礼拝説教要旨(2021.2.21)
わが子のところに
(創世記37:12-30) 横田俊樹師 
<今日の要点>
死という究極の悲劇に対して、キリストは完全な解決を与えて下さった。

<あらすじ> 
前回、前々回と37章を読んできましたが、今日の本文に入る前に、ここでヨセフのうちに示されているイエス・キリストのお姿をおさえておきたいと思います。
まず、父の最愛の子だったこと、イスラエルの子らから憎まれたこと、その自分を憎む者たちのところに行くようにとの父の命令に、ハイと従われたこと、銀貨で売り渡されたこと、異邦人の手に引き渡されたこと、そして、これから見ていきますが、低い所へ下られたこと、苦しみを通らされたこと、そしてその後に、高く上げられて、ヨセフはエジプト王パロの権威を委ねられてエジプト全土を治めたように、キリストは父から権威を委ねられて、全世界を治められること、そしてそのすべてが、自分を憎んで苦しめた者たちの救いのためであり、その人々を赦したこと、などなど。
聖書の真の著者である聖霊は、ここに数千年後に世に来られる御子イエス・キリストのお姿を透かし模様のように描いていました。

さて、今日の箇所。
ヨセフをエジプトに行く隊商に奴隷として売り飛ばしてしまった兄たちは、どうしたか。
ヨセフを特別にかわいがっていた父に、そのまま言うわけには、いきません。
彼らは偽装工作をします。
一つ罪を犯すと、それを隠すためにさらなる罪を犯すのです。
彼らは、ヨセフからはぎ取った着物を、雄羊の血に浸して、悪い獣に襲われたように偽装して、父ヤコブに言いました。

「こんなものが落ちていました。
まさかとは思いますが、ヨセフのものかどうか、お調べ下さい。」
恐る恐る、血まみれの着物を手にして調べたヤコブは、愕然として言ったのでした。
「これは我が子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。…」
青天の霹靂でした。
思ってもいなかった究極の悲劇が、突然、ヤコブを襲いました。
ヤコブは、着てきた着物を引き裂き、荒布を腰にまとって、何日もの間、最愛のヨセフのために泣き悲しんだのでした。

「着物を引き裂き、荒布を腰にまとう」
とは、心が引き裂かれ、ズタズタのボロボロになった状態を表すのでしょう。
ヨセフのためにと特別にあつらえた長服も、今は真っ赤な血に染まり、無惨に引き裂かれて、ヤコブの心を引き裂くのみでした。

35節にはその嘆きの深さが記されています。
「彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み…」
悲しみがあまりに深いと、慰められることを拒むのです。
魂が、まだ嘆き足りないと、叫んでいるのでしょう。
嘆きのエネルギーが突き上げて、はらわたはわななき、嘆いても嘆いても、尽きることなく嘆きが湧いて出てくる…。

エレミヤ書31:15(旧約p1301)にも同じ嘆きがあります。
「…聞け。ラマで聞こえる。
苦しみの嘆きと泣き声が。
ラケルがその子らのために泣いている。
慰められることを拒んで。
子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」

やはり慰められることを拒んでいます。
嘆くべき時は、嘆いたほうがいいのです。
変にそのとき、我慢して抑えつけると、いつまでも嘆きのエネルギーがマグマのように心の深くにもぐって塊となり、こじらせてしまうことがあるようです。

そしてヤコブの口から出た言葉は、愛する子を失った親なら誰しも心に浮かぶ思いでしょうか。
「…『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」

ヤコブの嘆きようは、読む者の胸を打たずにはいません。
最初、兄たちは内心「いい気味だ。
ヨセフばかり、特別扱いするからだ」
という思いも少し、あったかもしれませんが、さすがに、これほど激しく嘆く老父ヤコブの姿を見ては心が痛んだでしょう。
今更ながらに、自分たちのしてしまった事の重大さに気づかされたでしょうか。

しかし、そんなヤコブに対して、彼らは本当のことを言うことができませんでした。
せめて、本当のことを打ち明けていれば、とにかくまだ生きているということだけでも聞くことができたら、ヤコブは飛び跳ねて喜んだでしょうが。
ヤコブも、かつて父イサクを欺きましたが、パダン・アラムで叔父ラバンに欺かれ、今度は息子達に欺かれて、深い嘆きのうちに数十年を過ごさなければならなくなったのでした。

