礼拝説教要旨(2020.07.12)
初めから愛されていた
(創世記25:22-26) 横田俊樹師 
<今日の要点>
 キリストを信じる者は、信じる前から、生まれる前から、世界が造られる前から、永遠の愛をもって神さまに愛されていた。
天地創造の初めからキリストのうちにある者として=神さまに愛される対象として、造られた。


<今日のあらすじ>
前回の続きです。
イサクの20年越しの祈りが聞かれて、ようやくリベカに胎の実が宿ったのですが、喜んだのも束の間、やがてリベカは新たな不安に襲われることになりました。
どうもお腹の中の様子が尋常ではないようなのです。
リベカもかなり年齢がいってからの初産で、それだけでも初めて自分の身体の中に起こる変化に不安を覚えるものでしょうが、しかもそれがお腹の中でそうとう派手に動いている、暴れているのです。
ただでさえ、現代でも出産は命がけです。それが古代のことです。

リベカは「こんなことでは、いったいどうなってしまうのでしょう、私は」
と不安を覚えたのも無理はありません。
しかしこういう時に、主に向かうところが、リベカのよいところです。
主の御心を求めに行った、とありますが、当時、預言者がいてその人のところにお伺いを立てに行ったのか、それともリベカがひとりどこかに退いて、祈りに行ったと言うことか。
いづれにせよ、切迫した不安をどこにも持って行き場がなくて、自分だけで抱え込むのでなくて、こうして主の御心のうちに平安を見いだそうとすることは、彼女の信仰深さを物語っています。
先週見ました
「苦難の日には、わたしを呼べ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。」
(詩篇50:15)を地で行くリベカでした。

 こうしてリベカに示された主の御心が23節です。
「すると【主】は彼女に仰せられた。
『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。
一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。』」お腹の中には双子ちゃんがいました。
それがお腹の中で押し合いへし合いしていたのでした。

ここで語られている「二つの国」「二つの国民」とは神の民イスラエルと、異邦の民エドムのことです。
歴史はこの御言葉の通りに展開して、後に弟ヤコブからイスラエル民族が出て、兄エサウからはエドム人が出て、そしてダビデの時代にエドム人はイスラエルに仕えるようになりました(第二サムエル8:1、旧約p537)。

 やがて時、満ちて、神さまのお告げ通り、リベカから双子が生まれました。
最初に出てきた子は、赤くてー赤ちゃんだから赤いのは当たり前ですが、特別に赤かったのでしょうかーそして全身毛衣のようだったと言います。
それで「エサウ」と名付けたというのですが、エサウの語源はわかっていません。
「赤い」か「毛深い」に関係のある言葉だったのでしょう。

そして続いて生まれてきた子は、先に生まれたエサウのかかとをつかんでいたと言います。
それでヘブル語で「かかと」を意味する言葉(アケブ)にちなんで「ヤコブ」と名付けられたと言います。
かかとくん。
20年間も待った待望のわが子につけた名前にしては、つけ方が適当に見えますが、古代はこうだったのでしょうか、、、。

<初めから愛されていたー行いによらず>
 23節の最後「兄が弟に仕える」という言葉。
ここだけを読む限りでは、ただ単に将来そうなると予言したともとれますが、使徒パウロはここを、神さまがそう定めておられたという意味で引用しています。

ローマ9:10−12、16(新約p303)
9:10 このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。

9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、
9:12 「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。

・・・
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

まず誤解のないように。
改めて言うまでもありませんが、神様が常に兄よりも弟のほうをお選びになるということではありません。
当時、一般的に兄の方が弟より尊ばれていたので、神さまの選びは人間的な世の中の基準や価値観とは関係なく、自由にお選びになるということをあらわすために、弟の方が選ばれたに過ぎません。
神さまの選びは、世の中の人が見る見方とはまったく違って、自由自在です。

ここは、救いのこと=私たちが神の民とされることについて語っている箇所です。
それは、彼らがまだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、とあります。
ヤコブのほうがいろいろと善行を積んで偉いからとか、エサウが何か悪いことをしたからエサウを退けたとか、いうのではまったくない。
彼らが善にしろ悪にしろ、何も行わないうちに、生まれる前に、すでに神さまはヤコブを神の民としてお召しになった。
お選びになった。
人が神の民とされるのは、人間の側の願いや努力によるのでなく、ただただあわれんでくださる神によるのだと言うのです。

 もう少しヤコブとエサウの例で考えましょう。
彼らは双子だったということは、文字通り肉と血を分け合ったまったく同じ材料から作られた二人だったということです。
アブラハムの子イサクとイシュマエルの場合は、これとは違いました。

イサクがサラの子、イシュマエルはハガルの子ということで材料に違いがありました。
しかし今度は同じ父と母から、しかも同じ両親でも別なときに産まれた兄弟でもなくて、同じ材料から血と肉を分けた双子です。
たとえて言えば、一つの粘土の塊から二つの器を造ったようなもので、材料はまったく同じです。
それでいてしかも産まれる前からこんなふうに選び分かたれているということは、まったく彼ら自身の側の何かによらず、ただただ神様が一方的に片方をご自分の民として決めておられた、ということを表わしているのです。

 でも、こういう反論もあるでしょう。
まだ善も悪も行うことはしなかったが、神にはヤコブはこういう人間、エサウはこういう人間ということがわかっていた。
ヤコブの方がふさわしい人間だと、生まれる前からわかっていた。
だからそれを見越して、ヤコブを選んだのだ、と。
しかし、それならパウロはもっともっと遡ります。
エペソ1:4−5(新約p373)
1:4 ・・・神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 今度は、生まれる前どころか、世界の基の置かれる前からです。
胎児の影も形もありません。
世界すら存在していないのです。
つまり永遠の昔から、永遠の愛をもってお選びになっておられたというのです。
自分が善だからとか、頑張ったからとか、功績を積んだからなど、人間の出る幕などチリほどもありません。
すべては神さまのお心によって定まっていたのです。

