礼拝説教要旨(2020.11.15)
主が祝福されたから
(創世記30:25−43) 横田俊樹師 

<今日の要点>
主に祈ることのできる幸いを、改めて心にとめる

<今日のあらすじ>
 25節「ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。
『私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせて下さい。』」
ヤコブは、長年働いた叔父ラバンのもとを去らせて下さい、と願い出ました。

約束の14年の奉公が満期を迎えたタイミングでか、あるいは満期を過ぎてさらに数年経ってからか。
いづれにせよ、ヨセフが生まれたことが一つの契機になったように読める書き方です。
前回触れましたように、ヤコブは、愛する妻ラケルから生まれた初子ヨセフを溺愛しましたから、これまでとは違う感慨を持ったのかもしれません。

今までヤコブは、ラバンに結構な目に遭わされてきたけれども、事を荒立てないように我慢してきた。
次の31章で明らかになりますが、レアの一件のほかにも、ラバンは相当、不条理なことをヤコブに押し付けていました。
十数年前、ヤコブが最初、ラバンの家にたどり着いたとき、実家を出ざるを得なかった事情をそのまま話していましたから、そこに付け込んでろくな報酬も与えず、置いてやっているだけ、ありがたいと思え、とでも言わんばかりに、ただ働き同然の扱いだったようです。

しかしヨセフが生まれて、ヤコブも心に期するところがあったのでしょうか。
年季はキッチリ勤め上げたのだから、お暇させてもらいたいと申し出たのです。
もっとも、本当に帰るつもりだったのかどうか、もしかしたらラバンとの交渉を有利に進めるための揺さぶりのような感じもします。
このあと、条件が合うとあっさり、留まることにしましたから。

 対する古狸ラバンは、ヤコブのおかげで豊かになったことを知っていましたから、はいそうですか、とおとなしく聞き入れるはずがありません。
こんな扱いやすい金づるを手放す手はない、と。
ところでラバンは27節で奇妙なことを言いました。

ヤコブのおかげで、主が自分を祝福してくれていると、まじないで知っているというのです。
ラバンは、主なる神様のことを知ってはいましたが、自分はまじないに頼っていたようです。
まじない、祈り屋などは悪霊の働きです。
しかし悪霊どもも、神様のことは知っていて、本当のことを言うこともあるのです。
嘘と本当を混ぜるというのも、人をだます常套手段です。
続けてラバンは、そういうわけで自分はヤコブにいてもらいたいから、お前さんの望みを言いなさい、いくら欲しいのか、と問いかけます。

口ではそういいながら、言ったとおり気前よく払う気は更々ないのですが、一応そういって引き留めようとします。
しかし対するヤコブも、昔のうぶなヤコブではありません。
ラバンの言葉を鵜呑みにはしません。

29−30節「ヤコブは彼に言った。
『私がどのようにあなたに仕え、また私がどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがよくご存じです。
私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。
それは、私の行く先で【主】があなたを祝福されたからです。
いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう。』」待遇の不満を表します。
これは公平公正に見て正当な要求です。
そのためにヤコブは自分の働きぶりをアピールします。
ヤコブが勤勉に、誠実に働いてきたこと。
そしてそれ以上に、「私の行く先々で、主があなたを祝福されたからです」と、祝福の源は主です、と指差します。
これは謙遜でもなんでもなく、事実です(箴言10:22旧約p1070)。
こうして祝福の出所をわきまえて、栄光を主に帰しているところは、やはりヤコブは信仰者です。

 さて、このヤコブの言葉を聞いたラバン。
これだけアピールしてくるからには、いったいどれくらい要求してくるつもりか、群れの五分の一?まさか半分などとは言うまいな、、、警戒しながら「それで、お前さんに何をあげればいいのか」と促しました。
しかしラバンは、これをあげようと言っていながら、平気で別のものを渡す男。
素直には応じられません。

