礼拝説教要旨(2020.11.22)
しかし、神は私とともに
(創世記31:1−21) 横田俊樹師 
<今日の要点>
正しく労苦に報いる方がおられると強く信じる。

<今日のあらすじ>
 前回の最後30章43節「それで、この人(ヤコブ)は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」
長年、欲深ラバンにただ働き同然で使われていたヤコブでしたが、愛する子ヨセフの誕生を機に正当な報酬を得るべく苦心の策を立て、ようやくひと財産を得たところまで、前回見ました。
ラバンの欲ときたら底なしで、普通に言っても通じない相手なので、やむなく枝の皮を剥いてどうのこうのという、ヤコブ独自に開発した羊とやぎの産み分け技術?を駆使して、それ以上に神様の祝福を受けて、ヤコブの群れはどんどん増えていき、それとは対照的にラバンの群れはだんだん少なくなってきました。
となると、面白くないのはラバンです。

「隣に蔵が立てば、こちらは腹が立つ」で、1節のラバンの息子たちの言いぐさとなります。
「あの、よそものの素っ寒ピンで来たあのヤコブのやつは、我々の父のものをみな、横取りして、くすねたのだ。」
などと陰口をたたいたというのです。
またラバンはラバンで、初めの頃こそヤコブのおかげで多いに祝福を受け、ようやくツキが回ってきたと、喜んでいたのですが、この頃になると、どうもヤコブの家畜ばかりが増えて、自分のは減る一方。
誰が見ても、主がヤコブの群れを祝福して、自分のは祝福しておられないのは一目瞭然。
ということで、ラバンもまたおかしな目つきになってきました。
ラバンの家はヤコブにとってあまり居心地の良くない所となってきたのです。

こういう状況は、あんまりありがたくないと思われますが、見る人が見ると、こんな状況も益となると言います。
すなわちカルヴァンは、ヤコブは、神様の約束に従って、ある程度の報酬を得たらすぐに約束の地、生まれ故郷のカナンに速やかに戻るべきだったが、ここにきてようやく、羊やらやぎやら調子よく財産が増えていた。
いわば、おもしろみがでてきた、それで約束の地に戻るという話も、もうすこし先延ばしにしたくなった。
欲が出て、あやうくこの地に根がはえかけていた。

そこで神様は、ラバンたちの悪意の針で突っついて、ヤコブが地上的な祝福のうちに眠りこけてしまわないよう、神様の約束の成就へと目を覚まさせ、促していたのである、というのです。
彼は言います。
「ヤコブにとっては、ラバンやその息子達にチヤホヤされるよりも、むしろ敵意を抱かれ、妬まれたほうがより有益だったのである。
…確かに、神は時に、耳ざわりの良い甘い言葉や人々の好意によってご自分の民を慰めるよりも、むしろ邪悪な人々の敵意や憎悪や悪意にさらすことによって、その救いを全うしたもうことがある。

というのも、この地上には、天的な天来の祝福を忘れさせてしまうほどの強力な、地上的な魅力に富んだものや、地上的な安楽さといったものが満ちているのである。
…人々からの憎悪やおびやかしや不名誉や中傷と言うものは、時として、四方八方から人々の拍手で囲まれるよりも、私達にとって有益なものなのである。」
自身、真理のために戦い、いわれのない非難中傷を受けて、満身創痍で戦っていた宗教改革者の血の通った注釈でした

 そういうわけで、居づらい状況に導かれたところでヤコブに、主の言葉が臨みました。
3節「【主】はヤコブに仰せられた。
『あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。
わたしはあなたとともにいる。』」

主がかつて約束された通り、生まれ故郷、約束の地へ帰るときが来たと告げられました。
兄エサウが気になるヤコブに「わたしはあなたとともにいる」との励ましとともに。
これを聞いたヤコブは、すぐに使いをやってラケルとレアを呼び寄せ、妻たちの説得にかかります。
仕事を終えて家に帰ってからでなく、すぐ行動に移したところに、ヤコブ自身、一刻も早くここを後にしたい気持ちになっていたことがうかがわれます。
そして5節以下、ヤコブの説得の言葉が連ねられます。

