受難週、イースターと2週にわたって創世記から離れましたが、今日からまたもとの創世記に戻ります。今日は21章。いつものように、今日の要点を最初にお読みします。今日は2点です。
<今日の要点>
①神さまは、真実な方。必ず約束を守られる。
②キリストを信じる者はみな、約束の子。
<今日のあらすじ>
ではいつものようにざっと本文を見ていきます。21章はご覧の通り、いよいよアブラハムとサラに、神さまが約束しておられた子が与えられたくだりとなります。待ちに待ったといいますか、むしろ一旦は待ち切れずに、待つ事さえやめてしまっていた90才のサラに神さまがお与えになった、想像をはるかに超えた祝福でした。一旦はあきらめていただけに、サラは天にも昇る心地だったでしょう。途中は忍耐が強いられ、信仰が試されますが、最後は私たちに大きな喜びにあずからせようと、神さまは間違いなく導いておられるのです。
この箇所はわかりやすく分けると1-2節が神さまの御真実を、3-4節がアブラハムの従順を、5節は置いて、6-7節はサラの喜びを記しています。順番に見ていきましょう。
1節で注目すべきことは、「主は約束された通り」「仰せられた通りに」と繰り返されていることです。また2節にも「神が・・・言われたその時期に」とあります。神さまの約束通り、神さまのお言葉通り、と、ここには神さまが語られたことは必ずなさると、神さまの御真実に目を向けさせています。途中、その神さまの御真実を疑わせる状況があるかもしれない。信仰の父と称されるアブラハムでさえ、信じきれないときがありました。あきらめてしまっていたときがありました。しかしそんな時にも、神さまの方から助けの手を差し伸べて、アブラハムが信仰を捨てないように、離れてしまわないようにと、手を変え品を変えアブラハムの信仰を力づけて下さいました。まさに「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」(イザヤ42:3、マタイ12:20)、励まし続ける主なる神さまです。その神さまが、今、私たちが信じている同じ神さまなのは、うれしい限り、心強い限りです。主は、昔も今も永遠に変わることがありません。
この主なる神さまの御真実に対してアブラハムもまったき従順をもって応えました。3節で、彼は生まれた子にイサクと名付けたとあるのは、あらかじめ主がイサクと名付けなさいと仰っていたことに対する従順です。イサクとは笑うという意味。笑君、わらうくん、しょうくん。生まれたときから笑い顔で生まれてくる子もいますね。イサクはどうだったのでしょう。4節には「アブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。」とあります。ここも神さまへの従順です。割礼とは身体の一部に傷をつけることですが、生まれて八日目のあかちゃんに割礼をほどこすのは不憫だと思いますが、これもアブラハムは従いました。
そして今日の箇所で何とも微笑ましいのは6-7節のサラの喜びようです。6節の「神は私を笑われました。」とは、あざ笑うという意味ではなく、喜んで微笑んで下さったという意味合いでしょう。「ほら、サラよ。あなたが待ち望んでいたあなたの子だよ。存分に喜ぶがいい」と目を細めて、もしかしたらサラ以上に喜んでおられたのが神さまの方だったかもしれません。子どもの喜ぶ顔を見て親が喜ぶように。続く後半の文章も、このことを聞く人達もみな、良かったね、と言って、ともに喜んでお祝いして笑ってくれる。笑いに取り囲まれている幸せを言っているのでしょう。7節のサラの言葉も、誰もサラが子どもを産むなどと考えることもできなかったのに、そんな回りの予想に反して私はあの年寄りに子供を生みました、とまるで自分の手柄ででもあるかのように誇らしげです。「私はあの年寄りに子供を生みました」と自分の年は棚に上げて誇らしげに語っているのも、ご愛嬌でしょう。1年前には、主がサラに子を与えると仰っても、バカじゃないの!?と内心あざ笑っていたのは、どこのどなたでしたか?と意地の悪いことをいうのが、はばかられるほど、無邪気に喜ぶサラの姿です。嬉しくて嬉しくて仕方がない喜びいっぱいのサラでした。
約束通りに事を実現される主なる神さま。それに対してまったき従順でお応えするアブラハム。そして神さまがしてくださった恵みの御業に、喜びを爆発させるサラ。額にして飾っておきたいような一幅の絵でした。
以上、今日のあらすじを見てきまして、今日のポイントを改めて思い巡らしてみましょう。最初にあげた今日の要点の、副題のようなものをつけると、以下のような感じになります。
<神さまが下さって祝福の約束に目を留めましょう。最大の祝福の約束は、福音!>
恵み深い神さまは御心のままに一方的に祝福の約束を私たちに差し出されます。神さまは、真実な方であられ、また不可能なことはない全能なる御方ですから、お約束になったことは必ず実行される。それは、当然と言えば当然なのでしょうが、しかしそもそもその最初のお約束自体が神さまからの一方的な恵みから出ている賜物でした。アブラハムが何か、神さまによしとされる特別な功績を積んだから、神さまがアブラハムに目を掛けた、というわけではなかったですね。アブラハムは最初はまだ、本当の神さまを知らず、月神崇拝かなにかをしていました。ところがそんなアブラハムに神さまの御言葉が臨み「あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。そうすればわたしは、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福しあなたの名を大いなるものとしよう。」と例のお約束を下さったのでした。初めに一方的な恵みによる祝福の約束ありきなのです。アブラハムは目の前に差し出された神さまのお約束を信じて、従って、神さまのお約束通りにその祝福の実をいただいた、そういうことでした。神さまから一方的な恵みとして差し出されている祝福のお約束は、ただ信じて従うことによってその祝福の実に与ることができるのです。
