『第三部 感謝について:祈りについて 第52主日
問127 第六の願いは何ですか。
答 「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。
すなわち、
わたしたちは自分自身あまりに弱く、
ほんの一時立っていることさえできません。
その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、
また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。
ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、
わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、
この霊の戦いに敗れることなく、
ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです。
問128 あなたはこの祈りを、どのように結びますか。
答 「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」
というようにです。
すなわち、
わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、
あなたこそわたしたちの王、またすべてのことに力ある方として、
すべての良きものをわたしたちに与えようと欲し、
またそれがおできになるからであり、
そうして、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が、
永遠に讃美されるためなのです。
問129 「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
答 「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。
なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、
わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、
わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。
「主の祈り」の後半は、私たちが日頃の生活において、具体的に神に願う祈りである。先ずは「日用の糧」を祈り求めること。それは、神が「良きものすべての唯一の源である」ことを信じて祈ることであり、自分の信頼は、ただ生きておられる神にのみ置く信仰へと進みなさい・・・と教えられる。次に「罪の赦し」を日々祈り求めること。罪を赦された者として、キリストの愛に生きるよう導かれる。最後は、「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と、神の守りと助けを求めることで、身近なこと、日々の切実な願いを祈るよう教えられる。これは、私たちにとって、いつも心に浮かぶ恐れや不安について等、何かを神に願い求める時、理屈抜きで祈って良いとの勧めである。しかし、世の多くの人が次のように言う。「宗教は弱い人々のもの。自分はそんなに弱くはない。だから、神の助けはいらない」と。けれども、誰であっても、本当の自分を知るなら、必ず神の助けを祈り求めるようになる。主イエスは、人間の本当の姿を知っておられ、また自ら、人の弱さや脆さを身に負われたからこそ、弟子たちに、また私たちに、神の助けを祈り求めるよう教えられた。正しく「だから、こう祈りなさい」と。
1、問127「第六の願いは何ですか。」答「『われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ』です。すなわち、わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです。」神に背き、自分を誇る生まれながらの人間は、この答が言うことを認めない。「自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません」とは、決して言わないであろう。「自分は強い! 地に足を着けて立っている!!」と言う。しかし、本当は「あまりに弱い」と知り、認めることから神を見上げ、神の助けを求める道が開かれる。目には見えない悪魔の誘惑や、悪魔が支配するこの世の惑わしは、私たちの思いを超えている。また自分の内に潜む「肉」の力を、自分では制御できない。その事実を知る時、ただただ、「あなたの聖霊の力によって、わたしを保ち、強めてください・・・、それに抵抗し、ついには完全な勝利を収められるように・・・」と祈るしかない自分を知るのである。
2、「宗教は自分には必要がない」また「祈るなんて、女々しい・・・」等々、自分の強さを誇る人は、実際に大勢いる。けれども、果たして、私たち人間は強いのか。なぜ「宗教」があるのか。どうして人は祈るのか。神なんかいるものか、と豪語する人でさえ、「祈り」と無縁ではない。人は神によって造られた存在で、しかも、神のかたちに似せて造られているので、神に背を向けたとしても、なお神を求め、神との交わりの回復を求めないではいられない・・・のである。しかし、自分から神に立ち返る力はなく、自分勝手に「宗教」を求め、勝手に「祈り」、自分を誇る。あるいは、力ある者に媚び、へつらい、いたずらに群れを好んで、そこに身を置こうとする。そのようにして心を満たす。けれども、どんなに強さを誇っても、私たち人間の本当の姿は、弱く脆い。余りにも弱い。また余りにも脆い。身体の変調に心は騒ぐ。将来の不安が迫ると、穏やかではいられない。もちろん、人それぞれで、恐れの感じ方が違う。内面的な事柄でより弱さを感じる人がいる反面、物質的な事柄でより心配を募らせる人がいる。どちらであっても、神の守りを願い求め、神の助けを求めて、主なる神が共におられることを喜ぶ人こそ、真に幸いな人である。(詩篇46:1-3)主は、そのことを知って、この第六の願いを祈るよう教えられた。主ご自身が父なる神に祈り、神の守りと助けをいただいて歩まれたからである。(ヘブル5:7、2:18)
3、主イエスが教えて下さった祈りは、以上六つの願いについてである。私たちが祈る時、「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」との讃美の言葉で締めくくる。祈りを聞いて下さる父なる神こそ、私たちの「王」であり、「力ある方」ですと、心からほめたたえて祈りを終える。初代教会の歩みの中で、自然に溢れ出たもので、聖書の写本によって今に伝えられている。代々の教会は、信仰の告白として、この言葉を加えて祈り続けている。全ての栄光は、ただ神にのみ帰すとの思いで。祈りの全体は、先ず天を仰ぎ、神の御名があがめれることを祈り、神への信仰を言い表すように祈り、次に、地上にある私たちの必要を満たして下さるように祈る、そのような流れである。私たちには、天を仰ぎつつ、今、この地上にあって、懸命に生きる日々があるからである。この地上の歩みは、それぞれが懸命に生きることを求められるもので、託された務めがあり、課題があり、時に試練に襲われる。どこにあっても、神は私たち一人一人を導き、支え、私たちを神の民、また神の子として生かして下さっている。だから、祈りをささげて、神と親しく歩むこと、神と共に歩むことは欠かせない。祈りは、最後に神への讃美をささげ、「アーメン」と唱えることによって、神への信頼を言い表す。それによって、私たちの心は、平安をいただくのである。「アーメン」とは、「その通りです」を意味している。祈りが聞かれたと「確信します」との意味が込められる。
<結び> 「主の祈り」の中で、私が、特に身近に感じるのは第六の願いである。何かと「助けて下さい。守って下さい・・・」と祈ることが多い。今回の学びの最後で、その祈りを一層祈っても良い、と教えられた気がする。世界中が新型コロナウィルスの脅威に包まれ、これからどうなるのか、心配が拡がるばかりのこの頃である。そのことも覚えて、説教題を「主よ。私たちを守り、いつもお支え下さい。」とした。私たちは、もっともっと、現実を見つめ、人間の本当の姿を認めることが大事であろう。私たち人間は、余りにも弱く、脆いもので、神の助けなしには、一時も立っていられないほどに、危うい存在であることを! 罪の赦しはもちろんのこと、普段の生活の全てにおいて、いつも神に守られ、支えられていなければ、たちまち倒れ、また、はなはだしく悪に染まり、失敗を繰り返すに違いない。神に守られ、導かれて、私たちは生きている。何よりも、格別な恵みを受けた者、主イエスを信じ、罪の赦しを与えられた者として生かされていることを忘れないように。赦された者として、私たちは、互いに愛し合うことが求められているのである。主の祈りを心からささげ、一人一人の歩みが、また教会の歩みが続けられるよう心したい。「だから、こう祈りなさい」と教えて下さった主イエスに従う者として。(ローマ8:31-34)
|