礼拝説教要旨(2020.04.05)  
神の小羊
(ヨハネの福音書1:29−34) 横田俊樹師 

 今週は今日から受難週ということで、世界中のクリスチャンが、イエス・キリストが十字架で苦しみを受けられた事実に格別に思いを巡らす時として過ごします。
 「見る目」というのは、大切なものです。同じものでも、見る人、見る目によって、それに対する評価が全く違います。どこをどう見てもただのガラクタにしか見えない古びた茶碗や壺が、見る人が見ると、平安時代とか室町時代とかの、名のある人が作ったもので、何時間も、何日間もながめててもあきない、心をとらえて離さないものということもあるでしょう。そして、ゼロが六つも七つもつくような値段が付くものもあるでしょう。

 それと同じように、イエス・キリストの十字架、といいますか、十字架につけられたキリストのお姿を思い浮かべた時に、そこに何の感動も、価値も認めない人もいれば、そこに魂を圧倒され、揺さぶられ、人生を変えられた人もいます。同じものを見ても、見方が違う、解釈が違うのです。クリスチャンでなくても、キリスト教が偉大な芸術や文学を生み出す母体となり、多くのすぐれた作品にインスピレーションを与えてきたことは、認めるでしょう。ただの十字架にかけられた残念な男に、そんな芸術の源泉になるような何かがあるのでしょうか。それとも、これは、そうではなくて、もっと深い、何かがあるのでしょうか。使徒パウロという人は、キリストの十字架は、ある人には愚かでしかないけれども、信じる者には神の力だ、と言いました。十字架にかけられた男のどこにそんな、神の力と呼ぶような力があるのでしょう。それはいったいどういうものなのでしょう。今日はそんなことを考えて、いくつかの事を短く、お話ししたいと思います。

<今日の要点>
神の御子が十字架の苦しみを受けることを通して、私たちの救いを成し遂げて下さったことの意義を思いを巡らす。

先ほど読んで頂いた聖書の個所、29節に「ヨハネ」という人が出て来る。聖書には何人かヨハネという名前の人が出て来ますが、これはバプテスマのヨハネと言われる人。実はイエス様と親戚にあたります。イエス様よりおよそ半年早く生まれました。一言で言うと、このバプテスマのヨハネという人は、イエス様を世に紹介した人です。彼はイエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んで紹介しました。昔、昔、旧約聖書の時代、イスラエルにはいろいろな動物のいけにえがありました。牛、羊、やぎ、鳩。いづれも、神様に捧げるいけにえは、傷のないものでなければいけませんでした。それは、神様にささげられるものは、罪のない、きよいものでなければならないことをあらわしていました。そしてどういうふうにささげるかというと、動物をほふる前に、ささげる人がその動物に手を置きました。これはいけにえをささげる人とささげられる動物とが一体となることをあらわ儀式です。つまり、ほふられる動物は、ささげる人の罪を背負って、そしてほふられ、血を流したということです。

以前、テレビで中近東かどこかの羊をほふる場面を見たことがあります。農耕民族の日本人には少々、刺激が強くて、すさまじいものと私は感じました。首の筋を刃物で切る。すさまじい勢いで血が噴き出す。すると羊は、けいれんを起こしながら、ダダーンと地響きを立てて地面に倒れる。昔のイスラエルでは、そうやっていけにえをささげるたびに、罪というものの恐ろしさ、おぞましさを目の当たりにしていたのでしょう。

この旧約時代のいけにえは、イエス・キリストをあらわすものでした。傷のないいけにえは、罪も汚れもないことをあらわします。全宇宙を造られた神の御子、まったく罪のない方が、私たちの罪を背負って、身代わりとして、十字架上でほふられた。私たちに全き罪の赦しをあたえ、神との関係を回復し、神の子どもとされるため、永遠のいのちを受け継ぐ者とするためです。罪の赦しによってのみ、人は聖なる神の御前に受け入れられ、まったき平安を持つ事ができるのです。また、手を置くという儀式は、今日では、信じるということ。キリストはわたしの罪を背負って、十字架にかかって下さったのだ、と信じること。それで、キリストと一体となる。そしてキリストが十字架で身代わりに死んで下さったという、その効力が、自分のものになるのです。

