1章から見て参りました創世記も25章となりました。
創世記は全部で50章ありますから、ちょうど折り返し地点ということになります。
「初めに、神が天と地を創造した。」と宇宙大のスケールの創造の御業で始まった創世記は、その神様の創造の御業の中心である人の創造へと筆を絞り、アダム以下、アベル、セツ、ノア、と連綿と続く神の民の歴史を概観して12章以下、信仰の父祖アブラハムに焦点を合わせて、その波瀾万丈の信仰の生涯の足跡をたどってきました。
今日はそのアブラハム、晩年の記事となります。
<今日の要点>
神の民は、地上の生涯を終えた後、天の民のもとに加えられる
<今日のあらすじ>
アブラハム晩年の記事です。
1-6節は、長年連れ添ったサラ亡き後、そしてもしかしたら、イサクがリベカをめとった後かもしれません、ケトラという名(香りという意味と言われるようですが)妻をめとって6人の息子をもうけ、さらにその子孫が繁栄していく様子が記されます。
サラが亡くなったのが、127歳でしたから、その時点で10歳上のアブラハムは137歳。
また、もしイサクが結婚した後だとすると、イサクは40歳で結婚しましたから、アブラハム140歳以上となります。
若い奥さんをめとりました。
アブラハムが100歳の頃には、すでに子供を与えられる望みのない身体になっていましたが、100歳のアブラハムと90歳のサラとの間に、神様の力によって子供が与えられるという約束が成就するために、アブラハムは奇跡的にその力が回復して、イサクが与えられました。
そしてその後も、いったん枯れた泉が再びしばらくの間、水を湧き出せたのでしょうか。
花咲かじいさんではありませんが、枯れ木に花を咲かせるがごとく、老境のアブラハムが、晩年にもう一花咲かせて、多くの子どもたち、孫たちに恵まれて暮らすことができたということでしょう。
以前、神様から、あなたを多くの国民の父とすると、祝福の言葉を頂いていましたから
(17:4-6)、その実現のためにという思いもあったのではないか、とする注解書もあります。
ともかくアブラハムは、晩年、大勢の子どもたちに恵まれましたが、ただ、5節を見ると、全財産はイサクに与えました。
サラとの間の唯一の子。
正式な跡継ぎ。
それ以上に、神様の約束の子イサクです。
神様からの契約を受け継ぐべき子です。
つまり、目に見える財産だけでなく、神様がアブラハムに与えた祝福の契約が最大の相続財産だったと言うべきでしょう。
その子孫を祝福し、星の数のようにされ、約束の地を継がせてくださること。
彼らは神様の民となり、神様が彼らの神となってくださること。
そしてその子孫から、人類の敵であるサタンを滅ぼす救い主がお生まれになるという約束。
これら霊的な祝福を受け継ぐのは、神様ご自身が指定しておられたイサクただひとりでした。
そして、発つ鳥、後を濁さず。
アブラハムも地上を去る前に、如何にも彼らしい配慮をしました。
他の子どもたちも、かわいいには違いないけれども、自分がいなくなった後のことを考えると、手を打っておく必要がある。
そばめの子供たちがいつまでも一緒にいたのでは、万が一にも争いが起こらないとも限らない。
自分がいなくなった後、そういう悶着が起こらないよう、彼らを遠くのほうへと、しかも不満が出ないようそれ相応の贈り物を持たせて遠くにやる、と周到に手を打ちました。
これは如何にも平和を愛する知恵者アブラハムらしいことで、このほうがそばめの子供たちにとってもかえってよかったのでしょう。
ここに挙げられているケトラの子孫はアラビヤでそれなりに栄えたようで、彼らはアラビヤ地方の諸部族となったと思われます。
そのうち2節、4節に出て来る「ミデヤン」は、後にミデヤン人として聖書にも登場することになります。
モーセの妻チッポラもミデヤン人でした。
さて、こうして打つべき手を打って、後顧の憂いなく、いよいよアブラハムは地上の旅路に幕を引くこととなりました。
思えば、創世記11章の終りに初めてその名が登場して、12章からはその生涯を、神さまとのやりとりを、たどって見てきましたが、いよいよこの25章でお役目を終え、舞台裏に下がって、休みを得ることとなります。
175年の生涯のうち、100年を約束の地、カナンで波瀾万丈の日々を過ごしました。
ちなみに、アブラハムが召されたとき、イサクは75歳,イシュマエルは89歳(16:16)のおじいちゃんになっていました。
(この後出て来るイサクの子エサウとヤコブは15歳(25:26))以前、イシュマエルが十代後半の頃、まだ幼いイサクをいじめたことがありましたが、それがもとで母親といっしょに追い出され、荒野に住むようになりましたが、アブラハム自身はイシュマエルを愛していたし、愛されていたイシュマエルも父アブラハムを慕っていたでしょう。