陶器師は同じ土の塊から、思うままに、あるものはこういうふうに、他のものはああいうふうに、と自由自在に作ります。
陶器師が、あるものを床の間に飾るものとして、あるものを玄関に置くものとして、またあるものをゴミ入れとして作ったからと言って、それは不公平だ、みんな同じ用途に作らなければ、などとは誰も言わないでしょう。
作る人の考え一つで、どこに何のために置くか、決まるのです。

そして神さまは、この世界をキリストによって恵みの栄光がほめたたえられるために造られました。
その目的に従って、ある人は神の正義をあらわす御怒りを受ける怒りの器に、そしてある人はキリストによる神のあわれみを表すあわれみの器として造られたのです。
そして、キリストを信じた人は、神さまのあわれみの器として造られたということです。
神の民ということは、神のあわれみを受けた器ということです。
立派だから神の民として選ばれたのでなく、あわれみにあずかったのが神の民です。

尊い御子キリストの十字架の贖いにあずかる器として、すなわち、神の御子が十字架上でそそぎ出されたその尊い血潮によって罪の赦しを受け、洗われ、きよめられて、神の民とされる、そのあわれみの器として選ばれていたのです。
そうして御子を下さった御父をほめたたえ、私たちのために十字架に命を捨ててくださった御子をほめたたえる民として、永遠の昔から定められていたのです。

このように、人間の側の功績にしろ悪い行いにしろ、いっさい行いによらず、神さまが世界の始まる前から一方的にご自分の民を定めておられたという教えを「予定論」といいます。
長老教会が採用しているウェストミンスター信仰告白には「この教理は、すべてまじめに福音に従うもの達に、神への賛美と崇敬と賞賛の念を起こさせ、また私達に謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を提供してくれるであろう。」
とあります。
「すべてまじめに福音に従うもの達に」良き物を提供する教えです。
従う気のない人には、気に入らない教えかもしれません。
しかし、キリストに従う人には、大きな益をもたらす教えです。
以下、この信仰告白の文章に沿って、一言ずつ、みていきます。

「神への賛美、崇敬、賞賛の念を起こさせ」私たちは、道ばたの蛙やミミズでなく人間に造られたことだけでも素晴らしい恵みですが、それが永遠の昔から神さまの民として定められていたとは、言葉に言い表すことのできない恵みです。
すべてを御心のままに、思うままにお定めになり、その通りに遂行される方に、すべての栄光、誉れ、感謝をお返ししましょう。

そして、「謙遜」。
神の民の身分は、いっさい私たちの功績やガンバリによって得たのではありませんから、何も誇ることがありません。
それどころか、御子の血による罪の赦しを頂いて、救って頂いたに過ぎないあわれみの器です。
このことは、私たちをへりくだらせずにはおかないでしょう。
まるで自分が何ものかででもあるかのように誇り、他者を見下す態度は、まだまだ福音がわかっていないことのあかしです。
自戒しましょう。

そして「熱心」。
ひとつには、神さまの永遠の愛をもって愛されていることを知って、熱心をかき立てられるでしょう。
もう一つ、たとえば私たちは神の御子の似姿を目指すようにと言われていますが、現実の自分の姿はあまりにもかけ離れています。
あまりにかけ離れすぎていると、ヤル気さえ起こらないものです。

しかしあらかじめ御子と同じ姿に定められていると思うと(ローマ8:29)、励まされて、そこに向かおうという気になります。
自分がイエス様の似姿になる時が来るとは、信じられないくらいです!しかし、神さまによって、そのように定められているのですから、必ずそのようになるのです。
そしてそう思うと、その方向に向かって進もうという気持ちに励まされます。
そして神さまの恵みによって少しでも御子の似姿に近づいたとしたら、それは自分の力ではなくて、あらかじめ神様がそうお定めになっていたから。
だから、神さまに感謝することであって、誇ることはできません。
予定論は、このように誰をも誇らせないためのものでもあり、一切の栄光を神さまにお返しするためのものでもあります。

そして「慰め」自分の無力さ、醜さ、罪深さにうちひしがれたとき、自分で自分を見放したくなるとき、それでも神様が永遠の昔から神さまの愛する子として定めておられると知ることは、慰めとなります。

神さまが私たちを救ってくださったのは、昨日今日の思いつきなどではなく、永遠の昔からの熟慮の末の決定です。
ちょっとやそっとじゃ、いや何があっても、変わることはありません。
この永遠の愛で愛されていることがわかると、確信がどっしりと深いところに根ざします。

神さまは、私たちがイエス・キリストを信じたから、私たちを愛したのではありません。
私たちが信じる前から、生まれる前から、いや世界が造られる前から、天地創造の初めから、愛のうちに定められていたのです。
初めから愛していたので、御子を下さってまで、私たちをお救い下さったのです。
そのようにしてご自身の愛をあらわすことをよしとされたのです。

そしてそれが時至って、一人ひとりのキリストへの信仰告白となってあらわれたのです。
ですから、今、こうして自分がキリストを信じさせて頂いているということは、神さまが永遠の昔から私を愛し、私を憐れみの器として定めておられたことのあかしなのだ、とよく思い巡らしましょう。

【主】は遠くから、私に現れた。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
                (エレミヤ31:3)