礼拝説教要旨(2020.07.19)
一杯の煮物とキリスト
(創世記25:27−34) 横田俊樹師 

<今日の要点>
永遠の報いを見失わずに、今を生きる

<今日のあらすじ>
 前回の続きです。
イサク・リベカ夫妻に与えられたふたごの兄エサウと弟ヤコブ。
神さまは生まれる前から弟ヤコブの方をご自身の祝福の契約を受け継ぐ者として定めておられたということを前回、見ました。
今回の箇所は、その選びが明らかになっていくところ、という位置づけです。

毛むくじゃらで生まれた兄エサウと、そうではない弟ヤコブは、対照的な二人だったようです。
エサウは巧みな猟師であり、野の人であった、とありますように、彼は活動的で、家の中にいるよりも外に出て、弓を持って獲物を追いかけているほうが楽しいタイプ。
それに対して弟ヤコブは、天幕の中にいておとなしくしているか、せいぜい家畜の世話をするほうが性に合っているタイプ。
外向的と内向的、体育会系と文化会系と好対照をなしていたようです。
そういった元々の性質の違いに、さらに父親のイサクがエサウのほうを愛し、母親のリベカがヤコブのほうを愛したということも、二人の性質の違いを更に際立たせたでしょうか。
父親のイサクにしてみれば、このカナンの地という一癖も二癖もある人々の中で生きていくには、こっちのエサウのようなたくましさがないと、安心して後を任せられない、というような考えもあったのでしょうか。
またイサクは物静かな感じですから、単純に、自分にないものを求めるということなのでしょうか。
ともかく父イサクはエサウのほうを愛していたというのです。

 これによって、いよいよ神さまの祝福の相続は、人間の意思によらず神さまの御心・選びによるということが、明らかになります。
というのは、古代においては、父親の権限は絶大で、跡継ぎを決めるのは当然、父親でした。
その父親イサクは、ヤコブでなくてエサウを愛していたのです。
これはヤコブにはかなり不利な状況でしょう。
しかし、人間的に考えればそのように不利な状況も、神さまのご意志が実現するのに、何の妨げにもなりません。
神さまがヤコブをお選びになり、召してくださった以上、父親のイサクもその他のどんな被造物も、誰もそれを変更することができません。
あとの方を見ていくと、結果はやはり、神さまの御心の通り、ヤコブが神さまの祝福の契約を受け継ぎました。
どんな逆境や不利な状況があっても、神さまの御心、神さまのご意志のみが成るのです。

 私達の人生にしても、人間の思惑にかかわらず、神さまのご意志が必ず実現していきます。
ヤコブが、一番みじかで権威のある父親から好意を受けられないという状況の中にあったように、私達のみじかな親あるいは上司、あるいは学校の先生でしょうか。
そういったみじかに権威を与えられている人たちがもし万が一、自分に好意的でなかったとしても、神さまが私達を祝福してくださろうとご意志なさっておられる以上、その神さまのご意志を何ものも妨げることはできません。
神さまが、私たちを祝福しようと決めておられるのです。
永遠の昔から、永遠の愛をもって。
誰もそれを妨げる事はできません。
私たちを祝福しようという、造り主なる神さまのご意志が必ず成るのです。
こうして、神さまが、私を祝福しようと定めておられると知ることは、私たちを大いに力づけてくれるでしょう。

