礼拝説教要旨(2020.04.26) 
奴隷の子でなく、神の子ども
(創世記21:8−13) 横田俊樹師 

創世記の21章、今日は8節から13節まで。
いつものように今日の要点を最初にお読みしますが、@はなんだか、ちょっと変な要点になってしまったかな、という気がしないでもありません。

<今日の要点>
@主は意外なところで語られることがある
はい、あとで詳しく見ていきたいと思います。それからAのほう。

Aクリスチャンは、奴隷の子はなく、自由の子

では、いつものように今日のあらすじを見ていきましょう。

<今日のあらすじ>
前回、アブラハムとサラ夫妻に、ついに約束の子イサクが与えられたところを見ました。喜びに舞い上がるサラの姿が、微笑ましく、印象的でした。そして100才と90才を越えて初めて体験する子育ても、数十年来の念願かなっての事とあっては苦も苦にならず、アブラハム家のイサクちゃんはその名の通りーイサクとはヘブル語で笑うと言う意味ですがー回りに笑いを振りまいて、喜びと感謝のうちに数年間が過ぎたようです。物の本によると、あちらでは3才くらいの時に乳離れをするという話ですから、それくらいの年でしょうか。アブラハムとサラは、乳離れするまでに成長した我が子イサクを喜び、大祝宴を催しました。ところがそのめでたい席でちょっとした事件が起り、アブラハムは一転、深い苦悩を味わう事となってしまいました。

 9節の「エジプトの女ハガルがアブラハムに生んだ子」と言いますのはイシュマエルという名前で、以前16章でそのいきさつを見ましたが、アブラハム86才の時に、女奴隷ハガルによってもうけた、彼にとって初めての子供です。子どものいないアブラハムに神さまから「あなたに多くの子孫を与える」と約束だけは与えられていたものの、5年、10年、長い間、待てど暮らせど子供が与えられず、年だけ取っていくあせりの中、ついに待ち切れず、サラの提案によって、女奴隷ハガルによってアブラハムの子孫をもうけたのでした。こういうことは、当時は普通に行なわれていたようですが、こうして生まれてきたのがこのイシュマエルでした。この時すでに17歳前後になっていましたが、そのイシュマエルが、イサクをからかっているのをサラが見とがめたというのです。

 一見、たわいない子供の戯れに、何もそんなに目を釣り上げなくても、と思うのですが、二人の置かれている立場を考えますと、どうも事はそれほど単純ではないようです。なにしろ、それまではイシュマエルは、やがては自分がこのアブラハム家の跡取りになるものと思って、またまわりもそう思って、しもべたちの忠誠と服従を一身に集めて、チヤホヤされてきました。それが、イサクの誕生によって彼の立場は大きく変わったのです。イシュマエルも、それくらいのことはもうわかる年でしょう。母親のハガルももちろん、イシュマエルにそういうことを言っていたでしょう。ハガルとイシュマエル親子は、おもしろくありません。この乳離れの宴会も、イシュマエルの時よりもはるかに盛大に執り行なわれたことも十分考えられます。とすると、ここでイシュマエルがイサクをからかっていたと言うのも、無邪気にからかっていたと言うのではなくて、冗談半分を装いつつ、内心は嫉妬と憎悪の火を燃やしていたのでしょう。イサクの母サラは女性特有の直感でその事を感じ取ったのかも知れません。ともかく、10節のサラの口振りからすると、アブラハムはイシュマエルも自分の子供だと言うことで、何らかの分け前を与えることも考えていたのかもしれませんが、サラはそんなことはさせてはいけません、とアブラハムに迫ったのです。

 しかしそうは言われても、アブラハムの方はそうおいそれと追い出すことはできません。アブラハムにしてみれば、イシュマエルもわが子。それも、イシュマエルはアブラハムにとって初めて自分の腕に抱いた我が子で、もう17年間も一緒に暮らしていました。17の年になるまで親子として一緒に暮らしてきたのです。親子の情は当然深く結びついていました。アブラハムにとっては両方とも自分の子で、本当は両方に神さまの祝福を継がせたかったのでしょう。アブラハム自身はイシュマエルもイサクも両方とも愛していたと思います。

 そういう心情的なものと同時に、道義的にも問題を感じていたかもしれません。もとはと言えばサラが言い出したこと、それに自分も同意したこと。それを今になってハガルたちを追い出すとは、いくら奴隷とはいえ、あまりにも身勝手。それに第一、このまま二人を追い出してしまったら、彼女たちはどうやって生きていけよう…。やはり、道義的にも大問題です。

