<今日の要点>
信仰者は、地上では寄留者。
天の都を待ち望む天国人。
<今日のあらすじ>
前の22章はイサクをささげた記事、そして今日の23章は愛妻サラが地上の生涯を閉じた記事となりました。
サラは127年生きたと1節にあります。
女性で、生涯を閉じた年齢が記されている唯一の例だそうです。
彼女の127年に及ぶ人生の大半は、夫アブラハムに仕えて、神に仕える助け手としての生涯でした。
アブラハムに神様からの御言葉が臨んで彼らの生まれ故郷、カルデヤのウルを出て、新天地に歩み出したときもいっしょ。
カナンの地に来てからの長い寄留者生活もズーッと二人三脚の旅路を歩んできました。
その間、飢饉もありました。
エジプトとゲラル地方では、危険な目にも遭いました。
そして何度も引越ししました。
ときに何かの用事でアブラハムがしばらく留守にしなければならない時には、家に残って多くの奴隷や家畜や財産の管理を託され、家政を切り盛りし、夫アブラハムの無事を祈る助け手の姿がそこにありました。
アブラハムの信仰者の父祖としての英雄的な生涯にも、実は常に陰のように寄り添って支えてきたサラの姿があったのでした。
もとより、サラにしたって失敗はありましたけれども、それらを覆ってくださる神様のあわれみと恵みに支えられて、こうして与えられた生涯を、役割を終えて、平安のうちにみもとに帰ったということでした。
人にはそれぞれ一人一人に走るべき道程が与えられていますし、当たり前のことなのですが、人にはいつかは地上での人生の幕を閉じるときが来ます。
その時に、自分にこの生涯を与え給うた神様に対して自分なりにできることをさせて頂いたという思いをもってみもとに召される事ができたら、と思います。
さて、一方のアブラハムは、どこか遠くへ家畜の群れを連れて、泊まりがけででも、出ていたのでしょうか。
2節に「アブラハムは来て、サラのために嘆き、泣いた」とあります。
死に目に会えなかったということでしょうか。
アブラハムが泣いたと記されるのは、この箇所だけで、信仰の勇者アブラハムが流した貴重な涙でした。
静かに横たわるサラのなきがらの前で、走馬灯のようにこれまでの思い出が浮かんでは、涙が込み上げてきたのでしょうか。
信仰者にとってもみじかな人の死というのは、深い嘆きであり悲しみです。
もちろん、アブラハムも、サラは神様のみもとに帰ったのだ、ということは思っていたでしょう。
しかし、それでも長年連れ添ってきたサラが近くからいなくなるのは、嘆かないではいられないことでした。
このあたり、カルヴァンも「死を見ても、何の悲しみも感じないのは、精神の強さと言うよりはむしろ野蛮であり、無感覚である」と言っています。
サラは天に移されただけなのに、嘆き悲しむのは不信仰だなどとは決して言えないわけで、人類共通の呪いである死と言う現実を前にしては、深く嘆き悲しむのはむしろ自然な感情でした。
もっとも、私達クリスチャンの場合は、キリストにおいてはっきりと、復活という希望が示されているのも確かなわけで、いっとき死者を悲しみ、悼むという涙の谷を過ぎますけれども、そこからまたしばらくして立ち上がる、という道も用意されていました。
先ほどのカルヴァンも、死者のために嘆き悲しむことは当然としながらも、過度にその嘆き悲しみの中に浸ったり、いつまでもそこに留まっているのは神の御心ではないとも言っていました。
実はかく申すカルヴァン自身、かわいい盛りの1歳の息子を病でなくし、さらにその数年後に愛する妻をも病のために亡くしたという二重の悲痛をすでに味わっていての注釈であり、決してひとごとのように云っているのではありませんでした。
我らの信仰の父アブラハムも、しばらくは悲しみ嘆きましたが、またやがて己を制して次になすべきこと、埋葬のことにあたりました。
3節以下、当時住んでいたヘブロンの先住民ヘテ人から、サラを葬る墓所を買い取った次第が詳しく書き記されます。
一見、紳士的なやりとりのように見えます。
アブラハムが礼を尽くして申し出るのは当然としても、ヘテ人もアブラハムを「ご主人」と呼び「神のつかさ」とさえ呼んで、どうぞ、お金なんていいから、好きなところを自由に使って下さい、と好意的に勧めます。
しかし、タダより高いものはない。
あとでやっぱり返せだとか、なんだかんだと難癖をつけられても面倒。
アブラハムは、後々のことを考えてキチンと買い取ることを求めます。
彼らの申し出には、感謝の意を表してていねいにお辞儀をしつつも、ぜひとも代金を払って買わせてください、と再度、申し出ます。
そして、かねてからこのあたりと思っていたのでしょうか、十分な金額は払いますから、ツォハルの子エフロンの所有地であるマクベラのほら穴を売ってくれるよう取り計らってください、と申し出ました。
今度は、当事者エフロンとの交渉に入ります。
幸い、エフロンも特にその土地に執着はなかったようで、彼もまた、ただで差し上げますから、どうぞお使い下さいと言いました。
一度はこのように言う儀礼的な習慣でもあったのでしょうか。
もちろん、差し上げますと言ったからといって、はいそうですか、とただ受け取るわけにはいきませんから、またまたここでもアブラハムは、丁寧にお辞儀をして謝意を表してから、再度、代価を払って買わせてください、と頼みます。
するとエフロンは、では銀400シェケルで、と値をつけて、アブラハムは彼の言い値で買ったのでした。
この銀400シェケルという額が高いのか良心的なのか、確かなところはわかりませんが、けっこうふっかけたのではないか、とする注解書が多いようです。
