恵と、私たちに対するご愛を信じましょう。
ローマ8:28‐30(新約p302)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ヨセフは、ヤコブ一族を救ったというだけでなく、ヨセフ自身、キリストの似姿に造り変えられていました。
そういう点でも、神がすべてを用いて益とされたのです。
とはいえ、渦中にあるときは、なかなかこう思うことができません。
ヨセフも、すべてが実際に益となったからこそ、あのように言えたのかもしれません。
ヨセフはこういうハッピーエンドになったから、ああいうふうに言えたが、自分は・・・と思われるでしょうか。
しかし、神は、「神を愛する人々」には、誰にでも同じように全てのことを益として下さると、聖書は教えています。
ヨセフだから、ではありません。
「神を愛する人々」には、一人も漏らさずそのようになさるのです。
今はそう思えなくても、いつの日か、そう心から思える日が来ます。
ヨセフのように。
神が、そうなさるのです。
神がおられる限り、この希望が失望に終わることはありません。
ですから、神の愛を信じましょう。
そして神を愛しましょう。