礼拝説教要旨(2020.6.14)
すべてにまさって大切な方
(創世記24:1−27) 横田俊樹師 

<今日の要点>
イエス・キリストは、すべてにまさって大切な方

<今日のあらすじ>
 前の23章はアブラハムの妻サラの葬りの記事でしたが、この24章は一人息子イサクの嫁取りの記事となります。
1節に主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた、とありますように、この時アブラハム家は誰もが一目置く大富豪となっていました。
となると、一人息子イサクはその跡取りということで、カナンの地でも引く手あまただったことは想像に難くありません。

そんななかでこの時140歳のアブラハム、数年前に妻サラに先立たれて、自分が世を去った後のことを考えないわけにはいきませんでした。
イサクはこのとき40歳。
奥手だったのか、怖いサラお母さんが目を光らせていたのか、、、。
ともかく後のことを考えると、自分の目の黒いうちに、良い相手と身をかためさせておきたいと、いかにもアブラハムらしい配慮をしたのでしょう。
アブラハムは、最年長のしもべ、知恵も分別もあり、最も信頼のおける執事頭、おそらく以前出てきたエリエゼル(15:2)という名前の執事頭と言われていますが、彼に誓わせてイサクのお嫁さん探しを託すのでした。
「ももの下に手を入れる」という奇妙な所作は当時の厳粛な誓約をする時の習慣だったようです。

誓わせた内容は、イサクの嫁は、カナンの娘たちからめとってはならない。
アブラハムの生まれ故郷に行って、そこで嫁を迎えなさい、というものでした。
4節「生まれ故郷に」と訳されていますが、原語は直訳は「私の国へ、私の親戚のところへ」という意味で、生まれ故郷の人間なら誰でも良いというのでなく、親戚から誰かを、という意図です。

 アブラハムが、どうしてカナンからイサクの嫁を取らなかったのか。
信仰的に、偶像を礼拝していたのは、アブラハムの故郷でも、親戚も同じ事でしたから、そういうことではないでしょう。
とすると、カナン娘たちの素行が良くなかったか。
カナンの地はやがてあまりの堕落ぶりゆえに裁かれることになります。
その風紀の乱れ、好色的な性質がすでにあらわれていて、ふさわしくないと思われたか。
この世的に考えれば、カナンの地の名士達と親戚関係を結んで、いよいよこの地に根を張り、繁栄するという策も考えられたでしょう。
しかし彼らは、アブラハムのきよさとは、水と油。
きよい神さまを礼拝するアブラハム家に、罪を喜ぶ毒を招き入れることはできません。
アブラハムは、前回見ましたように、永遠のきよらかな天の故郷を待ち望んでいたのです。

 さて、この委任を受けたしもべは、「もしその女の人がこの国に来るのが嫌だと言ったらどうしましょう。
イサクさんをあちらの国に行かせるのでしょうか。」
と周到にアブラハムの意向を理解しておきます。
それに対してアブラハムはくれぐれもイサクをかの地に行かせないよう、念を押して、主は必ず御使いを遣わして、全てを整え導いてくださって、この旅を成功させてくださると、しもべを励ましました。
もし万一、その女性がついてこないようだったら、この話はなかったことにしていい。
神さまは、この地を私の子孫に与えると約束なさったのだから、この地を去らせることはいかなることがあってもならぬ、と優先順位をハッキリさせておきました。
アブラハムは、神さまのお約束を最優先に、絶対に譲れないこととしていたのです。

 こうした信仰的な原則を確かめた上でいよいよ出発。
しもべエリエゼルは全てを神様に委ねて、イサクのお嫁さん捜しへと出かけました。
10節のアラム・ナハライムはメソポタミヤ北部の地方で、そこにアブラハムの兄弟ナホルの町がありました。
アブラハムがいるカナンから数百キロ、ある注解書には20日くらいかかっただろうとしています。
ようやく、無事にたどり着きました。
さて、無事に着いたはいいが、どうやって、主の御心の人を選ぶことができるか。
このしもべは、相手の人柄を見ようとしたようです。
14節「私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』
と言い、その娘が『お飲み下さい。
私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』
と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。」
と。
泉までおりていき、水がめに水を満たして、それを肩に乗せてまた上がってきてと、しかも10頭のらくだに水を与えるとなると、何度か往復しなければなりません。
それだけの労を惜しまずに、年老いた旅人のために、力を貸してくれる気立ての良いお嬢さんをと、願い、祈ったわけです。
漠然と良い人が現われますようにと思っているだけではなくて、こうして具体的に祈るのも有効なのかも知れません。

 さて、こうしてしもべが天を仰いで神の導きを祈っていると、運命の時はすぐに来ました。
しもべが祈り終わらないうちに、どこかきよらかさを感じさせる、美しい女性の姿が目に入ります。
これはもしかしたら、さっそく祈りが応えられたか…と期待が膨らみ、すぐさま祈っていた通りに「水を少し飲ませてくれませんか」と声をかける。
さあ、相手はどうするか、と思う間もなく、彼女は二つ返事で「どうぞお飲み下さい。
だんなさま」と応えてくれた。
まずは第一段階オーケー。
さてこれからがどうか、もう一声来てくれるか、と内心期待しながら差し出された水をのみ、器を返すと、なんと、彼女の口からさっき祈った通りのあの言葉「あなたのらくだにも水を汲んで差し上げましょう」という言葉が出てきました。
まるで陰でしもべの言葉を聞いてたのか?と思うくらいドンピシャでした。
エリエゼルは高まる心を押さえて、ともかく最後まで、彼女がらくだのために何度も水を汲む様子を見守っていました。
かいがいしく働くその様子も実に好ましく申し分なかったようです。