まず、主の恵みの約束があり、それに対してこちらが信じて従うというこの図式は、私たちの救いにおいても同じです。キリストを信じたら救われる、あらゆる罪は赦されて、永遠の命が与えられ、正義の住む神の国、天の御国を受け継ぐものとされる。そう神さまは一方的に恵み深く約束しておられます。老若男女を問わず、いっさい、人の側の善行によらず、ただ神さまが私たちの目の前に一方的に差し出しておられる福音、これを信じれば、私たちが神さまに対して積み上げてきた罪は赦され、どれだけ神さまに背を向け、反抗し続けてきたとしてもすべて赦されて、神の子どもとされ、永遠の命を与えられる。そういう恵み深い約束を神さまは、教会を通して世に語り続けてこられました。そしてその神さまから差し出されている福音に応答して、信じて、従う人々がいつの時代にも一定数、起こされて、次の世代に受け継ぎ、今に至っています。
また、聖書の中にはすでにキリストを信じて救われたもの達にとっても、まだまだ祝福の約束がいっぱい詰まっています。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、生活の必要も与えられます。」(マタイ6:33参照)という約束もあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。誰であっても求めるものは受け、探すものは見つけ出し、叩くものには開かれます。・・・天の父が求める人たちにどうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)とも神さまは約束しておられます。「あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は誰にでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。」(ヤコブ1:5)なんていうありがたい約束もありました。神さまは、聖書の中でまだまだたくさんの祝福の約束を与えておられます。せっかく神さまが祝福の約束を差し出しておられるのです。活用しない手はありません。1節にあったように、主は必ず、約束された通り、私たちを顧みて、仰せられた通り主はなさいます。ぜひ、神さまが聖書において私たちに差し出しておられる祝福の約束に心を留め、信じてその祝福の実にあずからせて頂きましょう。
最後に、神さまが私たちに恵みとして与えてくださっている祝福の約束の最大のものは、言うまでもなく福音です。実は、キリストを信じる私たち自身が、約束の子なのです(ガラテヤ4:28)。以下に3点を記します。
①クリスチャンは、奇跡の子です。
100歳のアブラハムと90歳のサラは生物学的には子を宿すことは不可能でした。自然の法則ではありえないことでした(ローマ4:19)。それと同じように、私たちが神さまの子として生まれたのも、神さまによる直接的な奇跡です。
ヨハネ1:12-13
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名(イエス・キリスト)を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
私たちは自分では、自分で考えて、信じる決断をして、クリスチャンになったような気がしているかもしれません。それも一面、事実なのですが、それも含めていっさいは神さまの御業なのです。御霊によらなければ、誰もイエスさまを主と告白することができないのです(第一コリント12:3)。生まれながらの人間は、誰もイエス様を主と信じることはできません。ですから、私たちも神さまが特別に働いてくださったからこそ、キリストを信じることができたのです。
私たちがキリストを信じて、神さまの子どもであることは、アブラハムとサラの老夫婦に子どもが生まれたのと同じような奇跡。まったくの神さまの超自然的な御業です。神さまがしてくださったことなのです。このことを思うとき、神さまへの感謝と賛美がわきます。また神さまが始めて下さった、神さまの子としての新しいいのちですから、神さまがちゃんと御国に着くまで守り、導いてくださると、心の深いところから平安がわいてくるのではないでしょうか。神さまが始められた御業は、途中で挫折することなく、やりかけで投げ出されることなく、必ず最後まで成し遂げられるはずです。神さまのわざなのですから。すべての栄光は神さまに、です。
②神さまの世継ぎです。
アブラハムの子イサクは、アブラハムの世継ぎでした。アブラハムの相続財産をイサクは受け継ぎます。
そのように、神さまの子とされた私たちは、神の国を相続する者とされました。聖書、特に新約聖書にはこのことがけっこう多く語られています。二箇所だけ、引用しておきます。
ロマ 4:16
そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
エペ 1:18
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、(を知ることができますように。)
その他、ローマ4:13,8:17,第一コリント 6:9-10, 15:50, ガラテヤ 3:29, エペソ 1:11, 1:14, 3:6, コロサイ3:24, 第一ペテロ1:4 等々。私たちはともすると、日常のあれやこれや目の前のことで忙しくなって、どうしても近視眼的になりがちですが、しっかりとゴールを見据えて、長期的展望を見据えて、誰も奪うことのできない希望に励まされつつ、迷わずに前進したいものです。
③喜ばれています。
サラが待望のわが子イサクを与えられて、喜びが爆発したように、私たちがキリストを信じて、神さまの子とされたとき、天では大歓声が起こっています(ルカ15:7, 10)。あなたの誕生は、喜ばれています!天では大歓声、御使い達の大歓声で、あなたの神さまの子としての誕生を喜んでいます。キリストにあって、神さまの子どもの誕生なのですから!自分の胸に手を当てて、自分が天で喜ばれていること、大喜びされていることを思い巡らしてみましょう。
最後に、これらすべての祝福は、すべてキリストの十字架と復活の御業によって、成就しました。すべての栄光・賛美・感謝は、キリストと父なる神さまに!です。
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