<今日の要点>
良いにつけ悪いにつけ、蒔いた種は刈り取るときが、必ず来る。
セッセと良い種を蒔こう。
<今日のあらすじ>
前回は、失った祝福を泣いて求めるエサウのその涙に、またオーバーなゼスチュアーに惑わされず、人の心を見過つことのない神の裁きの厳正さを肝に命じさせていただきました。
本当は彼が流すべきは、自らの不信仰を嘆く悔い改めの涙のはずであったのですが、残念ながらエサウの目からこぼれ落ちたのは、悔い改めの涙とは似て非なる悔し涙であり、怒りの涙でした。
元々が衝動的なエサウです。
自分の胸に手を当てて内省することをしないエサウです。
憎しみはひたすらにヤコブに向けられて、殺意になりました。
不幸中の幸いだったのは、彼がすぐさま行動に移すのでなく、父の喪の日も近いから、そのときに、、、としばし思いとどまることができたことです。
父イサクに愛されてきたエサウは、イサクの前では一定のブレーキがかかったのでしょうか。
また当時の父親の権威というものもあったのでしょうか。
いづれにせよ、ヤコブは、恨みを買うような、あんなやり方をしたばっかりに、危うく命を落とすところでした。
ところで41節を見ると「エサウは心の中で言った」とあります。
ところが、次の42節を見ると「兄エサウの言ったことがリベカに伝えられると」となっています。
エサウの性格では、黙っていることができず、ついポロッと口から出てしまったのでしょうか。
それをたまたま聞いた誰かが、リベカに知らせたのです。
これも神様のご摂理です。
以前見た、ロトがケドルラオメル軍に捕らえられたときも、たまたま一人の人が逃れて、アブラハムにそのことを告げに来たために、アブラハムがロトを救出できたということがありました(14章)。
使徒の働きでも、使徒パウロの反対勢力がパウロ暗殺を企てたときに、たまたまパウロの甥っ子がそれを耳にしてパウロに伝えて、難を逃れたということがありました。
(使徒23:12以下、p276)隠しても、神様のご摂理のうちにバレるものはバレるのです。
このたびも、エサウの殺意はリベカの耳に入り、リベカは例によってすぐさま手を打ちます。
彼女はすぐさま手筈を整えてヤコブを遠ざけようと、遠く離れたハランの地にある自分の兄ラバンの家に逃れるように取り計らいました。
イサクには、話がややこしくならないためでしょうか、本当のことを言わず、かねてからイサク、リベカ夫婦にとって悩みの種となっていたエサウの嫁、地元ヘテ人の娘たちにかこつけて、ヤコブには地元の娘をめとらせたくないと、訴えます。
元々リベカも、イサクの父アブラハムが、道徳的に乱れた地元の娘達をふさわしくないと見て、わざわざ遠いハランの地から迎えたお嫁さんでした。
実際、エサウが勝手に連れ込んだ地元カナンの娘達には、これまでも頭を悩ませていたイサク・リベカ夫婦(26:34,35)ですから、このリベカの申し出は自然です。
リベカという女性は、実に頭の回る、また実行力のある女性です。
ただ、44-45節を見ますと、エサウの性格をよく知っている母リベカは、今回のエサウの怒りもパーッと燃え上がって、しばらくは燃えるものの、そのうち野原に出て獲物を追いかけ回していたら、そのうち忘れてケロッとするだろうと読んでいたらしく、そうしたらまた家に呼び寄せるつもりでした。
確かに、エサウは次にヤコブと再会したときには、もう何事もなかったかのようにヤコブを歓迎しました。
いつまでも根に持たない、実にサバサバした、人間的には好ましい性格です。
ただ、リベカの読みは一つ、はずれました。
彼女が生きている間はエサウの怒りは収まらなかったのでしょうか、結局、リベカが人をやってヤコブを呼び戻すことはありませんでした。
そしてヤコブは20年ほどもハランの地に留まることになるのです。
それでリベカはこのとき以後、地上では二度と最愛の子ヤコブと会うことはなかったと思われます。
蒔いた種は、刈り取らねばならなかったのです。
<未来に備えて、セッセと良い種を蒔こう!>
リベカは、ヤコブかわいさのあまり、非常手段ではありましたが、善良な夫イサクを欺いたという、そのことに対する懲らしめを受けなければなりませんでした。
ヤコブもこのあとたっぷりと苦い実を味わう事になります。
リベカ、ヤコブは、神の民たるの祝福は揺るぎませんが、懲らしめは受けなければならなかったのです。
因果応報という言葉を聞いたことがあるかと思います。
何事も原因があってそれにふさわしい報いとして結果があるということです。
善因善果、悪因悪果、良い原因には良い結果、悪い原因には悪い結果です。
現実はそう単純な話ではないのですが、大原則としてはそうだということです。
ミカンの種を植えたらミカンの実がなる。
ミカンの種を植えたのにリンゴがなったということはありません。
桃の種を植えたのに、お金がいっぱいなったといううまい話?はありません。
そのように良い行いは、良い報いを享受することができるし、悪い行いをしたら悪い報いを受けなければならないということです。
お百姓さんが汗水流して働いて、秋に収穫を得られたとしたら、苦労が報われたということになるでしょう。
善因善果です。
逆に飲み過ぎて翌日、頭がガンガン、二日酔いで苦しい思いをしたら、それは悪い行いの報いを受けたと言うことでしょう。
悪因悪果です。
そして言うまでもなく、クリスチャンだから、いくら悪いことをしても、報いを受けないということはないのです。
裁きという点では、キリストが私たちの代わりに、私たちの罪に対する刈り取るべき実をすべて刈り取って下さいました。
どれほどの巨大な報いだったでしょう。
きよい神の御子であられながら、そのような私たちが受けるべき報いを受けて下さったキリストに、心からの感謝と賛美を捧げます。