 しかしサラはそんなことはお構いなく、我が子のことだけを思って、酷な要求を突きつけます。奥さんからの突き上げに悩むアブラハム。何だか急にアブラハムに親近感を覚える方もおられるでしょうか。壮年会に呼んで、一度ひざを交えてお話を聞きたいとか…。ともかく、板挟みに悩むアブラハムです。11節に「アブラハムは、非常に悩んだ。」とあります。もう寝ても覚めてもその事が頭から離れない、頭を抱えて、苦悩するアブラハムの姿が浮かびます。

と、ここで神さまの出番です。悩みに悩むアブラハムを見かねてでしょうか、神さまが助けの手を差し伸べて下さいました。神さまは「イシュマエルとハガルのことで、悩んではならない。サラの言う通り、イシュマエルとその母はこの家から出しなさい。」と仰いました(12節)。一瞬ひるむアブラハム。しかし神さまはアブラハムの心情に多いに同情して、「イシュマエルもまた、あなたの子供だから、一つの国民としよう。」とイシュマエルの前途に祝福を約束されました(13節)。イシュマエルはイシュマエルで確かに祝福するから、とアブラハムの心を慰められたのです。この神さまのお約束を得て、アブラハムはようやく踏ん切りがついたのでしょう。それでも我が子イシュマエルとの別れはつらかったと思いますが、祝福は保証されたのだから、と意を決してつらい決断をして、主に従ったアブラハムでした。実際、その後、主はイシュマエルを祝福して多くの民が彼から出ることになります。

以上が、今日のあらすじですが、今日は12節で神さまが語られた御言葉を中心に思い巡らしてみたいと思います。

<@サラの言うことに耳を傾ける?>
 神さまは悩むアブラハムに「サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。」と仰いました。サラは我が子かわいさの余り、ハガルとイシュマエルを追い出すようにと詰め寄っただけですが、彼女が言ったことは、結果的には神さまのみこころと一致していたのです。

 同じように、言っている本人の動機や目的は別として、語っている内容自体は神さまの導きだということがあります。神さまは、信じている人を通しても、信じていない人を通しても語られます。良い人を通しても悪い人を通しても語られることもあります。イエス様の時代、大祭司カヤパはよからぬ魂胆でイエス様の暗殺を企てた悪い人ですが、それが多くの人のための身代わりの死であることを、(本人は知らずして)大祭司という立場で預言していたと記されています(ヨハネの福音書11:49以下)。古代ペルシャのクロス王は、天地の造り主なる神さまを信じていたわけではありませんが、本人は知らずして、神さまの御心であるユダヤ人のエルサレム帰還を命じました。その時代、ユダヤ人はバビロンという遠い国に捕らえ移されていたんですね。そこからの帰還をクロス王は命じました。どんな大王も神さまの手のひらの上で動いているのです。そうかと思えば、神さまはときにはロバを通して語られたこともありました(民数記22:28)。神さまは自由自在です。また箴言には、知恵は道でも町でも大声で呼ばわっていると言っています。この知恵とは、受肉以前のキリストのことであると言われます。主は意外な所で語っておられます。聞く耳を持つ者でありたいものです。

特に自分にとって一見、うれしくないと思われることも、門前払いをせずに聞く耳を持っていたいものです。何かの製品を作っている会社にとって、クレームの電話は宝の山と言います。こういうところが不便だ、こうだったらいいのに、というクレームは、よりよい製品を作るためのヒントがいっぱいです。それはヒット商品を生み出すタネということです。自分を守る事しか頭にないと、自分を正当化するためにクレームを受け付けないでしょう。しかしそれは実はもったいないことなのです。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」です(箴言18:12)。仮に、言っている人自身は間違った思いをもって言ったとしても、神さまがその人を通して語っておられるという事もありえるのです。もちろん、何でもかんでも人の言うことを真に受けると言うことではありません。そんなことをしてたら身がもたないでしょう。ただ一応、聞く耳を持つということです。特に、なぜかずっと心に留まっている言葉、ことがらは、ちょっと立ち止まって、主のみこころは何か、教えてください、と祈り求めて、思い巡らすということは、無駄ではないと思います。その際に、私たちの基準は聖書です。神さまの前で正しい良心を持って、聖書の御言葉に照らして、へりくだって物事をよく考えることが大切です。誰でも思い込みはあるものです。へりくだって、御霊によって、意外な所で語っておられる主の御心を示して頂くように祈り求めましょう。