ラバンは自分を虐げてきたが、自分にはアブラハム、イサクの神がとともにおられて、守って下さった。
自分の力でラバンとやりあって勝ったなどと言っていないことに注意。
ヤコブはやはり信仰者。
主がともにおられて、守ってくださったのだと、ひたすら主を指さします。
そして、自分は誠心誠意、ラバンに仕えたが、彼は欺き、報酬を幾度も変えた、しかし神様は、ラバンが自分に害を加えることがないように、守って下さったと再び主を指さします。
8節はちょっと事実と違うように思われます。
ぶち毛のものがヤコブのものになる、云々は、ヤコブ自身が言ったことで、ラバンはそれを飲んだだけです。
また枝の皮を剥いて云々の小細工をしたことには触れず、まったく神様がそのようにして下さったように言っています。
これはクリスチャンもあかしをするときにやってしまいかねないので、気をつけないとです。
劇的にするために話を盛ることはせず、ただ事実を語るべきです。
それはそうとして、ヤコブは、こうして神がラバンの家畜を取り上げて、私に下さったのだ、とあくまでも神様が自分についていることを印象付けようとしているようです。

そして10節以下は、夢の中で主から語られたこと。
ラバンがヤコブに対してしてきたひどい扱いは、主が(11節の「主の使い」は受肉以前の御子キリストのこと。
13節参照)すべて見ておられた。
それで普通、わずかしか生まれないはずの、ぶち毛やまだら毛などのものがたくさん生まれるようにして、それらをすべてヤコブに与えてくださった。

主がヤコブの労苦、労働に正当な報酬を与えて、報いて下さったのだと言います。
ラバンの息子たちは、盗んだかのように言うが、そうではない。
ラバンの悪行の数々を見てきた主が、私に正当な報いとして与えて下さったのだと、正当性を主張しているのでしょう。
そして13節です。
「わたしはベテルの神。
あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。
さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。」
この時から遡ること20年前、ヤコブが実家にいられなくなってラバンの家に向かう途中、ベテルでのこと。
心細さと自責の念に駆られて、不安で押しつぶされそうだったとき、主なる神様が彼に現れて下さって、「見よ。
わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
(28:15)と仰いました。

ベテルで、ヤコブに必ず生まれ故郷に返すと約束された神様。
その神様が今、またヤコブにあらわれて、ついにその約束が実現する時が来たというのです。
ヤコブが故郷に帰ることが、勝手な思い付きではなく、神様の、そのお約束の成就だということでした。

これを聞いた二人の妻たちは、二つ返事で同意しました。
彼女たちも父ラバンの強欲ぶりには、ほとほと愛想が尽きていたようです。
ラバンは、彼女たちをヤコブに嫁に出してからは、彼女たちはもうヤコブのもの、よそ者という扱いをしたようです。
花嫁料は花嫁の父に与えられるものですが、花嫁の父はそれを使い果たしてしまうべきではなく、花嫁のためにいくらか使うことになっていたようですが、ラバンはびた一文やるものか、と全部自分のものにしたのでしょうか。
彼女たちは自分たちも不当に扱われたと、ラバンに対する不満があったのでした。

 こうして妻たちの同意も得られて、ヤコブはいよいよこの地を去ることになりました。
善は急げ。
ヤコブはその日の内にでしょうか、すみやかに実行に移しました。
タイミングも、ちょうどこの時ラバンが羊の毛を刈るために出かけていました(19節)。
ラバンがいたら、また何を言われるか、わかりません。
群れの半分は置いていけ、などと言い出しかねません。
本来ならちゃんと挨拶をして、お暇すべきですが、ヤコブは実力行使に出ました。

19節の「テラフィム」とは、家の守り神のような偶像です。
どうしてラケルはこんなものを取っていったのか、一説には当時、この守り神の偶像を持っているものが、相続財産を得る権利があったとされていたとか、あるいは単純に材質が金や銀など貴金属で、金目のものだったからなどと言われています。
いづれにせよ、抜け目のなさは、ラバン譲りと言った所でしょうか。
しかしこれがのちに、大いに肝を冷やす事態を招くことになります。

