礼拝説教要旨(2020.09.06)
エサウの考えたこと
(創世記28:1−9) 横田俊樹師 

 
<今日の要点>
神様の御言葉・聖書に心の目が開かれて、イエス様が教えようとしておられることを正しく受け取ることができるよう、御霊の祝福を祈る。

<今日のあらすじ>
前回の続き。
自らの不信仰を顧みることもなく、ただ祝福をヤコブにだまし取られたと恨みを募らせ、ついに殺意を抱いた兄エサウ。
そのことを神様のご摂理の内に耳にした母リベカは、ヤコブを一時的に遠くに避難させるべく、手を打ちました。

以前からイサク・リベカ夫妻にとって悩みの種となっていたエサウの妻、倫理的に堕落していた地元ヘテ人の二人の嫁にかこつけて、夫イサクに「ヤコブまで、この地からお嫁さんをめとりでもしたら、もう耐えられません」と訴えた。
そこまでを前回見ました。
それを受けてイサクは「そうじゃのう。
エサウの嫁のことは仕方ないとして、ヤコブの嫁は、お前の親族からめとるようにしよ」と応じたのでした。

リベカは、自分が提案して、それにイサクの同意を得るという形ではなくて、問題提起だけして解決はイサクの発案という形に誘導したようにも見えます。
賢いリベカです。
こう見ると、善良なイサクは何だか、頭の回るリベカの手のひらの上で操られているようにも見えなくもありません。
イサクが何だか急に身近に感じられて、今度一つ、壮年会に呼んでお話を、と思われる方もいるかもしれません。

イサクは、ヤコブを祝福してリベカの故郷・パダン・アラムへと送り出します。
「全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。
そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。
神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」
アブラハムから自分が受け継いだ祝福の契約の言葉そのままを、ヤコブに与えました。
イサクはやはり聖なる人だなあ、と思います。
今度はイサクも、目の前にいるのがヤコブだと知って祝福しています。
イサクは、ヤコブたちが自分をだましたと知っても、肉の思いによって怒りをぶちまけるのでなく、その背後に神様の御手を認めて、やはり前もって語られていた通り、こうなるのが主の御心だったのだと悟り、従ったのです。

自分のうちを顧みる心を欠いているエサウとは違いました。
普通はなかなかこうはいきません。
欺かれたと知ったら、たとえ自分に非があっても、怒ってへそを曲げて、意地でも祝福するものか!となるところでしょう。
しかしイサクは自分の不従順を悔い改めて、今度はこうして自分を欺いたヤコブであっても、神様の御心に従って祝福しているのです。

自分の肉の思い・感情は十字架につけて、神様の御心を優先させているのです。
さすがです。
私たちも、自分の肉的な感情、思いによって、神様の御心を妨げていることはありませんか、と問われます。
自分の肉の思いを十字架につけて、主の御心に従い、主の御心を通す、主の御心が実現するように、自分のなすべき事を為す。
それでこそ、神の国の祝福がそこに流れます。
十字架なくして神の国の祝福はありません。

 それにしてもこうしてヤコブは、遠い国に住む、まだ見たこともない叔父ラバンのもとに身を寄せるべく、住み慣れた家を出ることとなったのですが、彼はこの時、一体どんな心境だったのでしょう。
一応、お嫁さん捜しという大義名分ですが、実のところ、兄を出し抜いて父を欺いて祝福を横取りしたことがバレて、いられなくなったというのが本当の所です。
心に後ろめたさを覚えながらの旅路です。

しかも、ヤコブは外に出るよりも、静かに家の中にいるのを好むタイプです。
これまで何かと助けてくれた母リベカとも離れ離れです。
行き先のパダン・アラムは、彼らが住んでいたベエル・シェバから直線距離でおよそ800キロ。
東京から東に向かうと札幌まで、西に向かうと島根県あたりです。
新幹線も車もない時代、そうおいそれと行き来できる距離ではありません。
ヤコブにとって、後ろめたさと心細さと不安とを抱えての旅立ちだったでしょう。