これまでヤコブは、数々の試練に会ってきましたが、その中でビクビクしながら、オタオタしながらでも、神にすがりついて、結果的に試練を乗り越えてきました。
しかし今回は、完全に打ちのめされたでしょう。
祈る気も失せ、ヨセフを一人で使いに出したことを悔やみ、しばらくの間は、フラッと後を追おうとする衝動・誘惑に抗し、ヨセフの顔が思い浮かんでは、涙が込み上げてくるばかりの日々を過ごしたでしょうか。
心の準備もなく、不意に襲った悲劇。
ヤコブの人生最大の試練でした。

しかし、ヤコブが最暗黒の谷を歩まされていた一方で、彼のあずかり知らないところでは、神のご計画が着実に進んでいました。
37章の最後の一節には、何かが起こりそうな、新しい展開が始まりそうな気配を感じるのではないでしょうか。
36節「あのミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った。」

ヤコブが、ヨセフが死んだと思って嘆いていたときに、実は、ヨセフは生きていて、エジプト王パロに仕える、侍従長ポティファルなる人物のもとに売られていました。
侍従長と訳された言葉の正確な定義は、よくわかりませんが、何らかの形で王に仕える職務で、長が付く役職なのでしょう。
体格もよく、見栄えもよく、賢そうなヨセフは、奴隷商人の目にも、高い値が付くと見えたのでしょう。

そこに売られたということが、この後、大きな意味を持つことになります。
神のご計画に抜かりはありませんでした。

<われらついに 輝く御国にて きよき民と 共に御前に会わん>新聖歌517番 
 今日の箇所では、最愛のヨセフが死んだと思って激しく嘆くヤコブの姿が胸を打ちます。
改めて、人の罪がもたらした死というものの悲惨さ、その深刻さを思わされます。
命の源であられる神への信頼を捨て、疑い、背を向けるということが、どれほど大きな罪であるか。
人類の歴史が始まってこの方、数えきれないほどの悲劇が、嘆きが、涙が、叫びが、この「死」
というものによって、もたらされてきたことでしょう。
死は自然現象ではなく、罪の支払う報酬です(ローマ6:23、新約p298)。
神に対する罪の結果なのです。

しかし、あわれみ豊かな神は、この悲惨を取り除こうとされました。
ご自分に背いた人間の、いわば自業自得以外の何物でもないことなのに、神はこの上ない犠牲を払って、究極の悲惨である死を取り除こうとされました。
それは神ご自身にとっても、生易しいことではありませんでした。
天地創造よりも、困難なことだったと思います。
この宇宙を100個造るより、困難なことだと思います。

しかし神は、私たちに対する大きな愛のゆえに、そうして下さいました。
神は、最愛の御子を世に遣わし、御子が私たちの罪を背負って、身代わりに十字架で死んで下さったことによって、それを信じる人は、もはや罪の結果である死から、解放されたのです。
罪という負債そのものが帳消しにされたので、支払うべき「死」
という報酬がもはや、なくなったのです。
しかし、信仰者も死ぬではないか、と言う人もいるかもしれません。
確かに、肉体においては死にます。
しかしそれは、天国への凱旋です。

外から見る分には、ほかの人の死と同じように見えても、中身は全く違います。
罪の支払いを、キリストに肩代わりしてもらったので、死はもはや刑罰ではなく、天国への凱旋なのです。
その魂は、肉体を離れた瞬間、きよめられて、場所をきよらかな天に移して、きよい神の御顔を仰ぎ見るのです。
キリストのおかげで、そのようにされるのです。
キリストを信じた者に対して、死は、何も害を加えることができません。
そのすべては、私たちの功績や力ではなく、キリストの御業です。

キリストが、十字架上でして下さったことのゆえですし、私たちの魂が肉体を離れるときに、キリストがして下さることです。
だから、すっかりキリストにお委ねして、安心なのです。
ご自身の十字架の死によって、死の毒を抜き去り、永遠のいのちにあずからせて下さった御子イエス・キリストをほめたたえましょう!他方、キリストに罪の肩代わりをしてもらっていないならば、罪の支払いが残っているので、刑罰としての死という報いを払わされることになります。
肉体を離れた魂は、牢獄のような所に降り、そこで最後の審判のときまでつながれることになります。