 しかし、喜ぶのはまだ早い。
まだ大切な条件が残っています。
主人アブラハムは自分の親族からお嫁さんを、と命じていました。
この女性がアブラハムの親戚でありますように、、、と祈るような気持ちで、らくだが水を飲み終わるのを待って、金の飾り輪と腕輪を取って、リベカにききました。
「あなたはどなたの娘さんですか。
どうか私に言ってください。
あなたの父上の家には、私どもが留めていただく場所があるでしょうか。」
するとなんと、彼女の口から出た答えは「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」
と。
大当たりでした。
彼女は何と、アブラハムの親戚だったのです。
ピッタリ、アブラハムが出した条件に合致する娘だったのです。
そしてまた彼ら一行をお泊めするだけの場所も用意もあるということで、そちらにうかがうこととなりました。
それから用件を切り出す段取りです。
まだ本人も、親も、こちらの申し出にどう答えるか、どう説得するか、まだ一仕事残っています。

しかし、ここまで計ったように、すべてが整えられて、トントン拍子に進んだことに、しもべは思わず、ひざまずいて主を礼拝して言いました。
「私の主人、アブラハムの神、主が誉めたたえられますように。
主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。
主はこの私をも途中、つつがなく私の主人の兄弟の家に導かれた。」
と。
心からアブラハムを敬い、慕っていたしもべにとっても、こうして首尾良く事が運んだのは何よりの喜びであり、余りにも劇的な導きに思わず平伏して神様を誉めたたえずにはいられなかった事でした。

<すべてにまさって大切な方―イエス・キリスト>
 この箇所は、ドラマティックに物事が展開していくストーリーに目が向きます。
それも悪いことではありません。
目には見えないけれども主は確かにともにおられ、物事を導いてくださると励まされるところです。
詩篇 37:5 (旧約p939)
あなたの道を【主】にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。

また箴言 3:6 (旧約p1060)
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

などの御言葉が思い浮かびます。
いつもこんなにトントン拍子に行くわけではありませんが、かといって、そういうことが全くないかと言われればそれもまた違って、確かに目に見えないどなたかに手を引かれているように、誰かが先回りしてすべてを整えておられたかのように、物事がスイスイと開けていくこともないわけではありません。
それは不思議な感覚です。
ですが、それは私たちが決められることではなくて、最善をご存知であられる神さまが、御心のままにお決めになることです。

 では、私たちの側ではなすべきことは何か。
今日、私たちが目を留めたいのは、今回の出来事の出発点となったアブラハムの言葉です。
そこに見られたアブラハムの信仰の姿勢です。
しもべが、もし相手の方がこっちに来たくないと言ったら、どうしますか?という問いに、アブラハムは次のように答えました。
6−8節
24:6 アブラハムは彼に言った。
「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。

24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。
あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。

24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。
ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」

神さまが、私を生まれ故郷から連れ出して、今いるカナンの地を子孫に与えると、誓って言われた。
だから、きっと神さまが御使いを遣わして、万事、道を備えてくださって、事を為してくださろう。
まずは、そういう信仰を持ちます。
そして結果は、その通りになりました。

しかしもし、万が一、相手の方が首を縦に振らなかった場合、その場合でも、この地を子孫に与えると仰った神さまの約束にしっかりと立って、イサクを向こうに行かせることはあってはならない、その場合はこのお話はなかったことにせよ、と明確に示していました。
その場合は、また別に神さまが機会を備えられるだろう。
たとえ、今回のイサクの縁談がご破算になっても神さまの約束を軽んじることは、決してあってはならない。
目先の一杯の煮物と引き換えに長子の権利を売ったエサウのようであってはならないのです。
そんなアブラハムの信仰の姿勢が、その後の展開につながったと言えるのかもしれません。
マタイ6:33
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 アブラハムにとって、神さまの約束は絶対に譲れないことでした。
第一にすべき事を第一にしたとき、それ以外の必要も満たされました。
このときほどドラマティックではないかもしれませんが、主に従う時に必要が満たされるのは、神さまのお約束です。

さて、新約の時代に生きる私たちには、アブラハムのときよりもより豊かな神さまの約束が与えられています。
全知全能の神さまが、なし得る最大、最善、最高の祝福を与えてくださっています。
何しろ神さまの最愛の御子ご自身をお与えくださったのですから!山のような私たちの罪の完全な赦し、神の子とされること、どんなときにも変わらない神の愛の確信、永遠のいのち、栄光の復活の身体を与えられて、永遠に正義の住む神の国を受け継ぎ、神さまとともに住むようになること。

これらの約束はすべて、イエス・キリストによって、私たちのものとなっているのです!(第二コリント1:20)
キリストが十字架にかかって、苦しみを受けられて、そして復活されて、これらの祝福を私たちのために勝ち取ってくださったのです。
神の御子のいのちと引き換えに勝ち取ってくださったこれらの祝福の価値をよく思い巡らしてみましょう。
それを決して軽んじてはいけません。
それは御子を軽んじることであり、御子を下さった神ご自身を軽んじることです。

神さまが永遠の昔から私たちのためにと全知全能を傾けてご用意くださった、これらのすべての祝福の約束が、イエス・キリストへの信仰によってのみ、自分のものとなっているのだということを改めて心に刻みましょう。
キリストへの信仰は、絶対に譲れないこと。
キリストは、全てにまさって一番大切な方です。
計り知れない神さまの愛と祝福が、キリストとともに私たちに与えられているのです。
その価値は測り知しれません。
神の御子ご自身の価値が、測り知ることができないのですから。