<今日の要点>
人の善意も悪意もすべてを飲み込んで、主の御心が成る。
「御心が行われるように」と祈りながら、その時はわからないことも受け入れ、主に従う歩みを続けよう。
<あらすじ>
創世記37章から、聖書中屈指の一大感動巨編「ヨセフ物語」が始まり、前回は11節まで中心人物となるヨセフの生い立ち、背景を見ました。
その続きです。
羊飼いを生業とするヤコブ家の兄たちは、以前住んでいたこともあるシェケムに羊の群れを連れて行きました。
ヤコブたちがいたヘブロンから直線距離で約80キロ。
当時、豊かな牧草地を求めて群れを大移動させる時には、何日間か、何週間か、泊まりがけが普通でした。
しかもシェケムというと、例のディナの事件があった所。
復讐心にかられたシメオン・レビが村を滅ぼした、あの忌まわしい場所です。
あれから十年ほど経っていたでしょうか。
シェケムは広大な地域で、事件のあった方には近づかなかったかもしれませんが、やはり気にはなります。
ヤコブは、最愛の息子ヨセフをやって、兄たちが無事かどうか、様子を見に行かせたのでした。
男の子とはいえ、まだ17歳。
今の日本のような所なら話は別ですが、治安の悪い当時、日帰りは無理な距離ですから野宿になるでしょう。
しかも、いわくつきの危険な場所に遣わすのは、それなりにリスクもあったでしょうが、「かわいい子には旅をさせろ」で、神のご加護を祈りつつ、送り出したのでしょう。
ただ、ヤコブが一つ、見誤っていたのは、兄たちのヨセフに対する思いでした。
兄たちが、ヨセフをねたんでいることは気づいていたでしょうが、まさかそれでヨセフに手をかけるとは、思いも寄らなかったでしょう。
この辺、警戒心の強いヤコブにしては、うかつだったのかもしれません。
青年ヨセフも、父ヤコブからこう言われて、内心、どう思ったか。
しかし父を敬っていた青年ヨセフは「はい、まいります。」
と返事をして、運命の旅に出たのでした。
ヨセフは無事、シェケムに着きましたが、そこに兄たちの姿はありませんでした。
それで、あちこち探し回っていたのでしょう。
それを見かけた、どこかの親切なおじさんが「おまえさんは、何を探しているんだい?」と声をかけました。
かくかくしかじかとヨセフが答えると、その人は、彼らならドタンのほうに行くと言ってたよ、と教えてくれました。
ドタンは、「二つの井戸」の意味で、シェケムから北に20キロ強ほどの所にある豊かな牧草地です。
そこは古代から商人が荷物を積んで通る隊商路となっていました。
こうしてヨセフは、計100キロもの道をおそらく2,3日かけて歩いて、ようやくドタンに姿を現しました。
ヤコブが与えた袖付きの長服がよく目立って、遠くから一目でわかったでしょう。
これを見た兄たちは、またメラメラと憎悪がこみあげて、なんと彼を殺そうと企んだのでした。
飛んで火に入る夏の虫とはこのこと、千載一遇のチャンス、とばかりに。
19節「見ろ。あの夢見る者がやってくる。」
前回見た、兄たちがヨセフを伏し拝むようになるという、あの夢のことです。
そして20節「さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。
そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」
ここでヨセフを葬り去ったら、あんな夢はご破算だ!ざまあみろ!というのでしょう。
しかしここで、長男ルベンが、責任感が働いたか「いや、待て」と殺気立つ弟たちを抑えます。
いくら何でも殺すのはよくない。
その辺にある穴に投げ込むだけにしておけ、と。
ルベンは後で、穴からヨセフを引き上げて、父のもとに返すつもりでした。
こうして辛うじて命だけはつながったものの、何も知らずにやってきたヨセフは、待ち構えていた兄たちにとらえられ、長服をはぎ取られて、近くの穴に投げ込まれました。
乾季でも泉の水が枯れないドタンですから、幸い、この穴に水がなかったのは、神の摂理のうちに守られていたということでしょう。
ヨセフを穴に放り込んで、兄たちは、あー、いい気味だ、と気持ちがスーッとしたでしょうか。
ただし、それは一瞬だけです。
このあと20年以上、罪責感が彼らの心を重くして離れなかったのです。
この時、ヨセフは穴の中から、助けを求めて叫んでいました。
そのヨセフの助けを求める声が、折に触れて何度も思い起こされて、ずーっと彼らの頭から離れませんでした(42:21)。
