<今日の要点>
キリストは、事実、復活されて、今も信じる者とともに働いておられる。
<あらすじ>
今から約2千年前の、今日の金曜日にあたるある日、キリストは、私たちの罪のために十字架にかかられました。
十字架に太い釘で手足を打ち付けられて、数時間、肉の引き裂かれる激痛を耐えられてのちに、息を引き取られました。
イエス様の弟子となっていたアリマタヤのヨセフという人が、イエス様の体を引き取って、きれいな亜麻布に、腐敗を防ぐための没薬と香料とともに包み、岩を掘って作った新しい墓に納めました。
墓の入り口には、獣などが入らないように、大きな石を転がして封じました。
イエス様を慕って十字架までついてきていたマグダラのマリヤたちも、その光景を見ていました。
それが金曜日の日没前のことです。
翌土曜日は、安息日でした。
厳密に言うと、日没から日没までが一日となっていましたが、話がややこしくなるので、ここでは土曜日としておきます。
この日は仕事や用事をせず(何百メートル以上だか、歩くことも禁じられていました)、ひたすらに神を思い、神に礼拝を捧げる聖なる日とされていました。
それでこの日は何もすることができないので、安息日が終わった翌朝早く、今日の日曜日の朝早くにマグダラのマリヤたちが、イエス様が葬られた墓に香油をもって訪れたのでした。
彼女たちは「お墓の入り口から、あの石をころがしてくれる人が、誰かいるかしら。」
と互いに話していました(マルコ16:3)。
墓の入り口をふさぐ石は、大きくて、成人男性が数人がかりで動かすものだったからです。
しかし彼女たちは、そのアテがないまま、とにかくイエス様に何かして差し上げたい一心で、朝一番に来たのでした。
アテがないまま、すべては見通せなくても、神に信頼して歩み出す、というのも時には必要なのかもしれません。
実際、彼女たちの心配は無用でした。
彼女たちが着く前に、主の使いが天から降りて、石をわきへころがしてくれたのです。
御使いは、肉体を持たない霊的な存在ですが、肉体を持った人間とは比べ物にならない力を持っています。
墓の番をしていた兵士たちは、まばゆく光り輝く御使いの姿にすっかりおびえて、死人のようになったと言います。
御使いは、墓に到着した彼女たちに言いました。
5,6節「…『恐れてはいけません。
あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。
前から言っておられたように、よみがえられたからです。
来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
』」女たちは、イエス様を慕ってはいましたが、イエス様が復活すると仰っていたことは、信じていませんでした。
女たちは、復活したイエス様に会いに来たのではなくて、なきがらに香油を塗りに来たのです。
そんな勘違いをしていた彼女たちに、御使いは、イエス様がよみがえったことを教え、なきがらが墓にないことを確認するよう促しました。
そして、彼女たちに、11弟子たちへの伝言を託します。
7節「『ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。
イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。
では、これだけはお伝えしました。
』」最後の「では、これだけはお伝えしました。」
というところが、妙に事務的な感じがしますが、気が動転している彼女たちに念を押したのでしょう。
彼女たちは、恐れるなと言われても、やっぱり恐ろしかったようですが、それでもイエス様が生きておられると聞いて大喜び。
御使いの言葉に従い、11弟子のところに向かいました。
すると、なんと、途中で、復活した当のイエス様ご自身が彼女たちに出会って、「おはよう」と声をかけられたのです。
彼女たちは、自分の目でイエス様が十字架にかけられ、槍でわき腹を突き刺され、亜麻布に包まれて、墓に葬られたのを見ています。
ついおととい見たばかりです。
そのイエス様が今、目の前におられ、彼女たちに声をかけておられる!頭の中が混乱したのではないでしょうか。
ちょっとこわい感じもします。
彼女たちは、せいいっぱいの勇気を振り絞ってでしょうか、イエス様に近寄って御足を抱いて拝んだのでした。
