<今日の要点>
神は、ご自身の真実のゆえに、約束したことを成し遂げられる。
<今日のあらすじ>
妻を得るための14年間、それに自分の群れを得るための6年間と、あわせて20年の長きにわたって滞在したラバンの家を、いよいよヤコブが、立ち去るに至ったいきさつを、前回見ました。
その際、ヤコブは、ラバンが羊の毛を刈りに留守しているのを幸い、黙って荷物をまとめ、逃げるように後にしました。
ヤコブにすれば、今までが今までだから、この期に及んでもラバンが何を言い出すか、わからないので、黙って失礼、、、ということですが、妻たちにとっては愛想をつかしていたとはいえ、父親とそんな別れ方であいさつもなしでは、多少なりとも、心に引っかかるものがないとは、言えなかったかもしれません。
それに考えてみれば、それでおとなしく指をくわえて放っておくようなラバンではありません。
案の定、三日目になって、ヤコブたちが、家畜その他財産を携えて逃げたことが知らされるや、ラバンは血相を変えて、一族郎党を率いてヤコブの後を追ったのでした。
ギルアデの山地まで、およそ600キロほどの道のりを一気に走り抜き、7日目に追いつきました。
計算高いラバンのことですから、ただ怒りをぶつけてやろうなどと単純なことを思っていたわけではなく、これをダシにヤコブを脅して、またただ働きさせてやろう、などと内心、うすら笑いを浮かべていたでしょうか。
ヤコブ、危うし。
オオカミに狙われた羊です。
ところが、羊のそばには、目に見えない羊飼いがおられたのです。
良からぬ夢をみていたラバンに、主なる神様が割って入って、ビシッとくさびを打ち、止めて下さいました。
24節「しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。
『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。
』この主の一言が効きました。
場合によっては一戦交えようか、というラバンを思いとどまらせました。
ヤコブが寝ている間に、こうして神様が手を回して下さって、ラバンにブレーキをかけて下さったのです。
もし、この神様の介入がなければ、どんなことになっていたか…。
神様がくぎを刺してくれたおかげで、翌日、ラバンは、ヤコブに向かって文句は言いますが、昨日までの剣幕はすっかりトーンダウンしていました。
「おまえさんは、いったい何ということをしたのか。
私にないしょで、まるで私の娘たちを剣で捕らえたとりこのように引いて行くとは。
なぜ、あなたは逃げ隠れて私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。
私はタンバリンや立琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。」
よく言うよ、とヤコブは内心、つぶやいたでしょうか。
心にもないことを。
ラバンのような人は、わざと本心と反対のことを言うのでしょうか。
白々しい言葉が続きます。
「しかもあなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。
あなたは全く愚かなことをしたものだ。」
いかにも、娘たちを愛している、よき父親のような口ぶりですが、当の娘たちは、自分たちはよそ者のように見られていると感じていたのは前回見た通りです。
そしてラバンは、私には言いたいことはあるが、昨夜、あなたの神が現れて、これこれこう言ったので、我慢しておく、とこの件に関してはこれで終わったのです。
神様の警告が効いていたのです。
しかし、ラバンはもう一つのことを持ち出しました。
30節「それはそうと、あなたは、あなたの父の家がほんとうに恋しくなって、どうしても帰って行きたくなったのであろうが、なぜ、私の神々を盗んだのか。」
「私の神々」とは、前回見た通り、ラケルが盗んだテラフィムという偶像のことです。
前回触れたように、このテラフィムなるものが、当時の相続権をあらわすものとすると、故郷に帰るお前が、なぜ、うちの相続権を主張するためのテラフィムを持ち出したのか、またこちらへ戻ってくるつもりなのか?という疑問があったのでしょうか。
この件に関しても、夢の中での神様の一言が効いていたので、厳しく責め立てるというより、返してもらえればそれでいい、くらいのつもりだったのかもしれません。