こうしてヤコブは、ユーフラテス川を渡って、なつかしいギルアデの山地(ヨルダン川東部の山地)へと向かったのでした。

「わが身の望みは、ただ主にかかれり」
 前回、ヤコブがした小細工について、賛否両論があると言いました。
ヤコブは、独自の方法を用いて、群れが強い時には、ぶち毛などが生まれるようにし、弱い時には自然に任せるという方法を取りました。
その結果、ヤコブの群れは大いに増え、ラバンの群れは小さくなりました。
一方では、これは信仰者としてけしからん、悪をもって悪に報いず、善をもって悪に報いるべきとの意見があります。
地上の主人にも、主に仕えるように心から仕えよとパウロも言っているではないか、と。

ご説ごもっとも、という感じです。
しかしいささか、人間離れしたようにも聞こえます。
他方、ヤコブはすでに14年以上にわたってラバンに誠意をもって仕えてきたこと、またこれは、ラバンに復讐することが目的ではなく、ラバンが出し惜しみして支払わなかった、いわば未払の賃金を得ることが目的だったこと、そして何より主がこのことを是認しておられる(12節)のだから、これは是とするべきという意見があります。
私はこちらです。

 神様は、労働に報われる方です。
時代がずっと下って出エジプトのときも、エジプトで奴隷として苦役に服していたイスラエル人たちが、手ぶらでエジプトを出ることがないように、それまでの苦役に対する正当な報酬として、エジプト人からたくさんの金や銀や着物を受け取って出ていくことができるようにされました(出エジプト12:35−36、旧約p116)。
神様は、ただ働きをさせません。
それは公正にもとることだからです。
不正だからです。
ここでも神様は、ラバンの不正行為をすべて見ておられて、ヤコブがちゃんと正当な報酬を得ることをよしとされたのです。
神様は正しい方、公正な方です。

詩 33:5(旧約p935)
主は正義と公正を愛される。
地は【主】の恵みに満ちている。

 もちろん、ヤコブのしたことをそのまま、今日にあてはめることはできません。
会社で正当に報われないからと言って、勝手に会社のもので自分が肥えるようにし、会社に損害を加えることはできません。
今日では労働組合なり人事なり、労務問題の専門家なり、しかるべきところに相談して、合法的に正当な処遇を求めるべきでしょう。
大切なのは、主が正義と公正を愛され、正当な報いを与える方だから、私たちもそれを求めてよいという原則です。

 ただ、すべてがそれで解決できるとは限らないでしょう。
また労働問題以外でも、誠実に仕えてきたのに報われないということも、あるかもしれません。
しかし、私たちは、主なる神様は正義と公正を愛され、正当に報いを与えずにはおかない方だということ。
この主がおられるのだということを、心のよりどころとすることができます。
この主がおられるという信仰に立って、信仰の杖をしっかりと握りしめて、自分を保ち、支えとすることができるのではないでしょうか。

第一コリント15:58(新約p343)
ですから、私の愛する兄弟たちよ。
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

もう一つ。
エペソ6:5−8(新約p380)
奴隷たちよ。
あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。

 主は報いずにはおかない方です。
ただ、すぐというわけではないかもしれません。
ヤコブは14年間、耐えました。
その間、腐らずに耐えてこられたのは、すべてをご覧になっておられて、義なるお方、正しく報われるお方が、ともにおられるとの信仰だったのではないでしょうか。
弱い私たちは報いという励みなしに、労苦に耐え続けることは難しいのではないかと思います。

功績を誇るかのような高慢な思いになるのは気をつけなければいけませんが(マタイ20:1以下、新約p39参照)公義と公正に基づいて、労働に、労苦に、正当に報いずにおかないお方がおられることは確かです。
このお方に信頼し、よりどころとし、励みとさせて頂きたいと思います。