しかし、裁きということではなくて、一般的な法則としてーミカンの種を植えたらミカンの実がなるようにークリスチャンであるなしにかかわらず、因果応報の法則のもとにあります。
暴飲暴食したら、お腹を壊すとか、健康を害するとか、そこにはクリスチャンであるなしは関係ありません。
原因に応じた結果を身に受けることになります。
関係があるのは、クリスチャンかどうかではなく、胃腸の丈夫さでしょう。
この自然界の法則は、霊的な世界でも真理なのです。
蒔いた種は刈り取ることになるのです。
ガラテヤ6:7−10(新約p371)
6:7 思い違いをしてはいけません。
神は侮られるような方ではありません。
人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 善を行うのに飽いてはいけません。
失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。
ときに、福音を信じる人が「思い違いを」することが、昔からあったようです。
神を侮ってしまうという間違いをしてしまうのです。
神様が恵み深いお方、あわれみ深いお方であられることを曲解して、悪いことをしても平気、決して怒ることをしない、放任主義の親のように思い違いをしてしまう危険があります。
キリストが身代わりに罪を背負って十字架にかかってくれたんだから、俺は何をしても良いんだ、というのは間違いです。
しかしそういうふうに考える人は、私たちの間ではいないでしょう。
しかし、上記の御言葉が言っていることは、それだけではありません。
特別に悪いことをするわけでもないんだけれども、良いわざに熱心ということもない。
自分がそこそこの生活をすることだけで満足しているクリスチャンたちにも、警告を発しています。
「肉のために蒔く」とは、自分の満足のためだけに、時間も財も労力もつぎ込む生き方でしょう。
自己中心の生き方。
困っている人たちの存在に目をつぶって、自分の快適さだけを守ろうとするライフスタイルに、悔い改めを迫るのです。
それは良心をごまかしていて、良心の麻痺は信仰の破船になりかねないのです(第一テモテ1:19、新約p407)。
それは滅びの道です。
他方、「御霊のために蒔く」とは、御霊の促しに素直に従って隣人愛のわざ、信仰のわざなど善を行うことです。
宣教師のため、開拓伝道のため、また助けを必要とする方々のため、祈り、ささげ、また導かれるなら手足を動かして仕える。
「受けるよりも与える方が幸い」という生き方。
そのように歩むなら、良心がつまずくことがなく、天に宝を積みながら、最後まで信仰を保って、約束の永遠のいのちに与ることになるのです。
それはただ永遠に生き延びるということではなく、神様ご自身と結びついている、満たされた豊かないのちです。
「蒔いた種を刈り取らされる」というと、何だかネガティブにも感じられるかもしれませんが、言い方を変えて「蒔いた種を刈り取ることができる」というと、ポジティブな言葉になるのではないでしょうか。
蒔いた種をちゃんと刈り取ることができるというのは、農夫にとってはありがたいことです。
台風や雨不足、日照不足で、蒔いた種をちゃんと刈り取ることができないと大いに困ります。
目に見えない霊の世界では、ありがたいことに、ちゃんと蒔いた種を刈り取るという法則が有効です。
なぜなら、すべてを正しくご存知で、正しく報いずにはおかない正しいお方、神様が報われるからです。
人知れず行った善行、人から誤解された善行も、すべて真実を知っていて、報いる神様です。
使徒パウロは誰よりも、行いによらない、信仰のみによる救いを強調した人ですが、同時にやがての主が来られる日に備えて、善行に熱心であれ、とも励ました人です。
第二テサロニケ1:11(新約p402)
・・・私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。
どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。
またテトス2:11−14(新約p420)
2:11 というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、
2:12 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。
2:14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
私たちは、この地上がすべてではないことを知っています。
だからこそ、残されている地上の時間、労力、すべてを御霊のために、永遠のことのために、主を愛して主に喜んで頂くために、熱心にお捧げするべきではないでしょうか。
よい種を蒔けば、よい実を収穫できるのです。
確実に。
農夫が収穫を期待して種を蒔くように、将来に向けて、善行という種をセッセと蒔きましょう。
主が来られるときに、実を刈り取らせて頂けることを待ち望んで。
間違っても、永遠の御国で、もっと熱心に善を行えば良かった、などと後悔することのないようにと願わされます。
ヤコブ5:7−8(新約p450)
5:7 こういうわけですから、兄弟たち。
主が来られる時まで耐え忍びなさい。
見なさい。
農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。
心を強くしなさい。
主の来られるのが近いからです。
第二コリント5:9−10(新約p350)
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
|