 しかし、言わば、こうして蒔いた種を刈り取らされているヤコブに対しても、神様のあわれみはのぞみます。
父イサクを通して、3,4節の祝福を与え、ヤコブを励ますのです。
ヤコブは、父イサクを欺いたのですから、父は自分のことを怒っているだろうと恐れていたかもしれません。
それがこうして、父は自分を祝福してくれた。
そして3節は子孫繁栄の祝福ですから、少なくともヤコブは旅の途中で野垂れ死にしたりしないで、目的を達してお嫁さんを貰い、大いに繁栄するように、という祈りです。
4節の最後のところは「おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように」ですから、ヤコブがまた無事にこの地に戻ってくるように、という祈りです。
この地を受け継がせて下さるという神様の約束から離れないですね。
そこからぶれない。
いったん、この地をあとにするけれども、神様の約束はしっかり握って、離さないのです。
この信仰は、神さまに喜ばれる信仰でしょう。
ヤコブにとって、すねに傷を持ちながら、心細さと不安の中、この父イサクを通して与えられた神様の祝福だけが、彼の拠り所、支えでした。

 さて、一方のエサウです。
後日、ヤコブのことを聞いたエサウは、何やらまた、おかしなことを始めました。
父イサクが、母リベカの親戚からお嫁さんをめとるようにと、ヤコブを送り出したと知って、張り合うのです。
ヤコブが母方の親戚なら、こっちは父方の親戚から嫁をめとってやろう、と。
どうも、地元のふたりの嫁は、お父さんの気に入らないみたいだし、親戚からめとれば、お父さんの気に入ってもらえるに違いない、と。
9節の「イシュマエル」は、以前見た女奴隷ハガルによってアブラハムがもうけた子で、イサクと異母兄弟にあたります。
ですから、その娘はエサウにとって、いとこということになります。
こうしてエサウは、3人目の妻をめとったのでした。

エサウは、こうすればイサクの好意にあずかり、祝福を得られると思ったのでしょうか。
だとすると、彼の考えは全くの的はずれでした。
彼が祝福を受け損なったのは、彼が神の民たるの恵みを軽んじて一杯の煮物と引き換えに渡したからです。
神の民たるの恵みを軽んじたと言うことは、神様を軽んじたと言うことです。
その神様に対する態度を悔い改めることなく、ただカナン人の妻達が親の気に入らないようだから云々と手を打つ。
祝福の真の与え手であられる神様に思いが至らないで、目の前の父イサクの気に入る事しか考えない。
もしかしたら、エサウははじめから、祝福の本当の与え手が神様だという信仰がなかったのかもしれません。
神様がイサクを通して祝福を与えると言うより、ただイサクが自分の思い通りに誰にでも神様の祝福を与えることができると思っていたのかもしれません。
エサウの考えることは、信仰的な視点が欠けているようです。
神様がいないとは思っていなかったでしょうが、やることが的はずれ、トンチンカンなのです。

<イエス様と的を射た会話を>
しかしこれは、エサウに限ったことではありません。
私たちも似たようなことをしているのかもしれません。
何しろ、四六時中、イエス様の側にいて教えを受けていた12弟子たちでさえ、イエス様とトンチンカンな受け答えをしていたのです。

私はここを読んで、昔、マタイの福音書16:5−12からさせて頂いたメッセージを思い出しました。
「かみ合わない会話」という題のメッセージです。
イエス様と弟子たちは舟でギーコ、ギーコとガリラヤ湖を渡っていました。
ところが弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れたことに気づきました。
そのときイエス様が「パリサイ人とサドカイ人のパン種に気をつけなさい」と仰ったんですね。

パリサイ人とサドカイ人とは、当時の宗教家たちです。
舟に乗る直前に、彼らとイエス様とのやりとりがあったばかりでした。
イエス様は、その彼らのパン種に気をつけなさいと仰ったのです。
それは、彼らの教えに気をつけなさいという意味でした。
ところが弟子たちは、あ、しまった、パンを忘れた、と思っているところに言われたからでしょうか。
イエス様が、遠まわしにパンを忘れたことを注意されたと思ったのです。
何か引け目を感じていることがあると、悪気のない言葉でも、まるで自分にあてつけ、遠まわしに責められているように感じてしまうことがあります。
本当はそうじゃないのに。
この時の弟子たちも、そうだったのでしょうか。