しかしキリストを信じた魂は、天に受け入れられるのです。
天に予約席が、住まいが、用意されているのです。
ですから、ここで一つ、心に刻んでおきたいのです。
私たちが愛する人を失ったとき、実はその人は死んで消滅したのではなく、場所を天に変えて生きているのだということです。

私たちの目の前からはいなくなりますし、残された身体は焼かれて灰になるので、その人の存在自体が跡形もなく消えてなくなったように思ってしまいがちなのですが、事実は、その人の本質(霊魂)、あるいはその人自身と言うのでしょうか、は天に場所を変えて生きているのです。
ヤコブが、ヨセフが死んだと思って、思いっきり嘆いたけれども、実際はエジプトで生きていたように。
それは、たとえば、相手の人がどこか遠い外国に行ってしまったような感じでしょうか。
電話もメールも手紙もいっさいできない場所へ。
まったく連絡が取れなくて寂しいのは寂しいのですが、でも実際には、同じこの広い空の下のどこかで生きていて、生活している。
それと同じように、地上を去った兄弟姉妹の魂は、天に場所を移して、そこで生きているのです。

ヨハネ11:25(新約p201)
イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

死んでも生きているのです。場所を変えて。
この事実をしっかりと、現実のこととして認識しましょう。
そしてやがて、時至ったならば、再び、生きて、顔を合わせることができるのです。
きよめられた状態で、ともに神の御顔を仰ぎ見、考えも及ばない喜びに満たされるのです。

(参考:ウエストミンスター大教理問答の問90)
神ご自身の御顔を仰ぎ見、御子キリストと共に食卓に着くというのは、人間にとってこの上ない喜び、また幸いですが、また愛する人との再会というのも、魂を揺さぶるような喜びの時となるでしょう。

ちょっとネタバレですが、このあと20数年後、死んだと思い込んでいたヨセフが生きていて、エジプト全土を治めていると聞いたとき、あまりのことにヤコブはぽかーんとして、信じることができませんでした。
復活したイエス様を見た弟子たちもそうでした。
復活したイエス様を目の前にしても、幽霊を見ているのだと思ったくらいです。
(ルカ24:36−37、新約p170)

しかしやがて、ヨセフがヤコブを呼び寄せるために用意してくれた車を実際に見て、ようやくこれが現実のことだと飲み込めるや、とたんに元気づき
「それで十分だ。ヨセフが生きているとは。
私は死なないうちに彼に会いに行こう」
と言ったのでした(45:26‐28)ヤコブにとって、エジプトでどんな地位についているかなどどうでもよく、ただ死んだと思っていたヨセフが生きていてさえくれたら、それだけでこの上ない喜びなのです。
悲しみの谷が深ければ深いほど、喜びも大きいのです。
そして実際にエジプトに着き、ヨセフに会うと、感極まって「もう今、私は死んでもよい。
この目であなたが生きているのを見たからには。」

(46:29‐30)とオイオイうれし泣きに泣いたのでした。
死んだと思っていたヨセフと、生きて会えたのですから、それは魂の震える喜びだったに違いありません。
今度は喜びで、はらわたがわなないたでしょう。

これは、私たちが御国で先に天に召された愛する方々と会うときの光景を写し出しているように思われます。
神は、こういう結末を用意しておられるのだと思います。
もちろん、それでも愛する人を失うときに、悲しまないと言うことはありません。
それも突然であれば、なおさら。

古代教父アウグスチヌスも、母モニカが旅の途上で突然、発熱し、数日後に天に召されたとき、そうでした。
彼女は間違いなく天に迎えられたとわかっていても、激しい悲しみが込み上げ、涙があふれたと告白しています
(「告白」第9巻12章)。
それは自然なことです。
が、悲しみの時を通った後、やがてその傷は癒されました。
福音は残された人々を悲しみの中で支え、慰め、希望となり、やがて立ち上がらせる力となるのです。
死の完全解決を与えて下さった父なる神と御子イエス・キリストをほめたたえましょう!