いづれにせよ、アブラハムは後腐れのないよう、そのまま、エフロンの言い値で買ったのでした。
この墓地にはのちに、アブラハム自身も葬られますし、アブラハムの子イサクとその妻リベカも葬られ、さらにイサクの子ヤコブと妻レアと3代に渡って葬られることとなり、アブラハム家先祖代々の墓となりました。
<天の故郷を待ち望むー地では寄留者>
以上、今日の箇所を読みまして、改めて覚えたいのは、聖書の世界観、人生観といったものです。
この地上では寄留者、旅人。
その旅の行き着く先は、神さまが用意しておられる天の故郷。
私たちは、神のくださる都を待ち望む者、神さまの約束の成就を待ち望む者だということです。
アブラハムは、カナンの地に来てからすでに62年を過ぎていました。
そして彼は神さまの祝福によって、裕福になっていました。
土地を買おうと思えば、買うこともできたはずです。
なのに、彼はこのとき、お墓にするだけの土地も持たずにいたのでした。
彼が求めるべきは、地上の栄耀栄華ではない。
うつろいゆく世の繁栄ではない。
自分の帰るべき故郷、自分が受け継ぐべき都は天にある、ということをいつの頃からか確信していたのです。
この世は仮の世と。
聖書では、私たちが今、地上で持っている身体のことを幕屋と呼ぶことがあります。
第二コリント5:1(新約p350)
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神のくださる建物があることを、私たちは知っています。
それは、人の手に寄らない、天にある永遠の家です。
幕屋とは移動式のテントのことで、私たちの霊魂の住みかというわけです。
移動式のテントですから、簡易的なもの、基礎をしっかりと据えた本建築の家ではないということです。
本建築の家は、天に行ってから。
神さまがちゃんと用意して下さっている身体があるんですね。
そしてその新しい身体にきよめられた魂が住んでーそれはさぞかし快適な魂の家だと思います。
なにしろ罪の影響が全くなく、病も死もなく、永遠に過ごせる魂の家なのですからー新しい都、天の都に住むことになります。
天の都は天の故郷とも言います。
私たちの魂が本来、属しているホーム。
心から、影ほども心配や恐れもなく、安心していられる場所です。
ヘブル11:9−10(新約p438)
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。
その都を設計し建設されたのは神です。
堅い基礎の上に建てられた都。
神が設計し、建設された都。
キリストを礎として、恵みとまことが支配する、きよい都のようなイメージでしょうか。
そこに、キリストのきよい血潮によって洗い清められた私たちは、入れて頂くことになるのです。
私たち自身の内も外も、そのときにはまったくきよめられて。
全く罪のない世界に生活するのは、どんなに喜びが満ちあふれた、幸せなことでしょう。
また同じくヘブル書13−16節。
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。
それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
アブラハムは、地上の故郷ではない、神様から与えられる天の故郷に憧れていました。
それゆえ、この地上では、旅人、寄留者として過ごしたのです。
この世は、神さまの御心を行うために遣わされている場所、置かれている場所。
天の故郷を憧れつつ、置かれている所で日々のなすべきことをなすのです。
一日、一日と目的地に近づいていることを確かめながら。
使徒ペテロも同じく、この地上での生涯を、一時的に滞在するだけの寄留者、やがて通り過ぎていく旅人として、心構えを勧めています。
第一ペテロ2:11−12
2:11 愛する者たちよ。
あなたがたにお勧めします。
旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。
そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。
こういうふうに考えると、4節「私はあなた方の中にあって居留している異国人ですが」と言うアブラハムの言葉は、実は私達がその中に住んでいる日本にいても、心の中で告白していいものだったかも知れません。
私達は地上ではなるほど、国籍は日本なり、どこかの国ですが、しかしそれは、一時的なもの、過ぎ去るものです。
私たちが永遠に籍を置くところの、本当の国籍は天にあるという自覚、自負心はいつも持っていたいものです。
私たちをその都に住まわせるために、神の御子が十字架の贖いをもって私たちを買い取って下さったのですから。
ピリピ3:18−21
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。
彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
アブラハムのように、天の都を小手をかざして仰ぎ見つつ、地上の生活にも思慮深く、信仰深く、歩ませていただきたいものです。
そして、この地上の生涯、地上のいのちを、ただ守ろう守ろうとするだけでなく、何に、何のために用いて、御国にゴールするのか、という事も、あわせて考えることができたら、と思います。
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