<今日の要点>
主の愛のゆえに、素直に罪を悔い改める。
<今日のあらすじ>
創世記27章30節から。
神の祝福の契約の相続を巡るイサク家のお家騒動の続きです。
この世のいかなる家宝よりも尊い神の民たるの祝福を受け継ぐのは兄エサウか、それとも弟ヤコブか。
神様の御心は弟のヤコブに与えることでした。
しかし家長のイサクは兄エサウに相続させるつもりでした。
しかしまた母リベカは弟のヤコブの方に継がせたがっていました。
そしていよいよイサクがいわば遺言として祝福を継がせようとしたときに、リベカの主導でヤコブが兄エサウになりすまし、父イサクをだまして、祝福を横取りしてしまったということを、前回見ました。
今日はその続きです。
ちょうど父イサクが、何度も首をかしげながらも、弟ヤコブを兄エサウだと信じて、祝福し終わったところに、ヤコブと入れ違いにエサウ本人が入ってきました。
首尾良く獲物を仕留めて、腕によりをかけておいしい料理をこしらえて、意気揚々と父のところに入ってきて言いました。
「お父さんは起きて、子供の獲物を召し上がることができます。
あなたご自身が私を祝福してくださるために。」
イサクは一瞬、何?と耳を疑いました。
獲物?祝福する?獲物ならさっき食べて、エサウを祝福したばかりだが…。
頭の中が一瞬、混乱して尋ねました。
「おまえは誰だ。」
エサウは答えました。
「私はあなたの子、長男のエサウです。」
それを聞いたイサクは、ゾゾゾッと激しく身震いしました。
「何だと?今ここにいるのがエサウだと?確かにこれはエサウの声だ。
それなら、さっきのあれはいったい誰だったのか。
獲物を仕留めて、持ってきたと言っていたのは。
おまえが来るまでに、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。
それゆえ彼は祝福されよう。」
神様のご摂理というのでしょうか。
エサウがあと10分早く獲物を仕留めていたら。
いや、あと5分早く父のところに来ていたら、ヤコブのたくらみはすべておジャンになっていたかもしれません。
私たちの人生にも、あのとき、あと一歩早く来ていれば…と思うことがあるかもしれません。
そうしたら全然違う展開になっていただろうにと。
それも神様のご摂理のうちなのでしょう。
思ってもみなかった事態に直面して、エサウは大いに嘆き悲しみ、そして怒りました。
元々が衝動的な人です。
エサウは大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで言いました。
「私を、おとうさん、私をも、祝福してください。」
一方の、ようやく事情を飲み込んだ父は言いました。
「おまえの弟が来て、だましたのだ。
そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」
ヤコブの仕業と聞いたエサウは、怒りに満ちて言いました。
「彼の名がヤコブ−ヘブル語で押し退けると言う意味−と言うのも、このためか。
二度までも私を押し退けて。
あのヤコブは私の長子の権利を奪い取り、今また私の祝福を奪い取った。」
何十年前か、あの一杯の煮物と引き換えに長子の権利を渡してしまったことを、ヤコブに奪い取られたという形で覚えていました。
さらにエサウは、父イサクに泣きつきます。
「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」
しかしイサクは、言いました。
「ああ、あわれなわが子よ。
私は彼をおまえの主とし、彼の全ての兄弟をしもべとして彼に与えてしまった。
(すべての兄弟というのは、子孫のことを言っているのでしょう。)
また穀物と新しい葡萄酒で彼を養うようにした。
それで我が子よ。おまえのために、私は一体何ができようか。」
現代の感覚だと、イサクはだまされて、エサウのつもりで祝福したのだから、そっちが無効で、改めてエサウを祝福すれば良いのではないか、とも思われるのですが、そういうものではなかったようです。
どういういきさつであれ、ヤコブに祝福が渡されたという客観的な事実は、動かせないものだったようです。
しかしエサウは、なおも父にすがりつきます。
「お父さん。
祝福は一つしかないのですか。
お父さん。
私を、私をも祝福してください。」
また声をあげて泣きました。
父イサクは、落ち着いて考えてみると、かつてリベカから、主はヤコブを選んでおられると聞いていたとしたらですが、そのことが思い出されたでしょうか。
そして、これは主のなさったことだ、と背後に主の御手があったことに気づかされて、厳粛な気持ちになったでしょうか。
イサクは落ち着きを取り戻して、聖霊に示されたのでしょう、厳粛な宣言、あるいは預言を与えたのでした。
「見よ。おまえの住むところでは、地は肥えることなく、上からの天の露もない。
おまえはおのれの剣によって生きるが、おまえの弟に仕えることになる。
しかしおまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」
これは、イサクが勝手に言っていることではなくて、主が定めておられることです。
その主の定めを、かわいいわが子、お気に入りのエサウに、今度は情に流されずに、御言葉を曲げずに、告げたのでした。
その後の歴史をたどると、この39、40節の言葉通りに展開し、エサウの子孫が住んだエドム地方は、土地がやせて農耕に適さないところでした。
平和的に暮らすことは叶わず、常に周囲の民族と戦って自らの存続を守らなければなりませんでした。
ヤコブの子孫イスラエルとも戦いを交えました。
紀元前10世紀ころ、ダビデ、ソロモンの時期には、彼らはイスラエルに貢ぎを納めるようになり、弟に仕えました。
しかしそれも長くは続かず、また彼らは奮い立ってイスラエルのくびきを払い落として、独立して存続しました。
<エサウの涙は、何の涙か。
―御心に沿った悲しみと世の悲しみー>
それにしても、祝福を取り逃がした当のエサウですが、彼の悲しみよう、嘆きようは痛ましい限りです。
こんなに大声をあげて嘆いているのだから、あわれんであげても良いではないか、と思わず同情したくなります。
しかし意外にも、前にも引用したヘブル書12章17節は別な見方をしていました。
ヘブル書12:16−17