こうして父アブラハムの死に際して、イシュマエルに声をかけてあげて、二人で一緒にアブラハムの亡骸を葬ることとしたのも、イサクの寛容さと、親思いなところが伺われるような気がします。
またイシュマエルはイシュマエルで祝福されていたので、妬みも恨みもなく、いっしょに父アブラハムを葬ることができたのでしょう。
こうしてかねてからアブラハムが購入し、サラを葬ってあるマクペラのほら穴に、二人の息子が仲良く平和のうちに、アブラハムの亡骸を葬ることができたという次第でした。
8節に「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。
以前見た15章で神様は「あなたは平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。」と仰ってましたが、その通りになりました。
平安のうちにその時を迎えるには、外面的に平和な生活をしていると言うだけでなく、良心の平安も必要でしょう。
まったくうしろめたい思いがないという良心の平安なしに、真の平安はありえないでしょう。
そして良心の本当の平安は、罪の赦しを確信することなしには、ありえないのではないでしょうか。
罪を犯さない人はいないのですから。
アブラハムは自らの歩んできた道を振り返って、多くの過ちや罪も覚えつつも、ただ一方的な神様の恵みにより、罪を赦され、神の民として受け入れていただいていると言う確信を持っていたのでしょう。
それからもう一つ、平安のうちに召されるためには、死んだ後、どうなるのか、ということを知っている必要があるのではないでしょうか。
その点でも、アブラハムは、地上の都よりもはるかにすぐれた天の故郷を望み見ていました。
むしろ待ち望んでいた天の都に迎えられる喜びのうちにその時を迎えたのかも知れません。
<自分の民に加えられたー死んでも生きる神の民>
8節で、アブラハムが生涯を閉じたことを「自分の民に加えられた」と表現しています。
「自分の民」と言っても、イスラエルが登場するのはまだ後です。
アブラハムの孫ヤコブを、神様がイスラエルと命名されたのが、イスラエル民族の始まりです。
なのでここの「自分の民」は、アブラハム以前の神の民のこと。
アブラハムより一足先に地上での役割を終えて、地上を去った先祖たちー神への信仰をもって地上を去った先祖たちーのことです。
これまで創世記のはじめから見てきたように、アダムから始まってアベル、セツ、エノク、ノア、セム、、、と懐かしい名前が浮かびますが、彼らのことです。
もちろん彼ら以外にも無名の信仰者たちもいたでしょう。
彼らはみな、それぞれに与えられた時代に歴史の表舞台に現れ、それぞれの役割を果たして、そして歴史の舞台から去って、神様が備えておられる場所へと移されました。
アダムにはアダムの役割。
人類最初の人、人類の代表として、そして罪を犯してしまい、全世界に呪いと死をもたらした。
その責任を嘆き、深く悔いながらも、神様からなおも与えられた救いの約束、あわれみ、恵みに支えられ、望みを持ち、救い主を待ち望んで次の世代へとバトンタッチしていく。
そんな役割でしょうか。
ノアにはノアの役割がありました。
アブラハムにはアブラハムの、イサクにはイサクの役割がありました。
あまり目立たないイサクですが、あのイサク奉献のときには、イサクはこわい思いをしたでしょう。
トラウマにならなかったのかな、と心配になるくらいです。
それとも、むしろ父アブラハムの神さまに対する信仰の姿勢を、じかに感じて、彼自身の信仰が筋金入りとなったのでしょうか。
それからまたヨブにはヨブの役割がありました。
ご存知の通り、義人でありながら苦難に次ぐ苦難を受け、善意の友人からあらぬ誤解、非難を受け、苦しめた。
しかし最後には神様のあわれみを受け、何倍もの慰めを受けたという役割。
新約ではペテロ。
主のためならいのちさえ惜しくありません、とかっこいいことを言っていながら、舌の根も乾かぬうちに主を否んでしまった、それも呪いまでかけて、それも三回も。
しかし、そんなペテロにも変わらずに注がれ続けた神のあわれみ。
そんなペテロを造りかえて下さって、使命を全うさせて下さった神様の恵みと御真実を身を以て証する役割。
そしてパウロは、教会を迫害して次々とのクリスチャン達を縛り上げ、牢獄に放り込んでいた迫害の鬼だったにもかかわらず、あわれみを受け、尊い救いに与り、彼もまた造りかえられて、どんな苦しみ、迫害を受けても、いのち尽きるまでイエス・キリストをあかしするものとされた。
そんな役割でしょうか。
みな、それぞれに神様から与えられた重荷を負い、自分の十字架を背負って、神と共に歩み、神の御前に、泣いたり笑ったり、喜んだり怒ったりしながら、神様に祈り、ときに訴え、叫び、また感謝し、賛美をして、それぞれの生涯を走り終えました。
そして時間と空間を越えて神の民が集められるところに移されたのです。
