<今日の要点>
キリストを受け入れた人は、みな、神が御子を愛しておられるように、愛されている。
想像をはるかに超えた神の愛の確信をもっともっと深めるよう、聖霊の祝福を祈り求める。
<あらすじ>
天地創造の初めから順を追って見てきた創世記も、今日の37章からいよいよヨセフ物語と呼ばれるくだりに入ります。
以後、14章にわたって創世記の最終章まで続く一大感動巨編です。
内容はというと、その名の通りヨセフ17歳の時から110歳で平安のうちに地上の生涯を閉じるまで、まるで映画さながらの手に汗握る劇的な生涯を書き記しています。
これは初めての方にとっても、余計な解説を加えずに最後まで一気に読まれても、十分、楽しんで頂ける内容だと思います。
しかしまた、これを信仰の目をもって見ていくと、随所に有益な教えや霊的励ましといった恵みの泉がそこここに点在し、さらにはヨセフの生涯そのものが、実は驚くほどイエス・キリストの生涯を写し出すひな形となっているのを発見するのです。
聖書の最初の書、創世記の中に、約2000年後に世に来られる救い主イエス・キリストのご生涯が、すでにこんなに具体的に示されていたのか、と改めて旧約聖書はやがてくる救い主を指し示す書(新約聖書はすでに来られた救い主を証しする書)ということを確かめさせられるのです。
さて本文に入ります。
舞台は、父イサクが滞在していた地、約束の地カナン。
ヨセフ物語なのに「ヤコブの歴史」と言われるのは、アブラハム、イサク、ヤコブと救いの契約を代々受け継いだ権威の名のもとに、神の民の歴史が区切られ、記録されるからと思われます。
これから記される記録は、ヤコブ時代のものであると。
ときは、ヨセフ17歳の頃のこと。
彼は兄たちと羊の群れのお世話をしていました。
と言っても、彼はまだ手伝いでした。
2節に、彼は父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいたとあります。
以前見たように、ビルハもジルパも女奴隷で、当時の習慣によって、ヤコブ自身は望んだわけではありませんが、成り行き上、彼女たちによって子どもを授かったのでした。
ビルハの子らはダンとナフタリ、ジルパの子らはガド、アシェル。
合わせて4人。
この頃、彼らは20代前半から半ばくらいではないかと推測されます。
彼らと正妻の息子たちとの間は、微妙な力関係だっただろうことは、容易に想像されます。
面白くない思いをすることもあったでしょう。
ヤコブも、自分の子ですから大事に思ってはいたと思いますが、扱いに差が出てしまうこともあったかもしれません。
そういう環境ですから、子どもは傷つきます。
そして傷ついていると、素直になれないものです。
鬱屈した思いがつのって、つい、悪さをしてしまうこともあったのでしょうか。
そういう、彼らが父の目の届かないところでしていた悪さを、ヨセフは父ヤコブに報告したようです。
こういうタイプは、嫌われるものです。
あれは伝書鳩だと。
確かに、ここだけ見ると、告げ口しているみたいで印象が良くないですが、しかしまた、ヨセフに関して別な見方もあります。
ヨセフのこのあと39章以下の行動を見ると、ヨセフが彼らといっしょにいたというのも、とかく一段低く見られがちな彼らに同情的な思いをもってのことかもしれません。
しかし、それでも彼らが悪さをしているのを見たら、どうするかと言ったら、ヨセフは、この年頃にありがちな、仲間とつるんで、いっしょになって悪さをして独特な一体感を感じて喜ぶのでなく、かといって、喜んで人の告げ口をして、自分だけいい子ぶって満足するような性格でもなく、きよい良心をもって、心を痛めながらも、報告をしたのかもしれません。
買いかぶりすぎと思われるかもしれませんが、後の展開を見ると、ヨセフという人物は、これが本当に生身の人間か?というような、信じられないほどきよい良心を備えていたように思われるのです。
ところで、3節以下11節までは、挿入部分として、長い棒線を3節の頭と11節の終わりにつけて、読むのがいいのかな、と思います。
