<今日の要点>
神の民の祝福・特権は、祈れること。
祈りましょう。
<今日のあらすじ>
信仰の父祖と称されるアブラハム晩年の記事を前回、見まして、今度はその息子イサクが舞台を務めることとなります。
11節「アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。」
とあるように、主なる神様がアブラハムに与えておられた祝福の契約は、イサクに引き継がれました。
ところで、アブラハムには、女奴隷ハガルによって得たもう一人の子、イシュマエルがいました。
それで本筋のイサクの生涯に入る前に12節以下、イシュマエルのその後が簡潔に記されます。
12節「これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。」
そして13節以下、ここに列挙されたイシュマエルの子たちの名前は、16節を見るとそれぞれ村落や宿営につけられた名前であり、12人の氏族の長となったと言います。
かつて、神様はイシュマエルをも祝福して12の部族が出て来る、アブラハムの願い通り、彼もまた確かに大いなる者となろう、と仰っていましたが、その通りになりました(17:20)。
そして17節を見ると、彼もまたその民に加えられたとあります。
彼は神様の契約を受け継ぐものではなかったけれども、彼もまた神の民として加えられたのでしょう。
イシュマエルとは、その名も「神、聞きたもう」という意味の名前で、それは御使いがつけた名前でした。
そしてその後、彼が十代後半頃、母親とともに荒野に追い出されて、息も絶えそうなほどに弱ったときに、彼が声にならない声でうめくように、神に助けを求めたその声を、神様は聞かれて、彼と母ハガルを助けられた、ということもありました(21:17)。
神様が、自分の祈りの声を聞いて下さって、命拾いをした、助かった、という経験を恵まれた彼は、その後も神様に祈る者となったであろうことは、想像に難くありません。
彼の子孫は、18節を見るとアラビア半島に住んだようです。
そして兄弟達と互いに敵対して住んだというのも、かつて主が仰っていたとおりでした
(16:12)。
イシュマエルは新約聖書では、御霊に対する肉の性質をあらわすものとして引用されますが、肉の性質は妬み、争いで、争いが絶えることがありません。
しかし、この世的には繁栄しました。
元々は女奴隷の子として一生を終えるはずだったイシュマエルでしたが、神様はご自身で語られた御言葉とおり、その子孫は12部族を形成するほどとなり、アラビア地方一帯に広がるほどになった様子が記されました。
ところで、そのようにイシュマエルに対する神様のお約束はスムーズに成就したのですが、アブラハムの祝福を受け継いだイサクの方はどうか、と見てみますと、これがどうもアレアレ?なのです。
21節に、リベカが不妊の女性だったからイサクが祈って、主が彼の祈りに答えてくださり、リベカはめでたくご懐妊、とまるで祈ってすぐにお手軽に答えられたかのように書かれていますが、実際のところどれくらい祈ったのでしょう。
1回祈ってすぐ答えられたか、それとも1年か2年くらい祈ったのか、それとも5、6年か?この21節を読む限りだとそのまま何気なく読み過ごしてしまいそうなのですが、これが実は26節を見ると、イサクが子供を与えられたのは60歳だったとあります。
するとイサクは40歳で結婚していますから20年間待たされたわけです。
かたやイシュマエルは12人もの息子達を次々と与えられ、それぞれが部族を形成するほど繁栄して増え広がっていったというのに、それを横目で見るイサクのほうは20年間ズーッと与えられなかったのです。
神様はかつてアブラハムに、イサクに産まれるあなたの子孫は空の星のようになる、と祝福を約束しておられたはずでしょう。
それなのに、現実はまるっきしなのです。
アブラハムには百歳まで子供は与えられなかった。
しかしようやく与えられたイサクにはきっと次々と子供が与えられて増え広がるに違いないと期待していたら、なんとイサクも待っても待っても与えられない。
つぶやきの一つも出そうです。
しかし、アブラハムはこのとき、存命中でしたが、彼はあきらめずに祈ったでしょうし、またイサクもアブラハムに励まされながら、「わしは100歳じゃったぞ」とか、励まされながら、祈り続けたのでしょう。
そして忍耐の末にようやく祈りが聞かれ、与えられたのでした。
21節後半「主は彼の祈りに答えられた。
それで彼の妻リベカはみごもった。」
聖書は簡潔に書き記していますが、この間20年。
信じると言うのは信じ続けると言うことなのだな、と思わされます。
<神の民とされている特権、祝福―祈り>
それにしても、イシュマエルとイサクとこうして並べてみると、一見、不思議な感じがするかもしれません。
古代の聖書の世界では、子だくさんが祝福とされていましたから、これだけみると、イシュマエルの方が祝福されているじゃないか、となりそうです。
11節に「アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。」