彼らは、消えてなくなったのではありません。
霧のように蒸発して、存在が消滅したのではありません。
彼らの魂は、その住みかであった地上の肉体を置いて、神様が備えておられる場所に行って、そこで生きているのです。
変な言い方ですが、死後も生きるのです。
場所を変えて、生き続けるのです。
そのことを「自分の民に加えられた」と言っているのです。
ちなみに、ここで天に迎えられたと言わずに、自分の民に加えられたと言っているのは、旧約の時代はまだ、キリストの贖いの御業がなされていないので、よみの世界にある義人の場所に行ったのだという解釈があります。
旧約の時代は、人はみな死後、「よみ」と呼ばれる所に行きます。
その「よみ」の中に神の民とそうでない人の場所が区別されてあったというものです。
ルカ16:19以下に、金持ちとラザロの話で、生前つらい人生を送っていたラザロが死後、「アブラハムのふところ」に迎えられ、慰められたと記されています。
どうして天に、とか、神様のもとに、でなくアブラハムのふところなのでしょう。
それは、キリストの十字架の御業がなされる前なので、まだ天が開かれていなかったから、という理解です。
この創世記の25:8で「自分の民に加えられた」と言われている、その神の民がいっしょに集まっているところ。
それが、キリストが十字架上で死なれたときに、神殿の至聖所と聖所を隔てる幕が上から下に向けて裂けたように、キリストの死によってはじめて天が開かれ、キリストの昇天のときに旧約の神の民たちの魂もいっしょに天に引き上げられたというのです。
イエス様は、復活はないと言っていたサドカイ派の人々に対して、神様がモーセに現れたとき、ご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と自己紹介されたではないかと言い、神は死んだ者の神ではありません、生きている者の神です、と仰いました
(ルカ20:37−38)。
モーセより何百年も前に地上を去ったアブラハムたちのことを、神様はモーセの時代にも、ご自分は彼らの神であると宣言されたのは、彼らがその時にも生きているからだと仰ったのです。
モーセの時代より何百年も前の彼らは、場所を変えて生きているのだというのです。
いづれにせよ、新約の時代に生きる私たちの魂は、それぞれ地上の役割を終えると、ただちに天に迎えられます。
一足先に、天に集められている兄弟姉妹たちの集まりに、私たちも合流して仲間に加えられます。
キリストを信じる者は、死んでも生きるのです。
ヨハネ11:25−26(新約p201)
11:25 イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。
いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」
そしていつの日か、栄光の復活の身体を着て、いつまでも主とともにいるようになります。
第一テサロニケ4:13−18
4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
使徒パウロは「他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないため」このことを書きました。
また「このことばをもって互いに慰め合」うためです。
ある日ある時、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きのうちに、キリストご自身が天から下ってこられる。
その時に主は、先にキリストにあって眠った人たちを連れてくる。
次にその時、地上に生き残っている人たちが、たちまち一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会う。
そしてその後は、いつまでも主とともにいることになる、、、。
もちろん、先に召された兄弟姉妹たち、神の民とも、いつまでもいっしょにいることになる、、、。
死は終りではないということです。
以前お話ししたセミのたとえを思い出してください。
蝉の幼虫は、地中からはいなくなりますが、彼らは広い大空に羽ばたいて、いのちを謳歌しているのです。
先に召された神の民も、罪の世から解放されて、天でまことのいのちを謳歌していることでしょう。
私たちも、永遠のいのちの希望、受け継ぐべき栄光の御国、正義の住む永遠の御国の希望にしっかりと立ちましょう。
その希望を伝えることができるように備えましょう。
第一ペテロ3:15(新約p456)
3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。
そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
|