ところが、思ってもみなかったことに、ヤコブのほうはこれで火が点きました。
まさか愛妻のラケルが盗んできたなどとは夢にも思っていなかったヤコブは、「ほらまた、言いがかりをつけて」と思ったのでしょう。
「もしそんな物が見つかったら、その者を生かしておきません」とタンカを切りました。
こうなったら、白黒はっきりさせよう、と。
驚いたの驚かないの、ギョッとしたのはラケルでした。
これほどのことになるとは思いもせず、ほんの出来心でしたことが、見つかったら死をもって償わなければならないことになろうとは。
しかしラケルと言う人も、動じないというか、悪知恵が働くというか、見事なものです。
ラケルは、ラバンがほかの天幕を探している間に、急いでテラフィムをらくだの鞍の下に隠し、自分はその鞍の上に座ってしまいました。
―もし、ラバンが、ラケルの天幕から調べてたら、終わりでした。
ここにも神様の守りが働いていました。
―そしてラバンが一つ一つ天幕をあらためて、最後にラケルの天幕に来ました。
もしラバンがその鞍の下をあけてみせなさい、と言ったら、一巻の終わりです。
しかしラケルは、ラバンから言われる前に自分から先手を打って「父上、私は月のものがございまして、あなたの前に立つことができません。
お許しくださいませ。」
と言ってのけました。
平気でこういうことが言えるところは、ラバン譲り、この父にしてこの子あり、と言うところでしょうか。
こうして、危ない危ない綱渡りでしたが、結局、テラフィムは見つかりませんでした。
神様のあわれみです。
もしラバンに対する神様の一言がなく、しかもここで、テラフィムが見つかっていたら、いったい、ヤコブはどうなっていたことか。
面目丸つぶれ。もう頭が上がりません。
ラバンは鬼の首でも取ったように、どうしてくれる!と詰め寄り、命は助けてやる代わりに、お前は一生、俺の奴隷だ、などと言ったかもしれません。
本当に危ないところでした。
そしてそれだけでなく、テラフィムが見つからなかったことによって、今度は一気に形勢逆転、ヤコブが攻勢に出ることになったのです。
それはまた次回。
「ヤコブの頼みし 生ける神 仰ぐこそ げに幸いなれ」(新聖歌17番)
ヤコブが、追いかけてくるラバンから守られたように、追いかけてくる敵から、神様がご自身の民を守られるという図式は、のちの出エジプト記にも出てきます。
またこんな話があります。
紀元3世紀、今日のイタリヤのノラという所にフェリックスという司祭(Felix of Nola)がいました。
当時はローマ帝国がクリスチャンを迫害していた時代で、あるとき、もう一人の司祭とともに追手から逃げ、空き家があったのでそこに逃げ込みました。
するとすぐに一匹の蜘蛛が出てきて、何と入り口に巣を作り始めました。
そしてやがて、蜘蛛の巣ができあがった頃に、ローマ兵たちが現われたのです。
彼らは当然、家の中を調べようとしましたが、見ると入り口に蜘蛛の巣が張ってあったので、ここにはいるはずがないと思い、通り過ぎていきました。
こんなことが2回、あったそうです。
フェリックスは後に、友人に「神がともにいて下さらなければ、鉄壁も蜘蛛の巣のようなものです。
しかし、神がともにいて下されば、蜘蛛の巣も鉄壁と同じです。」
と言ったそうです。
神様は、天の御使いの軍勢でご自身の民を守られるかと思えば、こうして蜘蛛一匹で追手から守られると言うこともなさるわけで、まさに万物を御心のままに自由自在に用いられるお方です。
そしてこのお方が、私たちの神様なのです。
しかし、それはどこぞの司祭みたいな信仰深い、立派な人だから、そうやって守ってもらえたのだろう…と思われるでしょうか。
ヤコブも、のちに「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と称されるようになった3人の族長の一人だから…と。
しかし、これまで見てきたように、聖書に記されているヤコブの生涯は、ヤコブその人の英雄伝というよりは、むしろ、ほころびだらけのヤコブの歩みをも、神様はここぞ、というところでお守り下さり、ご自身の約束を成し遂げられる、その神様のご真実をあかししているのだと思います。
かつて、ベテルで不安、恐れにおおのくヤコブに「わたしは、あなたとともにいる。