<A奴隷の子でなく自由の子!>→これも「神の子ども」に。
ここの箇所に出てきた女奴隷ハガルの子イシュマエルと、自由の女であるサラの子イサクは、新約聖書では霊的な意味で奴隷の子と自由の女の子として対比されています。(ガラテヤ4:28−31)誰に奴隷でもない、自由な身分の女、サラの子。で、このことをもう少し掘り下げて考えるために、今日はローマ8:15に注目したいと思います。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
ここでは「奴隷の霊」と「子としてくださる御霊」が対比されています。奴隷の霊は恐怖に陥れるものと言われています。奴隷は、主人の気に入らなくなったら、あるいは役に立たなくなったら、いつでも捨てられるという恐れがあります。そのような奴隷の霊に支配されていると、恐れに動機づけられて、異常にがんばってしまったり、他の人をけなしたり(そうすることで、相対的に自分がすぐれているように思えるから。)、逆にすぐれている人をねたんだり。また、恐れから逃れるために、快楽に走る人もいます。一見、がんばるのと正反対のように見えますが、どちらも根底にあるのは恐れです。いのちの源である神さまに背を向け、自ら関係を断ってしまった人間は、程度の差はありますが、常にその捨てられる恐れ(存在の不安)というものがあるのではないでしょうか。

 それに対して子とする御霊は、私たちがキリストのまったき罪の赦しの中に入れられているので、もうそれだけで神さまの子どもとされていることを確信させてくれるものです。存在の不安をいやしてくれるものです。私たちが何かをしたからではなく、ただキリストに受け入れられているので、神さまの子どもなのです。それは、なんら私たちの側の功績や行いに基づくものではありません。無条件に神さまの子どもなのです。何しろ、世界が創造される前から、私たちをキリストのうちに選んでおられたのです(エペソ1:4)!自分という存在の影も形もないときから、すでにキリストのうちに選んで、神さまの子どもと定めておられたのです。これは私たちが何をしたから、かにをしたから、どうこうできることではありません。そして神さまの子どもである以上、永遠に見捨てられることなく、いつまでも神さまの子として御国を受け継ぎ、神さまと兄弟姉妹達とともに、満たされて過ごすと言うことです。その事が、保証されているのです。

イサクの場合を考えてみましょう。イサクは、何かしたからアブラハムに受け入れられたというのではありません。アブラハムの子として、生まれてきてくれただけで、もう無条件にアブラハムの子どもです。そしてこれ以上ないほどに喜ばれ、愛され、手間暇をかけてもらい、犠牲を払われ、その上最後には家を受け継ぐ特権まで与えられています。アブラハムの子として生まれただけで、すべてが保証され、満たされます。存在の不安がまったくないので、平安や喜びが情緒のベースとなります。ガラテヤ5:22−23に聖霊の実としてあげられているのは、子とする御霊の結果、生じる実とみることもできるかもしれません。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった実です。
最近、目にしたある本に次のようなことが書いてありました。私たちは、イエス・キリストを信じたときに、まったき罪の赦しを得ました。しかし、その瞬間、私たちはただ単に「赦された罪びと」になったというのでなく、「神の息子・神の娘」になったのです。神の家族の一員とされたのです!神の養子である以上、いかなるものも私たちが天の父のそばに行こうとするのを妨げることはできません。常に出入り自由というわけです!祈りによって、神さまの前に出ることができるんですね。 そのことをあらわす例話があります。ケネディ大統領は、執務室で多忙を極めていたにもかかわらず、スタッフたちに、2人の幼子たちが父のもとに来たいと思うときには、いつでも自由に自分の執務室に来させるようにと伝えてあったそうです。ある有名な雑誌には写真が載っていて、息子のジョンは大統領の机の下をハイハイしています。幼い娘のキャロラインは大統領の膝の上に座り、喜びいっぱいの顔で笑っています。私たちの天の父も、そのように、いつでも私たちを喜んで迎えてくださるのです!

もし、神さまとの間に、何か心にかかる罪があるならば、それを告白し、悔い改めるということを、地道に繰り返しましょう。そうすれば、神さまとの間には何も妨げるものがないので、心から神さまに向かって「アバ、お父さん」と呼ぶことができます。

神さまと自分の関係は、奴隷のような関係と思ってしまってはいないか。本当はイエス・キリストを信じて、親と子の関係なのに、その事がまだ十分に心に行き渡っていないのではないか。もっともっと神さまの父としての御愛を確信して、心から「アバ、お父さん」とお呼びするものでありたいと願わされます。