ヤコブには作戦がありました。
ヤコブは「何も下さるには及びません、ただ、これこれのことをしてくれたら、私はこれからもあなたの群れを飼いましょう」と言って一つの条件を出します。
羊は普通は白く、ぶちやまだらは、まれです。
黒っぽい羊もあまりいません。
やぎは普通は黒もしくは濃い茶色がかっていで、やはりぶちやまだらはまれです。
それでヤコブは、たまにしか生まれてこないぶちやまだら、黒毛の羊だけ自分のもの、それ以外のは全部ラバンのものと、こうしてハッキリ区別をつけておけば、あとになって「あの羊はわしのじゃ。」
などと難癖をつけられないだろうというのです。
またそれだけなら、数も少ないし、まだらやぶちなどのは価値も低いとされていたようですから、ラバンも飲みやすいだろうという読みもあったでしょうか。

案の定、ラバンは、それで手を打ちました。
34節の「あなたの言うとおりになればいいな」と訳されているところは、新共同訳では「おまえの言うとおりにしよう」と訳されています。

ところが、一癖も二癖も三癖もあるラバンは、その日のうちに、先回りして、ヤコブに報酬として与えるはずの、ぶち、まだら、黒の羊を全部集めて、自分の息子たちに与えたのです。
ヤコブにやらなくて済むように。
そしてヤコブが率いている群れとは三日の距離を置いて、間違っても迷い込まないように、また交配してぶち毛などのものが、新しく生まれてこないように手をまわしたのです。
ヤコブの財産を増やさないことによって、いつまでも自分のところで働かせようという魂胆なのでしょう。
これがラバンなのです。
骨の髄までがめつい男なのです。

しかし、ヤコブはもしかしたら、ラバンならこれくらいのことはするだろう、と読んでいたのかもしれません。
それでヤコブは、ラバンの知らない奥の手を用意していたようです。
それが37節以下で、これは今日の私たちにはよくわからないところもあるのですが、大体以下のようなことのようです。
ポプラやアーモンドやすずかけの木の若枝を取って、その皮を筋状に剥いて、白いところと元の皮のところと筋状に、シマシマになるようにして、それを群れが水を飲む水ためにさしておく。
すると、どういう要因でか、群れにさかりがつく。
そしてこうして生まれてくるものは、まだらやぶちのものが多くなる。
これは、ほとんどの注解書は、迷信と言っています。

そんな気はするのですが、ただヤコブも14年以上、ここで羊、やぎを飼っているわけで、それが本当に効果があるのかどうか、賢いヤコブのことなら、よく観察してわかりそうなものとも思います。
もしかしたら、ヤコブはこの方法を発見したので、あのような提案をしたということも、ありそうに思われます。

ともかく、この時はこの方法でうまくいったようです。
ヤコブは、群れのうち、強いものがさかりがついたときは、その方法でぶち毛などのものが生まれるようにし、弱いもののときは、そうせずに自然に任せて、普通の白い羊、黒いやぎが生まれるようにした。
こうして、強い群れはヤコブのものとなり、弱いものはラバンのものとなった、という次第でした。
ヤコブのこの行動には賛否両論がありますが、それは次回、触れることとして、ともかく、こうしてヤコブは大いに富み、多くの群れと、その世話をするための男女の奴隷、さらにらくだ、ろばなどの家畜も持つようになったということでした。

<父の御前に すべての求めを…>
今日は、30節のヤコブの言葉を深堀りしてみたいと思います。
「私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。
それは、私の行く先で【主】があなたを祝福されたからです。
…」先にも述べましたが、ヤコブ自身、労苦を惜しまず、誠実に働きました。
しかしだからと言って、自分が群れを増やしたと誤解して誇るのでなく、主があなたを祝福されたからです、と過たずに祝福の出所を指さしました。

これは単に謙遜を装っただけの、とってつけた言葉ではなかったと思います。
ヤコブは祈りの中でー祈らずにはいられない状況の中でー主の守りと祝福を真剣に訴えていたので、これがヤコブの祈りに主が応えてくれたということ、本当にこれが主から来た祝福だと、実感をもって知っていたのでしょう。

異国の地で、しかもラバンのような、まるでドラマの悪徳上司のような義父のもとで働かなければならなかったヤコブ。
心を尽くして誠意をもって働いても、そのヤコブの誠意も通じない。
通じないどころか、かえってそれをいいことに骨の髄までしゃぶってやろうというラバン。
そのラバンの世話にならなければならなかったヤコブは、どれほど苦しんだことでしょう。
そのヤコブのなめた苦難の一端が次の31章に記されていますが、少し先取りすると、モーセの律法によれば、野獣に裂かれたものには、責任を負わなくてよいことになっていましたが(出エジプト22:13、旧約p134)、ラバンはその責任までヤコブに負わせました。
また労働者が報酬を楽しみにして期待するのは当然ですが、その報酬を何度も変えました。
ヤコブは、はらわたの煮えくり返るような思いを何度もしてきたでしょう。