あなたを約束の地、あなたの生まれ故郷に帰らせるまで、わたしは決してあなたを捨てない。」
とお約束下さった主なる神様は、ご自身のご真実のゆえに、ほころびだらけのヤコブ一家をも守り、約束通り、ヤコブの生まれ故郷へと帰らせるのです。
このたびのことも、ラバンが何を言い出すか、わからないからというのも、確かにありましたが、黙って出てきたというのは、それでよかったのかどうか。
それに、ラケルがテラフィムを盗んだことは、ヤコブ自身は知らなかったとはいえ、もし見つかっていたら、一巻の終わりでした。
そういえば、ヤコブが、木の枝を剥いてどうのこうのと、小細工をしたことも、どうだったのか。
そんなことをしなくても、神様はヤコブの財産が増えるようにぶち毛のものが生まれるようにされたのではないか。
そしてもし、ヤコブがそんなことをしていたということが、何かの拍子にラバンの耳に入ったら、そこでまたどんな言いがかりをつけられていたか、わかりません。
ヤコブの歩みは、ほころびだらけです。
どこを突っつかれても、ボロが出るお粗末な状態でした。
しかし神様は、ヤコブと約束しておられた故に、彼を守られたのです。
こんなボロボロのヤコブとともにいて下さり、守り、故郷へ帰らせる。
ご自身の真実のゆえに。
神様のご真実のゆえです。
自信満々の人には、失礼な、と感じられるかもしれません。
が、人間のー自分自身のーあてにならなさ、いい加減さをよく知る人には、この上ない拠り所となるでしょう。
人間の側の真実さとか力強さとか完璧さのゆえに、守られるというのなら、とっくのとうにヤコブは終わっていたでしょう。
いや、ヤコブに限りません。
元々が、アダムが神様に背を向けて以来、人という人は罪びとなのです。
そんな人間自身に救いがかかっているとしたら、一人も救われる人はいません。
ただ神様のご真実のゆえに、神様はキリストを信じる私たちをお見捨てにならず、一人残らず、約束の御国を継がせるまで、守られるのです。
このように、自分自身により頼まず、神様の真実により頼むというあり方は、信仰の大先輩たちもしていました。
ダビデ王は、まっすぐに主の真実こそ、私たちの身を守る大盾であり、とりでであると言いました。
(詩篇91:4、旧約p999)
「主の真実は、大盾であり、とりでである。…」
使徒パウロはさらに、私たちは真実でなくても、キリストは、、、と指さします。
(第二テモテ2:13、新約p414)
「私たちは真実でなくても、彼(キリスト)は常に真実である。…」
一点だけ、心に留めておきたいのは、ヤコブはご覧の通りの男ではありますが、ただ神様に必死ですがりついて離さないという、その「信仰」の一点にかけては、目を見張るものがあります。
このあと32章でそのことがあらわれる場面がありますが、執念深さと言ってもいいほど、主に必死で寄りすがる、その一点は光っています。
優等生でなくてもいい。ほころびだらけでもいい。
ただ、主に祈り、主により頼む、その信仰の一点だけは、手放さないように。
仮に手放してしまったとしても、神様は私たちのことを手放さないのですが、神様が私たちに信仰を求めておられることは、事実です。
そして信仰を喜ばれることも事実です。
イエス様は、ほかのことでは、欠けだらけの弟子たちを責めませんでしたが、こと信仰に関してだけは、手厳しく不信仰を叱責されました(マルコ9:19新約p83他)。
信仰こそが、神様の救い、また恵みを自分のものとして受け取る手段だからです。
そのことは心に留めておきたいところです。
最後に、かつて主を否んでしまったという致命的なほころびを持ちながらも、生涯、使徒として立てられていたペテロの言葉を締めくくりとしましょう。
第一ペテロ1:4‐5(新約p452)
1:4 また、(神は)朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。
これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。
今日はアドベントです。
尊い御子を下さってでも、私たちの救いを成し遂げて下さった神様のご真実を礼拝し、神様への信頼を新たにしましょう。
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