怒りに駆られた行動は、その後、長く続く重い後悔で苦しめます。
こうして彼らは、ヨセフを穴に放り込んで、食事をしていました。
その間、ルベンは群れを見張っていたのでしょうか。
席をはずしていました。
その間に、です。
皮肉なことに、といいますか、これも神の御心によることですが、ルベンはルベンで、後でヨセフを助けようと、殺さずに穴の中に放り込ませておいたわけですが、今度はユダはユダなりに、ヨセフの命だけは助けようと、折よく(折悪しく?)ちょうどそこに通りかかった隊商に売ろうと言い出して、これがその通りになってしまったのです。
ルベンのいない間にトントン拍子に話は決まって、ヨセフは隊商の車にくくり付けられ、エジプトへ売られてしまったのでした。
(25-28節「イシュマエル人」は広く遊牧民の意味で、ミデヤン人も含むと思われる)
ルベンが戻ってきたのは、全てが終わった後。
ルベンは、空っぽの穴を見てサーッと血の気が引き、途方に暮れました。
しかしこれもすべて、神の御心だったのでした。
あの夢の実現に向かって、すべては狂いなく、着実に進んでいたのです。
人の目には真逆に進んでいるように見えても。
<主は御心成し給わん>(新聖歌301番)
父に偏愛され、兄たちに恨まれ、ついに穴に投げ込まれ、奴隷として遠い異国の地エジプトに売られたヨセフ…。
このヨセフが、やがてくる大飢饉から世界を救うために、神によって定められた人だったのです。
この後も続く苦難を通って、その後に、世に救いをもたらす者として高く上げられる。
それが神のご計画でした。
すべては、神がそのご計画を遂行するために導いておられたことでした。
あの夢は、一足飛びにでなく、このような苦しみを通って後に成就するものだったのです。
高く上げられる前に、低くされなければならなかったのです。
神の御子キリストも、そうでした。
苦難ぬきに一足飛びに高く上げられたのではありませんでした。
ヨセフ以上の苦しみを、御子自ら受け、耐え忍ばれて、その後に王の王として高く上げました。
この37章には「神」という言葉は出てきません。
しかし神がすべてを導いていることをひしひしと感じさせてくれる章です。
兄たちがシェケムから、隊商路であったドタンに場所を移したのも、そのことを知らせてくれる人が、シェケムにいたことも神の摂理でした。
ドタンに着いたヨセフを見て殺気立つ弟たちをルベンが抑えて、穴に放り込ませておいて、後で引き上げようと思ったことも、そのルベンが席をはずしているちょうどそのときに、隊商が通りかかり、ユダが、ヨセフの命だけは助けようと兄弟たちを説得して、ヨセフをエジプトへ売ることになったのも、すべては水も漏らさぬ神の摂理です。
ヤコブにしては、うかつにも、兄たちの憎しみの強さに気づかず、ヨセフ一人を使いに出したことも。
あたかも、歯車がかみ合うように、これら一つ一つのことが、夢の指し示す預言の実現に向かって、着実に動いていたのです。
誰もこれを妨げることができません。
ヨセフを助けようとしたルベンも、殺そうとした兄たちも、その通りにはならず、その間を縫うようにして、神の御心が行われていったのです。
20節の兄たちの「あれの夢がどうなるか、見てやろうではないか」と似たようなセリフは、十字架上のイエス様にも向けられていました。
群衆は「おまえがもし、神のお気に入りなら、今、救ってもらうがいい。
自分で神の子だと言っているのだから。」
と言い
「さて、どうなるか。エリヤが助けに来るかどうか、見ることにしよう」とうそぶきました。
自分たちが十字架につけておいて、さあ、神の子とやら、どうする?と。
神の言葉を信じず、あざける、罪びとの態度です。
しかしそんな罪びとどもの殺意さえも、神は人々の救いのために用いてしまわれるのです。
神の御心に敵対し、反逆する者たちをさえも、神の御心は飲み込んで、押し流して、ご自身の御心を成し遂げられる。
そして、ご自身の栄光をあらわされるのです。
もちろん、だからと言って、兄たちは悪くない、とはなりません。
それはまぎれもなく兄たちの罪です。
もし、彼らが悔い改めなかったら、彼らはその罪の責任を神に問われていたことでしょう。
「これはおやじがヨセフを偏愛したからだ、俺たちがこうするのも当然だ!」などと開き直っていたら、厳しくその罪の責任を問われるでしょう。
しかし彼らは、このことで20年後にヨセフに会うまでーもしかしたらその後もー自分たちが犯した罪に苦しんでいました。