 ところで、他方のエサウに視点を移すと、エサウはせっかく父イサクの好意を得ていたのに、どうして祝福を失うこととなったのでしょう。
それは、エサウは神さまの祝福を心から求めていたのに、神さまがあらかじめヤコブと決めてたから、無理矢理、エサウから取り上げて、ヤコブに与えた、ということではありませんでした。
エサウ自身が、神さまの祝福をそれほど尊んでいなかった、あればあった方が良いとは思っていたでしょうけれども、なければなくてもいい、くらいのものと思っていた。
そのエサウ自身の意思によって、神さまの祝福の契約がヤコブに移されたということです。
その顛末を具体的に記しているのが29節以下です。
野原を駆け回って猟をして、腹ぺこになって帰ってきたエサウ。
ちょうどそのとき、ヤコブは母リベカ直伝のでしょうか、おいしいレンズ豆の煮物を作っていたところでした。
ある注解者は、ヤコブは、あらかじめエサウが腹をすかして帰ってくることを見越して、料理を作って待ち構えていたのではないか、と勘ぐっています。
それこそ、一杯食わそうと。
文字通り一杯食わせようと。
案の定、死にそうなほど腹ぺこのエサウはちょうど良かったとばかりに、それをくれ、と食いついてきます。
ヤコブはシメシメとばかりに、長子の権利と引き換えになら、、、と応じました。
兄弟仲が、あまり良くなかったのでしょうか。
ヤコブのこういう狡猾さ、ずる賢さは、人によって嫌いだという人もいますし、他方でこういう人間臭いところがいい、という人もいます。
しかし、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、という黄金律からはかけ離れた行いだったことは否定できないでしょう。
ヤコブとしては、あせりがあったのかも知れません。
先ほど言ったように、父イサクは兄のエサウを愛していましたから、このままでは長子の権利はこちらに回ってくることはないだろう、と。
しかし、アブラハムの時にもそうでしたが、こういう人間的な策略は、後に禍根を残すことになります。
多くの注解者は口をそろえて、ヤコブはこんな手を使わずに、主が与えてくださるのを待つべきだったと言っています。
ヤコブは後に、大変な苦労をすることになります。
蒔いた種は刈り取らされるのです。

 他方、この取引を持ちかけられたエサウはと言えば、腹ぺこで死にそうな今の私に、長子の権利など何になろう、とアッサリと長子の権利を放り投げて、目の前の煮物に飛びつきました。
みごとに一杯食わされました。
私たちの感覚からすると、エサウがかわいそうな気がするのですけれども、聖書はそういう私達の感覚とは違う評価をしています。

34節の最後「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」と。
え、そっち?と思ってしまいます。
さらに新約聖書のヘブル書12:16-17に至っては
12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。

12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。
涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

と手厳しいのです。
腹ぺこだったとは言え、一杯の煮物と長子の権利を交換してしまったエサウを「俗悪」と。
私などは一瞬、エサウに同情してしまうのですが、しかし落ち着いて、よくよく考えてみると、なるほど確かに聖書の言う通りだったと思わされるのです。

<最後に与えられる報いから目を離さない>
エサウは俗悪とされました。
エサウのどこがそれほど、俗悪だと言うのでしょう。
考えてみてください。
エサウは何か特別な贅沢をしようとか、特別に忌むべき欲望に取り付かれたと言うのではありません。
飢えていたから、食べ物を求める。
これ自体はもちろん、当然のことです。
俗悪でもなんでもありません。
死ぬほどお腹がすいている、というところに丁度、良い匂いがする熱々の煮物が目の前にあればです。
しかも、レンズ豆と言うのがまた、なかなかいける代物で、―もしかしたら羊の肉か牛肉が入っていたかもしれないですね―そんなものが良い匂いをさせてグツグツ目の前に煮込んであったらです。
匂いというのは食欲を刺激するものですから、それはもうたまらないでしょう。