それにしても、です。キリストがほふられてくださったとは、言葉でいうのは簡単ですが、実際は簡単なことではありません。手足を、体重を支えるだけの太い釘で木に刺し通され、打ち付けられる。体重がかかりますから、肉は引き裂かれる。それが一瞬で済むのでなく、何時間も続く。それは想像を絶する激痛です。私は昔、釣り針で指の先っぽを刺し通したことがあります。何もしなくてももちろん、ヒリヒリ痛いですが、何かの拍子に針が引っ張られると、肉が一緒に引っ張られて、ほんの1ミリでも激痛が走りました。その痛いこと、痛いこと。もちろんイエス様の十字架は、こんなものではないですけれども、その時、ほんの少し、肉を裂かれるということの痛みがどんなものか、味わわせて頂きました。

どうして、神様は尊い御子の苦しみを通して、罪の赦し・救いを成し遂げられたのか。お金をポンと払ってではないし、ましてや何の痛みもなくただ慈悲深い心でよいよい、苦しゅうない、と受け入れるのでもない。農耕民族である日本人には、いけにえをほふるなどと言う血なまぐさいことは抜きにして、ただ慈悲によって救われるというほうが、受け入れやすいかもしれません。しかし、やはり十字架を抜きして福音を語ることはできないし、むしろ十字架にこそ、神の測り知ることのできない知恵と神聖な御愛があらわれているのだと思います。その全てを知ることなどとうていできませんが、以下にいくつか、思いつくままに述べてみたいと思います。

1. 罪のおぞましさを知らしめるため。
旧約時代に羊をほふる場面を直接見た人は、ほふられて、血を吹き出しながら、けいれんし、地面に倒れるのを、心を痛めながら見たに違いありません。イスラエルでは羊は特別に愛情を注がれた家畜でしたから、なおさらです。なぜ、このようなむごたらしい刑罰をしなければならないのか。それは罪というものがそういうものだからです。同じように、十字架にかけられた無残なキリストを心の目で見るときに、そこにあるのは、罪の実相、実態なのです。それは、私の罪の何たるかを雄弁に語っているものです。だから、あなたのその罪から、本気で離れなさい。死に物狂いで離れなさい。きよめられることを、本気で求めなさい、それはこんな恐ろしい滅びをもたらすものだから、と身をもって無言のメッセージを語っているのです。私の中の自己中心、その罪が、どれだけ人を傷つけ、害しているか。近くにいる人を痛めつけているか。自分のプライドを守るために、身近な人をさえも犠牲にしてはいないか。罪を見せつけられるのはつらいことですが、私たちは神様の愛のうちに、愛をもって私たちの罪を示してくださっていることを覚えたいものです。そこでこそ、キリストの十字架が光を放って、力を伴って、迫ってくるのです。私たちは、自分の罪を思わされるときは、神様の大きな愛のうちにそのことを覚える事が大切だと思います。

2. 神の正義を知らしめるため。
十字架の刑罰なしに、神様は赦しを与えることはできません。神様は正義の神です。悪を罰することを避けて、救うことはできない。たとえ最愛の御子を十字架の苦しみに渡してでも、正義を通すことは妥協できない。私たちが犯した罪は、何の犠牲もなく痛みもなく、霧のように蒸発して消えたのでなく、すべて一つ残らずキリストが身代わりに正義の要求する裁きを受けて、正義を通した上で、赦され、救われているのです。正義を通さないと、私たちの良心も、本当には納得しない、できないんですね。ごまかしは、自分の心が一番良く知っているので、本当の平安がない。正義を通してこそ、初めて私たちの良心は心からの平安を得る事ができます。また、正義を無視することは、誰かに犠牲を強いている、多くの場合は弱い者に押しつけていることです。それを神は許さない。正義は永遠に立つし、またそうでなければなりません。ローマ3:21−26参照。

3. 痛みを感じて、良心を目覚めさせるため。
時に痛みを通しでなければ、本当の意味で学び得ないことというものがあります。痛みを通して良心がきよめられ、良心が持つ本来の力を回復することがあると思います。