まさか、足があるかどうか、確かめたわけではないでしょうが…。
確かに足がありました。
霊ではなく、手で触れる肉体をもっていることが、確かめられました。
こうして復活したイエス様に最初にあったのは、女の弟子たちでした。
ここでイエス様は、先に御使いたちが言ったことを繰り返されますが、イエス様は、ご自分を見捨てた弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んで、彼らに対する赦しを表されました。
あなたたちは、わたしを知らない、とシラを切って見捨てましたが、わたしはあなたを見捨てていない、あなたたちは今も、わたしの兄弟です、と。
ところで11節以下は、兵士たちからこのことを聞いた祭司長たちの、信じられない行動が記されています。
兵士たちは、かくかくしかじかと、今、起こったことをありのまま、祭司長に話しました。
それを聞いた祭司長は、どうしたか。
「なに?あのイエスが言ったことは、本当だったのか!それではあのイエスが、神から遣わされたまことの救い主だったのか。
私は何ということをしてしまったのか…」と自分の非を認めるかと思いきや、さにあらず。
逆に、事実を握りつぶしにかかったのです。
兵士たちに多額の金を握らせて、「自分たちが眠っている間に、弟子たちが来て、盗んでいったと、嘘をつけ」と買収したのです。
眠っていたのなら、どうして弟子たちが来て盗んだとわかったのか?と思いますが。
しかし、祭司長たちは身を守ることに必死です。
嘘でも何でも手段を選ばず、イエス様が復活したことが事実であっても、いや事実ならなおさら、それが民衆に広がらないように、握りつぶさなければいけない。
そうでないと、キリストを十字架にかけた張本人として、自分たちの身が危なくなる。
保身にせいいっぱいで、神に敵対することすら辞さない祭司長たち。
本当に神を信じているのか?と大いに疑問です。
彼らの罪は大きいです。
真理を覆い隠し、ユダヤ人たちが真理を知って救われることを妨げたのですから。
この福音書が書かれた当時、この嘘がユダヤ人の間に広まっていました。
<君こそ勝利の主なれ 君こそ真の主なれ>新聖歌127番
いつの時代にも、敵である悪魔は、キリストの復活の事実を覆い隠そうとしています。
今日もそうです。
しかし、祭司長たちの嘘にもかかわらず、当時のユダヤ人の中からもキリストを信じる人たちは出ましたし、のちに異邦人世界に福音は爆発的に広がって、全世界を覆うほどになりました。
墓の入り口をふさぐ大きな石も、屈強なローマ兵も、そして祭司長たちの偽りも、復活したキリストを封じ込めておくことは、できませんでした。
死の壁をさえ、打ち破られたキリストは、どんな壁をも打ち破って、勝利のうちに進んでいくのです。
全人類を有無を言わさず閉じ込めていた死の牢獄から、その恐怖から、信じるすべての人を救い出すことが、神の御心だからです。
ヘブル2:14-15(新約p426)
2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
その良き知らせ・福音を全世界に広めることが、神の一番の御心です。
何物も、その神の御心を妨げることはできません。
死を打ち破って復活されたイエス・キリストを、教会は宣べ伝えます。
そしてキリストは、その使命に進む教会とともにいて下さると、お約束下さいました。
マタイ28:18-20
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。
わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
「十字架にかかられたキリスト」は、私たちに深い平安、慰め、また癒しを与えてくれます。
何よりも、神の深い愛を伝えてくれます。
それとともに、「復活のキリスト」が私たちとともにいて下さることは、力強い励まし、力、勇気を与えてくれます。
女たちは「十字架につけられたキリスト」を探していましたが、「復活されたキリスト」に目が開かれることもそれに劣らず大切なことです。
復活したキリストの力は、地上の歩みにおいても、発揮されるからです。
福島原発に最も近くにあった福島第一聖書バプテスト教会の牧師のお話です。