と書いたその直後にこの記事です。
イシュマエルの方は、まるで生まれるのが当たり前のように、特に子どもが与えられるようにとは祈りもせずにでしょう。
ポンポン生まれた。
それに対して、イサクのほうは長い間、祈っても祈っても与えられず、つらい時期を強いられたというのです。
神様、間違っていませんか?これではどっちが祝福されているのか、わからないではないですか?と愚痴の一つも出そうです。
そして20年経ってようやく与えられ、それは双子ではありましたが、それでも数だけを見れば、イシュマエルのほうが12人ですから、6倍祝福されたということになりそうです。
しかし、このことは、神様の本当の祝福とは、何だったのか、表面的なところだけで計ることのできない何かがあるのではないか、ということに、私たちの思いを向けさせてくれるように思います。
これまでにも神様の祝福は、この世の考える祝福とは違うものだということは、繰り返し見てきました。
覚えておられるでしょうか。
創世記の最初の方4章には神の民アベル、セツの系列と、我が世の春を謳歌するかのように栄えたカインの系列との対比がありました。
それから9章の終りから10章にかけて、ノアの子孫である神の民セムの系列と、呪われたにもかかわらず世的には権力者ニムロデを出したり、古代の大帝国エジプトの王を出したりと栄えたハムの系列の対比も見られました。
神様の祝福と、世の祝福は異質なもの。
イエス様も、わたしの国はこの世のものではない、と仰いました(ヨハネ18:36)。
そしてそれは、神様からアブラハムに与えられた祝福の契約を受け継いだイサクにもみられるものでした。
神様がアブラハムに与えた祝福の契約の一番、本質的なことは何だったのか。
それは以前17章を読んだときに、少し触れました(17:7,8)。
長くなりますので、今日は詳しく触れませんが、神様が人に与えられる最高最大の祝福。
それは、神様ご自身を与えてくださるということです。
彼らが、神様の民となり、神様が彼らの神となられること。
これが、天地の造り主であられる神様からの最高、最大の祝福です。
その祝福の実現のために、尊い神の御子キリストが十字架にかかられて血を流されたのですから、それがいかに価値のある恵みであるかが、わかるでしょう。
そして、私たちが神様の民であること、神様が、私たちの神となって下さったことを、地上にあって最も味わうことができる特権は、祈りです。
神様に祈ることができるということ。
祈ることが許されていると言うこと。
これこそ、私たちが神様の民とされていることの醍醐味と言っても過言ではない。
もちろん、最終的には、永遠のいのちを与えられ、永遠の神の御国を受け継がせて頂くことが、最大の祝福、また希望です。
いったん、神様が私たちの神となってくださり、私たちが神様の民となったら、その絆は、死によっても断ち切られることも途絶えることもない。
死の向こう側まで連続して、永遠の御国にまで、永遠に続く絆です。
誰もこの絆を壊すことはできません。
正義の住む、従って平和と祝福が支配する永遠の御国で神様とともにいつまでも生きる御国が、神様がご自身の民のためにご用意下さっている最大の究極の祝福です。
それが私たちの究極の希望です。
しかし、今、この世にあって、私たちに与えられている最大最高の特権、祝福。
それは、神さまに直接、祈ることができるということ。
祈りである、と言っても過言ではないと思います。
そう思うと、です。
21節「イサクは自分の妻のために主に祈願した。
彼女が不妊の女だったからである。
主は彼の祈りに答えられた。
それで彼の妻リベカはみごもった。」
という一節も、別な見方が出て来るのではないでしょうか。
「困難は祈りの母、試練は信仰の父」と言います。
また「難題は祈りの母、不安は信仰の友」などとも言われます。
困難は、私たちを神さまに向かわせる恵み、祈りに向かわせる恵みでもあるのです。
先日の水曜祈り会のメッセージでも取り上げましたが、
詩篇50:15(旧約p954)
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。
思えば、アブラハムと妻サラもそうでした。
彼らも長く長く祈らされ、信仰の格闘をしては、また祈らされ、もうあきらめた頃に、いやあきらめて何年も経った頃に与えられたでしょう。
それから同じく旧約聖書に出て来るサムエルという、主に用いられた祭司がいますが、彼を生んだハンナという女性も、不妊で苦しい思いをしました。
もう一人の妻ペニンナというのが、また性格の悪い女性で、自分がポンポン生んでるからと言ってハンナに嫌がらせをして、悔しがらせて優越感に浸るような、性格の悪い女性だったようです。
でも、そういう性格の悪い女性が側に置かれたのも、神様のお許しの中にあったこと。
それで苦しくて苦しくてたまらず、ハンナは神さまに祈った。
祈らずにいられないほどに、追い詰められた。
涙ながらに祈って、祈って、祈って。
神様が子どもを与えてくださったら、その子を神さまにお捧げします、神さまにお仕えする人としてお捧げします、と言って、祈った。
そして聞かれたんですね。
