礼拝説教要旨(2020.04.12)  =イースター礼拝
望みによって救われる
(ローマ人への手紙8:18−25) 横田俊樹師 

今日は、イエス・キリストが十字架にかかられてから三日目に復活されたことを覚える、復活節、イースターの礼拝です。日本でも少しずつ、知られるようになってきたのかもしれませんが、まだまだクリスマスよりは分が悪いように思われます。クリスチャンでなくても、クリスマスだから教会に行ってみようか、と言う人はいるかもしれませんが、イースターだから教会に行ってみよう、と言う人はほとんどいないような気がします。しかし、使徒パウロは、キリストの十字架もですが、復活もそれに劣らず大事なこととしてよく宣べ伝えていました。

私たちは、死者の復活を信じています。キリストを信じて、罪赦されて、―ここが大事です。私たちがいいからとか、功績を積んでとかでなく、ただキリストの十字架で罪赦されてー死の支配から解放され、栄光のからだに復活する。信じておられない方からすると、おとぎ話のように聞こえるかもしれませんが、この世界を、宇宙を、全く何もないところから造られた神様ですから、それくらい神様にとっては何でもないことです。

ところで、です。復活して、その後はどうなるの?という疑問が浮かぶかもしれません。復活したはいいけど、復活した後の世界は、どういう世界?復活したはいいけど、ゾンビみたいに、墓場みたいな所で、気持ちの悪い姿で復活してもちょっとなあ、、、と。しかしご心配なく。やがて私たちが復活した後で受け継がせて頂くために、神様が用意して下さっている御国は、神様の祝福に満ちた世界。私たちも栄光の姿に復活させて頂きます。明るく、きよらかな世界。正義の実現している世界。ありとあらゆる悪という悪が、これっぽっちもない世界です。

元々、神様がお造りになった世界は、そうでした。よいものでした。死なんてものも当然ありませんでした。病もないし、自然災害もないし、疫病なんて言うのももちろんありませんでした。戦争もないし、個人同士の間にも争いがなく、愛と信頼の支配する世界です。

それでは、どこから、こんな苦しみ、悲惨、悪が出てきたのか?それは、人が造り主に対して不信の罪を犯してからです。いのちの源であられる方に背を向けて、関係を切って、自己中心の世界に生きるようになってからです。それ以来、人の世界に罪が入り、あらゆる悪があふれるようになったと聖書は伝えます。元々、人は被造物の冠として、被造物(自然界)を観察し、調べ、性質を理解し、自然を神様の御心にしたがって治め、楽しむべき存在でした。ところが、被造物の冠たる人間が、神に背き、堕落して、自然界全体も、呪いのもとに置かれたと聖書は伝えます。アダムが罪を犯したときに、神様は、あなたが罪を犯したので、あなたのゆえに、土地は呪われてしまった、と宣告なさいました。(創世記3:17)自然界にあるものはみな、古びていきます。色あせ、崩れていく。腐っていく、さびていく。そして死んでいく。いっさいが死に向かっていると言ってもよいのではないでしょうか。もちろん、あわれみ深い神は良い物もたくさん、残して下さっています。自然の中に出かけていって、リフレッシュしたり感動するものでしょう。それは、すべて恵みです。感謝しないいけないことです。ですが、他方で、何でこんなことが、、、というようなことも、あふれているでしょう。国と国との間の戦争、規模が小さいところでは、人と人との争い、殺人、うそ、だましあい、それに自然災害。そして世が呪いのもとにある事の決定的な証拠は、死がすべてのひとを支配するようになったということです。罪の支払う報酬は死と聖書にあります。罪が入る前は存在しなかった死が、罪が入ってからは、ひとりの例外もなく、死ぬものとなったのです。神様は、最初から死ぬような人間を造りません。人は本来、死ななかったし、悲劇の元になるものは一切なかったのです。すべては、人が罪を犯したときから、あらゆる悲惨がわいて、あふれて、世を覆うようになってしまったのです。

しかし、逆に言うと、人の罪が取り除かれたら、被造物(自然界)も回復する希望があるということです。前回、受難週で、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という説教題でした。世の罪を取り除く神の小羊。キリストを信じる個人、ひとりひとりの救い主と言うだけでなく、世全体、世界全体の罪を取り除くものでもあったのです。キリストの救いは、森の木々もそこに住む動物たちも、星々も太陽も、みなが喜び、ほめたたえるのです。
ある人の言葉です。「美は色あせ、愛が朽ちるような世界。この世は滅びつつある世界。しかしこの世は、これらすべてのものからの解放と自由、栄光の状態の到来を待ち望んでいる」と。

神様が本来、造られた世界。罪の呪いのない世界は、どれほどすばらしかったことでしょう。栄光に満ちたものだったことでしょうか。今でも人々は、自然の素晴らしさに感動するし、楽しませて頂いています。人間のからだの構造も、知れば知るほど、感動させられます。罪の呪いのもとにある自然でさえ、そうなら、ましてやそれらが取り除かれた世界は、どれほど栄光に満ちたものであることでしょうか。