しかし、彼は守られました。
早まったことをせずに済みました。
ぐっとこらえて、ここまでやってくることができました。
それは、一つには家族があるから、ということはもちろん、あったでしょう。
それとともに、そういういろんな思いをしたときにも、主なる神様のところに行って、祈りの中で、神様に不条理を訴え、守って下さることを祈り求めることが、できたからではないでしょうか。
状況が苦しければ苦しいほど、一層、主なる神様により頼まされたでしょう。
信仰者の本領発揮というところです。

ヤコブは性格的には模範生というわけではなかったかもしれませんが、何が何でも主にすがりつくという、その一点においては随一のように思われます。
このときのヤコブにとって、神様だけが頼り。
ほかに頼れるものはありません。
そこで発揮するのが、主なる神様への信仰です。
信仰の杖一本をしっかり握りしめて、逆境の中に立つ。
このテーマは聖書、特に旧約聖書に繰り返し出てきます。

ヤコブの心の支えとなっていたのは、あのベテルでの経験だったでしょうか。
主は、天と地をつなぐはしごを天使たちが上り下りするのを見せながら、ヤコブのかたわらに立って仰ったのでした。

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
(28:15)。
あの光景、あの約束の言葉を何度も思い起こして、ヤコブのために御使いを遣わし、また故郷へ帰らせて下さるとお約束下さった、その主なる神様のお約束だけをよりどころとして、主に祈り、希望を捨てずにいることができたのでしょう。
それで腐らずに、自暴自棄にならずに済んだのでしょう。
主の言葉・主の約束は、信じない人には力になりませんが、信じる人には大きな力となるのです。
ラバンから度重なるひどい仕打ちを受けた時には、神様に訴えもしたでしょう。
神様のご加護を真剣に祈ったでしょう。
群れのためには、群れの祝福を祈ったでしょう。

羊ややぎたちはかわいく、いとおしんでいたでしょうし、また実際問題として生活が懸かっていましたから、真剣に祝福を祈ったでしょう。
そういう主なる神様との祈りの交わりがあったからこそ、ここまでやってこれたのでしょう。
ヤコブにもし、この祈りの時がなかったとしたら、もたなかったかもしれません。

祈りは、願いをかなえてもらうためのものというだけでなく、私たちを守り、支えてくれるものでもあります。
この世で生活している中で、身に起こるあれやこれや、大小さまざまな悩み、心に引っかかること。
そのすべてを神様の前につぶさに申し上げる。
どうしたらいいですか、主よ、助けをお与え下さい、この状況を、このことを導いて下さい、と祈って、信頼して、お委ねする。

あるいは不条理な扱いを受けた時、主に訴える。
あるいは、自分でも気づかないうちに、危険な道に足を踏み入れそうなときに、主が気づかせて下さり、引き戻して下さる。
そしてもちろん、神様のご加護と祝福を祈り求めることもよいことです。
それは、すべての良きものの源は、神様、あなたですと告白しているのです。

思えば、こんな事態になったのも、元はと言えばヤコブが兄エサウになりすまして父イサクを欺き、エサウを出し抜いたからでした。
しかしそんな中でも、主なる神様は「これはお前の蒔いた種だ。
私は知らん。」
と見放すのではなく、ヤコブの祈り、訴えに耳を傾け、受け止め、慰め、励まし、祝福をさえ、与えておられたのです。
一方では、懲らしめを与えつつ、他方ではヤコブがつぶれてしまわないように、恵みをもって支え、祝福される。
主の懲らしめ、訓練は、私たちの成長のため、成熟のためであって、懲らしめること自体が目的ではないのです。

私たちも、どんなときにも、いつも、主なる神様に祈るときを聖別して、神様との交わりを大切にし、そこから励ましを受け、希望を与えられ、慰めを受け、支えられ、そして祝福を受ける。
そんな幸いな祈りのある生活、祈りのある人生を歩ませて頂きたいものです。