そうして祈りのうちに生まれたのが、サムエルという旧約聖書を代表する祭司であり預言者の一人となったわけでした。
苦しい中におかれても、神様に祈る方向に行かないで、文句しか出ない、愚痴しか出ない人もいます。
黙示録というところには、世の終わりが近くなって、天変地異、さまざまな災害が地上を襲ったときに、人々は悔い改める事をせず逆に、神に対して怒った、という記述があります(黙示録9:20、16:21)。
同じ環境におかれても、ある人は神に祈る方向に向かい、また他の人は神に怒りをぶつける方向に向かう。
そっちは自滅する方向、滅びの方向です。
そっちに向かってはいけません。
苦難は祈りの母。
祈る方向に向かうのです。
その行き着く先は、恵みであり祝福であり、神様の栄光なのです。
ろくに祈りもせずに、あるいはどうしても祈らずにいられないところまで追い詰められることもなく、スイスイとこの世の繁栄の人生を歩んでいたら、それはカインやハムの系列、神と無縁の系列ということなのかもしれません。
もし、クリスチャンなのに、祈ることの醍醐味も知らずに、祈りに答えてくださる主を知らずに、人生を終えてしまったら、それはとてももったいないことです。
天地の造り主であられる神さまに、祈ることができるということは、お金では買えない、この世の何を差し出しても手に入れることのできない最高の祝福であり、最高の特権です。
生ける神の御子イエス・キリストの尊い血潮という代価を払って、初めて可能になった恵みです。
これを軽んじてはいけません。
神学校の礼拝学という授業で、印象に残っている言葉があります。
通常、説教のあとに祈りを捧げるわけですが、それについて「祈りこそ、花。
説教はその肥やしに過ぎない」というものでした。
説教後の祈りは、付け足しや説教の二番煎じでなく、むしろそちらの方こそが、花だと。
考えてみればそうです。
祈りは、聖なる神様への尊いささげものですから。
説教はそれに向けて整えるためのものです。
神様のほうに向かわせるものです。
私たちの心から発する祈りは、神様への霊のささげものです。
神さまが一番望んでおられるささげものでしょう。
ただ、往々にして、祈りには忍耐が必要とされます。
安っぽい恵みのように、まるでアラジンの魔法のランプかなにかのように、ランプをこするとすぐに「はい、ご主人様」と何でも望みを叶えてくれる奴隷が出て来るかのような、そういうものではありません。
そこに、多くの信仰者もつまずくのです。
もちろんある場合にはすぐに、機を逃さずに答えられるでしょう。
しかしこのイサクの場合のように、忍耐を強いられ、信仰を鍛えられることもあるのです。
有名な話ですが、19世紀に活躍したジョージ・ミューラーというイギリスの牧師さんは、こんなことを言っていました。
「私は現在、二人の人のために23年間、祈り続けています。
私の祈りはこれまで何千、何百と答えられているのですが、この二人の救いに関する祈りだけは、今にいたるまで答えられません。
そこでこういうときには、こちらの信仰がおおいに試みられます。
熱心に断固として祈り続けようと言う気持ちがぐらつきそうになります。
しかしながら、忍耐をして神を待ち望むならば、祝福は必ず与えられます。
むしろ長く待てば待つほど、祝福は尊く、また甘美なものとなるのです。」
こういって祈り続けた結果、どうなったでしょう。
その二人のうち一人は彼の死の直前に改心し、もう一人はそれから1年たって、ジョージ・ミューラーの死後、救われたと言うことです。
彼の確信は正しかったことが証明されました。
それからまた、以前にもお話ししたことがありますが、紀元4世紀中頃のこと、17の年で放蕩に走り、身を持ち崩してしまった息子のために、およそ20年、昼夜彼の救いを祈り続けていた母親がいました。
その息子とは、後に改心して西方教会最大の古代教父と称されたアウグスチヌス、祈り続けた母の名はモニカと言いました。
モニカが20年に渡って積み上げてきた祈りは、確かに天に届き、神様は奇跡を起こして息子を最大の教会教父となさったのでした。
祈りに対する答えがイエスでもノーでも明らかに出ている場合は別ですが、そうでないなら、少なくともほんの1カ月や2カ月祈っただけで、祈ったのに答えられなかった、などというのは、これらの先輩達が見たら、本当に祈る気があるのかと言われてしまうでしょう。
生きているうちに答えが出ないことがあったとしても、祈りを聞いておられる方は真実なお方と信頼して最後まで祈る。
祈りというささげものを、最後の一息までささげ尽くす。
そういう神様の礼拝者であれ、と神様からの祈りの励ましを読み取っておきたいと思います。
祈りは聞かれるのです。
イサクが祈らなくても、神様の御心なら、与えられただろうなどという理屈は、ナンセンスです。
21節のみ言葉に「主は彼の祈りに答えられた。
それで彼の妻リベカはみごもった」とハッキリと書いてあるのです。
神様は、彼の祈りを用いて、子孫を与えるという方法をよしとされたのです。
祈りを軽く見てはいけません。
与えられないのは、祈らないからだったということも、十分あり得るのです。
|