12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。
涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。
特に最後のところ「涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」
に注目しましょう。
彼は、涙は流していたけれども、心は変わっていなかったということです。
それでは彼の涙は、何の涙だったのでしょうか。
もう一度、よく見てみると、どうでしょう。
彼は、自分がかつて肉の欲のために尊い神の恵みを受け継ぐ長子の権利を売り渡してしまった、と自分の過失を嘆く言葉がまったく出てきていません。
36節を見ても、出てくるのはヤコブを恨む言葉ばかり。
そして祝福をとにかく自分にもくれ、と要求がましいことばかりでしょう。
人間知りの牧会者であったカルヴァンは言います。
「真の悔い改めのはじまりは、己の罪を感じて、自分自身を咎めて、嘆くことである。」
と。
そして「エサウは、自分自身のうちを顧みて、自分の不信仰を嘆くべきだった。
彼は、飢えた犬のように長子の権利を投げ売りしておきながら、あたかも自分は何一つ悪いことをしていないかのように、全ての怒りと憤りを弟にぶつけて、あたりちらしているのである。」
と指摘しています。
彼は、全然悔い改めていません。
自分の過失、自分の罪を嘆いてはいません。
悔しがって、憤っているだけです。
なので次回見る41節になると、エサウはヤコブ憎しの念が抑えきれなくなって、殺意を抱くようになります。
自分の非はこれっぽっちも思い至らず、周りを責める思いを募らせるだけなのです。
こういう人は、いませんか?と聞こえてきそうです。
これでは確かに、心を変えてもらう余地はなかったと言わざるを得ないでしょう。
今日の招詞(詩篇51:17)にあった
「砕かれた霊。
砕かれた、悔いた心。」
こそ、本当の悔い改めの心です。
神様は、それをさげすまれません。
怒気を含んだ悔い改めの心など、ありません。
エサウも、もし「あんなことをするんじゃなかった、神様の恵みをもっと大切にするべきだった」と自分の俗悪さを嘆いて、神様のあわれみを乞い求めていたら、心を変えて頂くこともできたのかもしれません。
いや、きっとできたはずです。
神様は、悪者でも滅びることを喜ばず、悔い改めて生きることを喜ぶのです。
(エゼキエル18:21以下参照、旧約p1387)真実の悔い改めに、遅すぎるということはありません。
そして悔い改めについてもう一つ、覚えておきたい大切なことがあります。
それは、エサウとは反対に、自分の罪を悔いるあまり、自分を責めるだけというのもいけないということです。
自分を責め続けて、潰れてしまう。
神様はそんなことを望んでおられません。
使徒パウロは、2種類の悲しみについて書いています。
第二コリント7:8−10(新約p353)これはパウロが、コリントの教会の中である罪を犯していた人たちに対して、真実な心をもって叱責する手紙を書いたあと、コリント人たちがパウロの叱責を受け入れてくれて、自分たちの罪を悲しみ、悔い改めてくれたことに対する言葉です。
7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。
あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども
7:9 今は喜んでいます。
あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。
あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
ここに「神のみこころに沿った悲しみ」(9節)があります。
それは後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます(10節)。
これに対して「世の悲しみ」は死をもたらします(10節)。
どちらも悲しみですが、結果は天と地ほども違います。
その違いは、どこからくるのでしょう。
それは、神様と愛の関係に入っているかどうか、ではないかと思います。
「神のみこころに沿った悲しみ」とは、罪を示してくださった神様の真心に触れて、罪を悲しむことでしょう。
神様との愛の関係の中で、また神様への信頼のうちに、罪を悲しむことです。
愛されている子どもが、愛情深い親から真実をもって怒られたときに、怒られたことは悲しむし、自分が悪いことをしてしまったことは悲しむけれども、根底に愛と信頼の関係があるので、それを受け止め、次に生かすことができるでしょう。
神様との関係においてもそうです。
神様からの叱責は、その時は悲しいけれども、それは滅ぼすものではなくて、間違いなく愛から出ているもの。
私たちを滅びの道からいのちの道へと戻らせるためです。
だから、悲しむべきことを悲しんだその向こう側には、希望があるのです。
喜びがあるのです。
それに対して「世の悲しみ」とは、神様との愛と信頼の関係なしに、ただ罪を責められていると感じることではないでしょうか。
ただ悔しくて、腹が立って、また自分を責めるばかり。
それは滅びへと向かわせる悲しみです。
両者の違いをもたらすのは、愛と信頼です。
イエス・キリストにあらわされている神様の愛を深く思い巡らし、聖霊によって、神様との愛と信頼の関係を育むことができますように。
その神様の愛があるから、またキリストの十字架があるから、思い切って自分の本当の姿をー罪深さをーありのまま、認めることができます。
どれほど醜くても、絶対に見捨てられることはありませんから。
まったく自己正当化しようとしたり、言い訳したりする必要はない。
私を生かすため、私を御子の似姿に造りかえて下さるために、聖霊によって罪を示されたら、罪は悲しみつつも、神様の子どもとされていることを実感し、喜んで、悔い改めましょう。
それこそ、神様の真実な子とされていることのあかしなのですから。
ヘブル12:10−11(新約p441)
12:10 …肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
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