彼らの良心は、麻痺していませんでした。
それで十分でした。
人がした行動について、神は責任を問います。
しかし、それだけだと救いがないのも、事実です。
私たちは、罪を犯さないことはありません。
取り返しのつかない失敗をしてしまうことだって、場合によってはあります。
そんなときに、人の行動は、神によって定められていたことでもあるという真理は、救いをもたらしてくれます。
第一ペテロ2:8(新約p454)これは主を拒んだユダヤ人指導者たちについての言葉です。
…彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
ここに、人の意思と神の定めの両方があることが、示されています。
どちらかではなく、どちらも真理。
両方なのです。
(両者の関係は、ウェストミンスター信仰告白第3章に解説されています。
)これは理屈としては人間の頭では理解できませんが、実践的には絶妙な教えです。
取り返しのつかない失敗をしたとき、罪を犯したとき、それはそれとして自分の責任とします。
無理やり、神が定めてたんだから、自分は悪くない、と思い込もうとしても、良心は本当には納得しません。
それは、かえって苦しむことになるのです。
開き直りでなく、ちゃんと責任を認めてこそ、良心は納得します。
と同時に、それも大きな視点で神の御心の内にあるということは、慰めとなり、支えとなるのではないでしょうか。
悔い改めた魂には、なおさらです。
私たちは私たちで、御心に仕えるよう、最善を尽くします。
罪を犯さないように、恵みによって努力します。
それでも失敗し、罪を犯してしまうことがあります。
その時は、悔い改めて、結果は神の御手にゆだねて、また神とともに歩み出すのです。
人間の失敗も、すべて神の御心のうちにあります。
希望は神にあるのです。
私たちは運命とか宿命とか、そんなものを信じているのではありません。
血も涙もある、生ける神を信じているのです。
私たちを愛してやまない天の父を信じているのです。
死者の中から御子を復活させた神を信じているのです。
人間的には、あの親切なおじさんが余計なことを言わなければ、とか、ちょうどあの時に隊商が通りかからなければ、とか、ユダが余計なことをしなければ、などと地団太を踏む所ですが、これが神の御心だったのです。
ところで、もしみなさんが、あの親切なおじさんだったらどうでしょう。
仮にその後の展開を知ったとして、どう感じるでしょうか。
人によっては、自分が教えなければ、こんなことにはならなかったのに…と責任を感じてしまう人がいるかもしれません。
そんなことになるとは知る由もなかったのですから、本当は全然、悪くないのですが。
しかしさらにその先の展開を知ったら、どうでしょう。
ヨセフはエジプトで王に次ぐ地位につき、彼のおかげで多くの人々が助かったと知ったら、ほっとするのではないでしょうか。
私たちには、先のことはわからないということです。
「人間万事塞翁が馬」です。
目の前のことだけで、結論づけてしまってはいけないということです。
神は数十年、数百年、数千年のスケールで物事を導いておられます。
その大きな大きな神のご計画を知らないと、小さな小さな私たちの頭を振って、何でこんなことが…と地面をたたいて嘆いたり、悔しがったり、絶望したり、かと思うと天にこぶしを突き立てて憤慨したり、とするばかりなのですが、神の御心は人間の思いをはるかに超えています。
一見、たまたま偶然が重なったことのように見える中にも、神の摂理は間違いなく、20年先の、ある定められた「時」を目指して進められていたのです。
この時点では誰一人として予想することすらできなった、その「時」を目指して神は全てを導いておられました。
私たちの身の回りでも、数年先、数十年先の定められた「時」を目指して、今の私たちには予想すらできないその「時」に向かって、水も漏らすことなく、神の御心は進められているのでしょう。
人の善も悪も、今は私たちが理解できないことも、すべてを飲み込んで進められる、きよい神の御心の前にへりくだらされ、「御心が行われますように。
天におけるように、地においても」と御心を仰ぎ、その祈りの中ですべてを受け入れて、そして主に信頼して生きる。
そんな信仰者の姿勢を整えさせて頂きたいと思います。
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