イザヤ書 11 章 6 節に次のような描写があります。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のように わらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたし の聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水 のように、地を満たすからである。(11:6-9)」そこには弱肉強食などという、血を流しながら生き延びるということは、自然界にもなくなるのです。

自然界が回復するのは、いつでしょうか。22節「産みの苦しみをしている」とあります。産みの苦しみというのは、新しい世界が生み出されるための苦しみ、陣痛だということです。陣痛というのは、生まれるときが近づくにつれて、周期も短く、痛みも大きくなるそうです。出産の瞬間が、最大の痛みだと思います。しかし、その次の瞬間、新しいいのちがあらわれて、喜びのときとなるのです。この世界もそのようだと言います。それは、イエス・キリストが再び、世に来られるときです。キリストは今度は、雲に乗って、稲光のように来られます。ですから、みなさん、注意してください。自分が再臨のイエス・キリストだと自称しているのは、みんなうそです。そういう手合いは、脅してお金を巻き上げようとします。しかしそんなものにだまされてはいけません。本物のイエス様が来られるときは、世界中の人がイヤでもわかるように、雲に乗って、稲光のように、ひらめくように来られるというのです。そのときに、先に眠った者たち(地上を去った人たち)は復活し、そのときに生きている人はそのまま古いからだから、新しいからだに変えられるというのです。

23節「私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる。」とあります。からだがあがなわれるとは、復活のことです。私たちは、イエス・キリストを信じたときに、神様の子とする御霊を頂いて、すでに神の子とされているという面と、他方でからだはまだ贖われていない、古い、死すべきからだのまま、という両面があるのです。そして、イエス・キリストが再び、世に来られるときに、私たちの古い今のからだは不死のからだに変えられる。栄光のからだに変えられるというのです。そのとき、自然界も、罪の呪いから解き放たれた栄光に満ちた世界に一新されるのです。以前に見ましたノアの洪水で、古い世界が一掃されて、すべてが洗い流されて、そのあと、ノアたちが新しくされた、一新された大地に降り立ったように、私たちも復活して、栄光のからだをもって、新しくされた大地を踏みしめるのです。そこは正義が支配するところ。偽り、不正、暴力、あらゆる悪が消え去って、自然界も本来の喜びに満ちた世界を取り戻す。そういう世界は、ストレスないでしょう。影も形もないんじゃないでしょうか。すべての被造物もみな、喜び、神をほめたたえる世界。その神の国の到来が、地上の歴史のゴールであり、クリスチャンの究極の希望です。得体の知れない、ぼんやりしたところに、魂が行って、なんだかよくわからないふわふわした世界に行くのではなくて、新しくされた大地に、自分の二本の足で立つ。完全なからだ、永遠を生きるに耐えるからだを与えられて、地を受け継ぐ。神の国を受け継ぐということです。

この望みを知って、この望みに支えられ、力を与えられるならば、この望みによって救われると使徒パウロはいいます。聖書にはよく、なになにによって救われる、という言い方が出てきます。信仰によって救われる。恵みによって救われる。神様の憐れみによって救われる。全部、真理です。一つの事をいろんな面から言っているわけです。そして希望によって救われるというのも、救いに至るための一つの面を言っています。世の中には、忍耐が強いられる時というのがあります。そして忍耐を強いられる中にあって、力となるのは、希望ではないでしょうか。希望があるから耐えられる。希望は力です。望みは、私たちを支えてくれる力です。生きる力です。みなさんは、どんな望みを持っておられますか?人それぞれに望み、希望があってもちろん、いいんですけれども、最後は神様が私たちのために最高の場所を備えてくださっている。神様とともに住む最高の世界を備えて下さっている。その最終地点、歴史の結末を人生の視野に収めておきたいのです。そのときには、私たち自身も罪から完全にきよめられて、またどこが痛い、そこが痛いということのいっさいないからだで、永遠に神様を喜びながら、ほめたたえながら、楽しく飽きることなく、生きるのでしょう。地上での苦しみ、痛みはそこで完全に癒され、慰めを受け、その意義、意味を納得し、神をほめたたえるに至るのでしょう。
ハッピーエンドが決まっている。用意されている。その結末を信じて、希望とすることは、今を生きる上で力となります。

今日、洗礼を受けられる兄弟は、生まれたときから難聴の障害があって、とてもつらい思いをしてきたと聞きました。それをみんなにわかって欲しいとおっしゃっておられました。それは、本当につらい、苦しい事だと思います。しかし、兄弟は、復活を信じて、復活の希望をもたれました。もしかしたら、その望みの強さは、ここにいる誰よりも強いのかもしれません。あきらめない信仰、希望。24節「私たちは、この望みによって救われているのです。」とある通り。復活の体を待ち望む信仰をしっかりと握りしめておられます。兄弟が、今日、晴れて、洗礼を受けられて、ご一緒にこの希望に励まされ、この希望に向かって歩む事ができますことを、心から感謝いたします。