しかし、です。
それが、何も特別な贅沢や欲望でなくて、単に肉の必要を満たすものだったとしても、です。
子々孫々、神の民となる権利と引き換えにしてまで、それを手に入れようとするのは、何としても神の国にふさわしくない。
俗悪なのです。
問題は、何を引き換えに差し出したかです。
肉の必要のために、エサウは、何を売り渡したのですか。
彼が手放したのは、何だったのですか。
長子の権利とは、財産だけでなくて、それよりも神の民たる恵みの契約を受け継ぐ権利です。
永遠のいのち、永遠の御国を受け継ぐ権利です。
神ご自身、キリストご自身とともに永遠に生きる祝福です。
言うならば、彼は肉の必要を満たすために、神ご自身を、キリストご自身を売り渡したのです。
これはどんなに死ぬほどお腹がすいていたところに、大好物の料理が用意されていたのだとしても、よしとはされないことでした。
私たちを愛し、神であられながら人となって、十字架の言語に絶する苦しみまで受けて下さったお方を、一杯の煮物と引き換えに捨てるのですか。
たとえ全世界の最高級のごちそうを集めたとしても、それらは尊い神の御子の前にはゴミでしかありません。
キリストは、ご自身のきよいいのちと引き換えに、私たちに罪の全き赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。
このお方を何かと引き換えに捨てるなどということは、人としてあり得ないでしょう。
天地万物を造られた神さまが用意されている歴史のゴールは、三位一体の神ご自身と私たちがともに住む御国です。
それが、神さまが私たちのために用意しておられる究極の報いです。
そこに気がつくと、エサウに同情的だった自分は、むしろ、神の民の祝福を十分に理解していなかったのかも知れない、エサウと同類の過ちを犯すところだったのかも知れない、と襟を正させられる次第です。

 何もエサウが特別なのではありません。
エサウは、生まれながらの肉に属する、地に属する人の代表です。
普通はこうなのです。
生まれながらの人間は、みんなエサウなのです。
ただ、神さまが召して、聖霊によって思いを天に向けられた者だけが、天を望むことができるのです。
神さまが思いのままに御霊の風を吹かせられ、御霊によって新しく生まれたものだけが、神さまに目を向け、神さまを求める思いを与えられるのです。
御霊は、神さまが永遠の昔から定めておられる人に確実に、ひとりの漏れもなく働かれて、キリストへの信仰を与えられるのです。

 キリストの犠牲を思うこと少なく、せっかく与えられている永遠の天の報いを見失って、俗悪と神さまから烙印を押されることのないようにと願わされます。
神さまは、地上のどんなものよりも、はるかに優れた天の祝福を用意しておられると、聖書において約束しておられます。
モーセは、その報いから目を離しませんでした。
ヘブル 11:26(新約p439)
彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。
彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

 「報い」と言っていますね。
もちろん、恵みとして与えられるのですけれども、これは、私たちがキリストに従う方を選び取ることによって、従い通すことによって、その結果与えられるものということで、あえて、私たちを励ますために「報い」という言い方をしているのでしょう。

では、どうしたら、神さまが最後に用意してくださっている報いから漏れずに、この世の旅路をまっとうできるのでしょう。
世にあっては誘惑、試練と無縁でいることはできないでしょう。
そんな中で生きる信仰者のために、老使徒ペテロのアドバイスに耳を傾けましょう。
Uペテロ1:5-10(新約p460)
1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

・・・
1:10 ですから、兄弟たちよ。
ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。
これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。

 キリストを信じる者は、永遠の昔から神さまがそのように定めておられたと前回、学びました。
選ばれているから、何をしてもいい、どう歩んでもいいとは、ペテロは言いません。
むしろ、御言葉に従うことを選び取ることによって、その選ばれていることを確かなものにしなさいと命じているのです。
信仰には徳と言われるものを、徳には知識を、―聖書の知識だけでなく有益な有用な知識全般でしょう。
―そして知識には自制を。
―知識は人を高ぶらせます(第一コリント8:1)。
暴走しないように、高ぶらないように、自制が必要です。
―そして自制にはさらに忍耐。
そして忍耐には、神に望みを置く敬虔をと、神に開けます。
そして兄弟愛、さらに愛と、階段を一つ一つ上るようにキリストの似姿へと近づくためのステップを教えてくれています。

私たちがキリストとお会いするとき、少しでもキリストの似姿に近づけられていたいものです。
キリストを愛しているなら、自然とそういう願いがわいてくるものでしょう。
そしてキリストが私たちを迎えに来て下さるとき、「あなたはわたしを愛し、慕って、わたしに似たものになるようにと求め、恵みによって努力してきましたね」と主をお喜ばせする幸いにあずからせて頂けたらと、あこがれさせられます。

 最後に使徒パウロの言葉を聞いておきましょう。
ピリピ3:18-21(新約p386)
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

3:19 彼らの最後は滅びです。
彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの思いは地上のことだけです。

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。