東南アジアのどこかだったと思いますが、奥地に伝道した宣教師のあかしが心に残っています。そこは首狩りの風習が根強く残っていました。彼自身は村人に受け入れられ、慕われていたのですが、この風習をやめるように言っても、これだけはやめられませんでした。ある日、赤いお面をかぶった男がどこそこに現れる。その男の首をとるがよい、という手紙が村長のところに届きました。村人は喜んで待ち構えました。そして手紙通り、赤い仮面をかぶった男が現れると、村人達は喜び勇んで襲いかかり、首を切りました。ところが、そのお面を外してみたら、それは彼らが慕っていた宣教師だったのです。それによって彼らの魂は見えない剣に刺し通されました。彼らは自分たちがいかにひどいことをしていたか、心の底から思い知ったのです。それ以来、あれほど根強かったその風習は、ピタリと止んだといいます。
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
                              ヘブル9:14

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
                              ヘブル10:22 

4. 神の愛を(真心を)知らしめるため。
神様は万物の造り主であられますから、何ものにも強制されることはありません。神様は全て御心のままになされます。神様が、最愛の御子を十字架に引き渡してまで世の罪を取り除かれたのは、神様がそう望まれたからです。神様は私たちを愛しておられるので、私たちを救うために喜んで、自ら進んで、その計り知れない犠牲を払われたのです。永遠に私たちとともに住むため、それも神の愛がどれほど深いものか、真実なものかを、私たちが知って、心から神を愛し、ほめたたえて、永遠に相思相愛でともに住む喜びの日を待ち望んで。喜びの日というのは、私たちにとって以上に神にとって創造のはじめから待ち望んでおられた喜びの時なのだと思います。第一ヨハネ4:9−10参照。

5. 私たちもキリストと苦しみをともにするため。
キリストの愛を知り、キリストに従う者となったクリスチャンは、時にこの世にあって、苦しみを通らされることがあります。それは迫害であったり、あるいは義のため、隣人愛のために自発的に払う犠牲であったり、それに伴う苦難であったりします。しかしそれは、キリストとともに担う十字架です。神様は、自分は楽な所にいて、下々のものにだけ、苦しんで働け、などと仰るのではありません。まず神の御子ご自身が、自ら、身を切って、文字通り、身を釘で刺し通されて、身をもって人のために命を捨てるということをやって見せてくださった。この方を主と仰ぎ、後に従う私たちも、この主とともに、与えられた道を歩んでいく。人それぞれに負うべき十字架があると思います。どういう苦難かは人それぞれです。しかしいづれにせよ、主から課せられた十字架は、私たちにとって良い物であるはずです。そこから逃げるのではなく、信仰をもって受ける心備えをするものでありたいものです。十字架は十字架で終わりませんよ。十字架の後に復活があり、主が天の栄光の御座に着かれたように、それは天で報われます。栄光に通じる十字架です。そのことも、キリストは身をもって示してくださいました。

この世界を造られた神のご計画―ストーリーーは、最後のゴールは永遠の喜びです。ノアが大洪水を通ったのちに、新しくされた地に立ったように、キリストによって罪を赦され、従う者とされたひとりびとりは、新しくされた地に立つことになります。そこは神の祝福のみがあふれ、悲しみ、嘆きをもたらすものは何一つなく、神への賛美、喜びの満ちた世界です。その喜びは、吹けば飛ぶようなうすっぺらな喜びではありません。聖書の一番最後、黙示録には、ほふられた小羊が、神の御座と長老たちの間に立っている姿が記されています(5:6)。天においても、ほふられた小羊を覚えるんですね。キリストの十字架にあらわされている神様のご愛は、永遠に私たちを圧倒し、尽きない喜びを湧き出させる泉となるのでしょう。クリスチャンは十字架の痛みを知って、その上でそれを上回る尊い喜び、またそれゆえにいっそう深い、底力のある喜び、賛美が心に沸き起こるのでしょう。

この受難週、もう一度、キリストの十字架を思い巡らす時を恵まれたいものです。