すっかり自分たちがパンを忘れたことを注意されたと勘違いして、弟子たちの間で、やれ、お前のせいだ、いや、お前が、、、と始まったのです。
その様子をご覧になってイエス様は、ご自分が仰ったのはパンのことなどではない、ただパリサイ人とサドカイ人のパン種に気をつけなさい、と繰り返されました。
それでようやく弟子たちも、イエス様が仰ったのはパンのことではなく、パリサイ人、サドカイ人の教えのことだと悟ったというところです。

こんな具合で、イエス様と弟子たちは、歯車がかみ合いませんでした。
魂のこと、天の御国のことに関心を持ってほしいイエス様と、それよりも、パンのこと、地に属することのほうで心が占められている弟子たちと。
両者の歯車はかみ合いませんでした。

こんなところを読むと、私なんかは、ああ、弟子たちも、我々と似たり寄ったりだったんだなあ、と妙に安心して、そして励まされます。
パンを忘れてきたかと思えば、イエス様の御心に対してトンチンカンな受け取り方をして、ナンヤカヤと大騒ぎをして、戒められる。
こんな、自分と似たり寄ったりの弟子たちをも、イエス様は愛想を尽かさず、お見捨てにならず、最後まで育て上げてくださり、また用いてくださった。
弘法筆を選ばずと言いますけれども、イエス様は、この弟子たちや、果ては自分のような者さえも、時には叱ったり、訓練したりして、御国のために用いてくださるんだ、と希望を持つことができます。

私たちも、パンのことに心を奪われて、神様のこと、御霊に属すること、永遠のこと、魂のことに無関心になってしまってはいないかと探られます。
パンのことが必要ないのではありません。
それも必要なことは神様はご存知で、それも求めて良いと仰っています。

ただそれだけで尽きてしまっては、あまりにも残念、痛恨の極みなのです。
私たちの心が天に開けない限り、地上のことしか考えていない限り、本当の意味で聖書がピンとくることは決してないでしょう。
せっかく聖書を読んでも、神様が聖書を通して、私たちに語りかけてくださっても、それこそ、エサウや、弟子たちのように、トンチンカンな受け答えをして終わりでしょう。
天国のことを話しても「天国のことなんか。」

と右から左、上の空。
「死んだ後のことより、今のこと。
信仰も聖書も、今、役に立ってナンボだ」と。
そんな見当はずれな思いをもっていないでしょうか。
イエス様は、実在する永遠の苦しみから私たちを救い出し、祝福に満ちた永遠のいのちを与えてくださるために、十字架にかかってくださったのに。
未信者の方なら、聖書のこともイエス様のこともご存じないのですからともかくとして、クリスチャンになってからも、もうずっと何十年も、イエス様と、そんなピントはずれな、かみ合わない会話をしてきてはいないか。
御国のことを思うよりも、魂のきよさに関心を持つよりも、この世のことばかりで心をふさがれて、見当はずれな祈りや、聖書の読み方をしてきてはいないか、さぐられるのです。
会話はキャッチボールと言われますが、イエス様はど真ん中にミットを構えておられるのに、こちらが投げる球はあさっての方ばかりというような…。
それでもイエス様は愛想を尽かさず、必要なときには、しあさっての方に投げたボールさえも受けて下さいますが、また、ときにはあえて、スルーされることもあるのかもしれません。
本当に大切なことに気づかせるために。

神様が愛する私たちと永遠にともに住まわれるために、世の初めから備えておられた永遠の御国。
これが、歴史のゴールです。
この御国を受け継ぐことを希望としてもって、しっかりとそちらのほうに焦点を合わせて、そして今の、地上での必要も願い求める。
この地で主に従って生きるために。
地上で与えられている役割を果たすために。
そんなピントのあった生き方をさせて頂きたいものです。
私たちに与えられているいのちは、ただ守るためではなく、用いるために与えられていますから。
いくらお年を召されても、神様が生かしていらっしゃる間は、役割がありますから。
ご自分では何もできないと思っても、神さまは意味があって生かしていらっしゃいますから。
ちゃんと神様を見上げて、やがて入れて頂ける神さまの御国を望み見て、一日一日、イエス様を喜んで、祈り、神さまに感謝して生きることが、素晴らしいあかしになるんじゃないかな、と思います。
そんなふうにして、それぞれの置かれているところで、イエス様と、ピッタリ息のあった祈りと、聖書を通しての交わりをさせて頂きたいと願うのです。

エペソ1:17−19
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。