映画でいうと、ここで回想場面みたいな感じが入って、ヨセフがどういう育てられ方をしたか、また過去にこういうことがあったと、背景を説明する部分です。
すると、2節の、羊飼いの兄たちのお手伝いをしているヨセフから12節以下のストーリーにスムーズにつながるようです。
その回想部分の3−4節「イスラエルは(これはヤコブの別名です)、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。
ヨセフが年寄り子だったからである。
それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。」
ヨセフは、生まれた時からヤコブにとって特別だったのでしょう。
年寄り子である上に、愛する妻ラケルが初めて産んだ子でしたから、特別な思い入れがあったでしょう。
当時は(今と違って?)父親に権威がありましたから、こんなに露骨にヨセフをえこひいきしても、誰もヤコブに文句は言えませんでした。
しかしその分、彼らの怒りはヨセフに向けられたのでした。
ヨセフは何も悪くないのに。
悪いのは、露骨にえこひいきするヤコブなのに。
彼らはもう、ヨセフと口をきくのもいやで、たまに口を聞いたと思うと大声で怒鳴りつけたり、激しい言葉となってしまうようになってしまったのです。
ところがです。
そんな状態なのに、少年ヨセフは、さらにお兄さんたちの怒りに油を注ぐようなことを言ってしまいました。
先ほど、読んだ通りの夢です。
ヨセフの束がまっすぐに立ち上がり、兄たちの束がその周りにきてヨセフの束におじぎをした、と。
夢の意味は明らかです。
ヨセフが偉くなって王様にでもなって、お兄さん達が頭を下げるようになる…。
聞かされた兄達にとっては何とも不愉快で、カチンとくる夢でした。
まあ、いろいろ手がかりから計算してみると、ヨセフはこの頃まだ10歳ちょいの子どもと思われるので、無邪気にこんなことを言ってしまったのかもしれません。
が、もしかしたら、何か不思議な力に突き動かされて、言ったのかもしれません。
これは20年以上後に実現する預言になっているからです。
しかしこれを聞いた兄たちが怒るのは、当然です。
ヨセフめ、図に乗りやがって、と。
ところが、ご丁寧にといいますか、困ったことにといいますか、ヨセフはまたまた兄達の神経を逆なでする夢を見て、それを父や兄達に言ったというのですから、思わず、目をつぶってしまいます。
今度は太陽、月、11の星がヨセフを拝んでいるという。
今度は父や母までが、十一人の兄弟達とともに、ヨセフを伏し拝む、というのです。
ちなみに、ここに「おまえの母上が」「おまえを拝むとでも言うのか」とあるので、この夢はヨセフの母ラケルがまだ生きていた時のことと思われます。
さらに11の星とあるので、ベニヤミンがラケルのお腹にいるときのことかもしれません。
またラケルは結局、世を去ってしまったので、ヨセフを拝むことはありませんでしたが、それはこの夢が、ヨセフの将来を告げるものでありながら、最終的にはキリストをあらわすものだったので、キリストにおいてラケルも拝むようになるということが実現するものと思われます。
ともかく、さすがにこれにはヤコブも、ヨセフをたしなめました。
そうしないと、兄たちが収まらないというのもあったかもしれません。
もっとも、一方でそうたしなめながら、他方では、自分も夢で神様から語られたことがあるからか、もしかしたらこれは、意味のある夢かも知れないと、このことを心に留めておいたのでした。
以上、ここまで見てきまして、いかにも何かが起こりそうな気配です。
そして予想通り、次回、大事件が起こります。
ヤコブの生涯、最大の試練となる大事件が…。
しかしそれも、神様のみこころだったのです。
<独りの御子を 賜いしほどに 神は世人を 慈しみ給う>
先に、ヨセフの人物像を少し買いかぶりすぎじゃないか、と思われるくらいに描いてみました。
生まれ持ったものも、もちろんあると思います。
それとともに、ヨセフの人格形成において、父ヤコブから注がれていたたっぷりの愛情は、大きな意味を持っていたのではないでしょうか。