あの東日本大震災の直後、60数名でしたか、いくつかの場所を転々としたのちに、奥多摩のバイブルキャンプ場に1年近くお世話になりました。
そのキャンプ場の責任者のドイツ人宣教師は、放射能の危険が高いからと、本国から帰国命令が出ていたにもかかわらず、日本に留まって、ぜひ、うちに来てください、とその教会に呼び掛けたそうです。
杉原千畝みたいな人です。
そのキャンプ場で恵みのうちに数か月、過ごしましたが、いつまでもそこにいるわけにも行かないので、福島に戻ることを考えました。
元いたところは立入禁止区域ですから、近くのいわき市に住む場所を探しました。
その頃30人くらいの方々が、そこに移り住もうと考えたそうです。
牧師が何軒かの不動産屋を回りましたが、何しろ3万人ほどの人が、被災地から流れ込んできているから、空いている部屋は一つもないと、言われたそうです。
最後に行った所でもそう言われましたが、それでも一応、お願いします、と言って東京に戻ったそうです。
そしたら、です。
翌日から、その不動産屋にジャンジャン電話が入って、アレヨアレヨという間に全部決まりました。
その町に住みたいという30人くらいの分だけ、決まったら、そのあとはまたピタ―ッと電話が止まったそうです。
不動産屋の人が、神様っているんだねえ、と驚いたそうです。
それだけではありません。
今度は礼拝堂を建てようということになり、また不動産屋に来ました。
廃業したパチンコ屋とか、いくつかの場所を案内してくれましたが、ある所に来た時に、ここだ!とピンときました。
しかし、不動産屋に、ここは持ち主が絶対売らない、と言われました。
いくつもの企業が買いたいと言っても、絶対売らない地主として有名だったようです。
それでもその牧師は奥さんといっしょに地主に会いに行って、お願いしました。
これまでの事情を説明していくうちに、最後はもう声が詰まって、何も言えなくなってしまったそうです。
二人して泣くしかできなかった。
地主さんは何も言わず、そんな二人をじーっと見つめていたそうです。
すると、後日、不動産屋から「あの土地、売ってくれるそうです!」と興奮した声でかけてきてくれました。
そこには今、立派な会堂が建っています。
復活のキリストは、今も、どんな障壁をも打ち破って、教会を福音宣教の使命に進ませて下さるのでしょう。
この復活して今も生きて働かれるキリストと私たちは信じる決断をすることで、つながることができます。
信じなければ、キリストと何の関係もありません。
キリストとつながっている私たちに対して、死は無力となり、世の終わりにはキリストと同じ栄光の復活の身体が与えられます。
キリストの復活は、世の終わりに起きる出来事の先取りという意味があります。
その時に、神は、キリストを事実、復活させたように、キリストを信じる者を、みな、栄光のうちに復活させます。
第一コリント15:20
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
キリストは、初穂と呼ばれています。
ということは、後に続く穂があるということです。
キリストを信じて、従う決心をした者は、みなキリストの後に続いて、復活するのです。
昔は蒸気機関車というものがありました。
石炭を燃やして蒸気の力で動きます。
これが先頭を走って、その後にお客さんを乗せる客車が5両とか10両とか、連結されて、ひっぱられて走ります。
客車自身には動力はなく自力走行できません。
蒸気機関車に連結されて、ついていくのです。
キリストは蒸気機関車、私たちは客車です。
私たちが、キリストが私たちの罪のために十字架にかかって下さったこと、そして三日目に神がキリストを復活させことを信じて、このキリストについていきます、と決心するならば、そのときガシャンとキリストと私たちは連結されます。
もっときよくなったら、とか自分みたいなものが、、、としり込みする必要はありません。
必要なのは決断です。
信じ、従う決断をした瞬間に、ガシャンと連結されるのです。
そして先頭を走る力強い復活のキリストのあとに従って、この地上を歩み、やがてのときには、栄光の身体に復活するのです。
その結合は、永遠にはずれることがありません。
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