この後、ヨセフは不条理とも言える数々の試練、苦難を通らされますが、その中でも恐れや恨みや憎しみなどに心を占められてしまうことなく、いじけ、ひねくれてしまうことなく、それらのネガティブな感情に妨げられることなく、神を恐れ、まっすぐな心で神とともに歩み、同じ牢獄に入れられていた人たちに心を配り、正しい心をもって、与えられていた賜物を思う存分発揮して、人々に益をもたらすことができたのは、その土台となる彼の人格そのものがきわめて安定していたから、ということがあるのではないか、と思います。
私たちを試練や困難の中で支え、神とともにまっすぐな心で歩む力を与えてくれるのは、天の父に本当に愛されているという確信です。
先が見えないと思われる状況、人から受ける誤解、不条理な扱い、そんな中でも、私たちの心を守り、支え、恐れを追い出し、さらには希望を与え、前に進む力を与えるのは、天の父が本当にこの自分を極みまで愛しておられるという確信が、心の隅々まで根を伸ばし、しっかりと根を張ることによるのだと思います。
みながみな、ヨセフのような恵まれた環境で育ったわけではないでしょう。
しかし、キリストを信じる私たちは、みな、神の愛する子どもです。
ヤコブがヨセフにたっぷりと愛情を注ぎ、父の愛で浸したように、天の父なる神は、私たちにこの上ない愛を注ぎ、計り知れないほどの愛で浸しておられるのです。
みんなヨセフなのです。
キリストを信じる者は、一人残らず、天の父に最高に愛されている神の子なのです!
ヨハネ1:12 (新約p172)
しかし、この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
あなたはキリストを自分の救い主と信じていますか?神が下さった救い主として心に受け入れていますか?もしそうなら、間違いなく、あなたは神の子どもです。
そして神には、えこひいきはありません。
あなたのために、最愛の御子イエス・キリストを十字架の犠牲としてでも、あなたを永遠の滅びから永遠のいのちへと救おうとして下さったのです。
神の、私たちに対する愛の大きさは、神が払われた犠牲の大きさによってわかります。
第一ヨハネ4:9‐10(新約p469)
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
キリストの十字架は、作り話でなく、現実にこの歴史の中で、多くの証人の前で行われた、まぎれもない事実です。
神はどれほど私たちを愛しておられることでしょう。
なんと主は、御父が御子を愛されたのと同じように、私たちをも愛されたと、驚きの証言をなさっています。
ヨハネ17:23(新約217)これはイエス様が父なる神に祈っておられる言葉です。
…あなたが、わたしを愛されたように、彼らをも愛されたこととを、…
驚くべき証言です。
ありえない恵みです。
この神の愛は、私たちが年をとっても、色あせることがありません。
老使徒ヨハネの言葉をもう一つ。
第一ヨハネ3:1−2(新約p467)
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
…
3:2 愛する者たち。
私たちは、今すでに神の子どもです。
・・・
老境に達したヨハネが、まるで、つい最近、信じたばかりの人のように、感動している様子が伝わってくるようです。
こんなふうに神を知る者でありたいものです。
こう書きながら、私自身、まだまだ神の愛の万分の一も、わかっていないと思います。
御国に行ったら、こんなに愛されていたのか!と驚き、圧倒されると思います。
なんだ、じゃあ、地上にいた時、あんなにビクビクしなくて、全然よかったんだ、などと思うかもしれません。
今、この地上にあって、神の愛をもっともっと知るように、神の愛を知ることにおいて、さらに成長していけますように、聖霊の祝福をお祈りいたします。
エペソ3:17‐19(新約p376)
3:17 また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。…
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