創世記を順番に見てまいりまして、今日は20章に入ります。前の19章で、背徳の町ソドムに対する裁き、その中からのロトの救いを読み終えて、この20章からはまた我らがアブラハムの足取りをたどる旅へと筆を戻すことになります。聖書のストーリーの本筋に戻ります。
それでは今日の箇所に入りまして、まずお手元の説教要旨にあります要点をお読みします。
<今日の要点>
主はご自分の民に対して恵み深く、あわれみ深く、どんな時にも守って下さる。
<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
アブラハムは、20年近く過ごしたヘブロンというところから、ネゲブ地方へ、これはイスラエルの南、エジプト方面に向かう地方ですが、そこに引越します。聖書にはさらに細かく、カデシュとシュルという所の間、ゲラルという場所に住んだと書いています。引越しの理由は、何も書いていなくて、ソドムの滅亡と何か、関係があるのか、ないのか。わかりませんが、慎重な性格のアブラハムのことですから、せざるを得ない理由があったのでしょう。いづれにせよ、それなりに安定した生活ができていた、住み慣れた町を後にすることは、当時は今日以上にリスクを伴うことでした。今日でも、引っ越すときに、そこのご近所さんがどんな人かというのは、ちょっと、気になるんじゃないでしょうか。ましてや、当時は、倫理道徳が乱れたソドムのような所があった時代。当然、アブラハムは引っ越すに当たっても、神さまにお守り下さいと祈ったでしょう。けれども、どうしても心配で仕方がないことが一つありました。奥さんのサラがあまりにも美しすぎることです。と言っても、この時サラは90近く。ま、90近くで美しくて悪いと言うことはないんですが、それにしても、いくら何でもアブラハムがひいき目に見過ぎなんじゃないの?自分の奥さんがきれいに見えて仕方ないのは、悪いことではないけれども、、、にしても、と突っ込みを入れたくなるところです。当時はみんな長寿でしたから、アブラハムは175歳まで生きましたし、サラも、年取ってからの長旅や転々とした生活など無理がたたってか、少し早めですがそれでも127歳まで生きましたから、当時は一般に長寿だったようなんですね。現在のだいたい1.5倍くらいでしょうか。ですから当時の90歳も今で言うとまだ50か60くらいに相当したのかもしれません。ともかく、サラがきれいすぎて目立ってしまう。すると当時は珍しくないことだったのでしょうか、現地の人がアブラハムを殺してサラを手に入れようとするのではないか、と恐れたというのです。いくらなんでも、ちょっと心配しすぎじゃないか、とも思われるかもしれませんが、前の章でソドムのありさまをみたら、十分にあり得ることと考えるべきでしょう。それで何事も、先回りして手を打つ策士アブラハムは、妻サラのことを妹だと言って、妻のサラにもそう言うように頼んだというのです。ちょっとあとの方、13節を見ると、この時から25年ほど前、故郷を出るときに、すでにこれこれこういうふうに言ってくれ、と頼んでいたようです。いったいどんな顔をして、自分の奥さんにそんなことを頼めるのか、と思いますが、これもまた当時の文化では、ありえなくもないことだったのでしょう。当時は女性の立場が、考えられないくらい低かったのでしょう。もちろん、当時の文化がそうだったとしても、神様の前にはそれは罪です。とうてい許されることではありません。
さて、アブラハムはそんなわけで、苦渋の決断だったと思いますが、―決して平気だったとは思えませんがーうそをつきました。そのアブラハムのうそのゆえに、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れてしまいました。だまされて召し入れたアビメレクはとんだ災難です。しかし幸いなことに、このアビメレクという人物は、わりあい良心的な王だったようです。それで神様は、アビメレクのためにも、ここで介入して、彼が罪を犯さないようにして下さいます。3節にあるように、神様は夜、夢の中でアビメレクに現れて仰いました。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」ここを見ると、不倫は死に値する罪であることがわかります。今時は、テレビや小説の題材になったり、芸能界のニュースでも次から次へと出てきて、感覚が麻痺してしまいそうですが、これは神様の目には、死に値する罪だと言われて、目を覚まさせられる必要があるかもしれません。それで、言われたアビメレクは、ビックリ仰天。すぐさま自分の無実を訴えます。主よ、あなたは正しい国民をも殺されるのですか、と声を上げて、アブラハムがこれは妹だと言ったこと、サラ自身もアブラハムを兄だと言ったこと、だから自分は何らやましい心なく、サラを召し入れたのです、と弁明しました。その弁明は神様に認められて「そうだ。あなたは確かに正しい心でこのことをしたことをわかっている。だからわたしも、あなたが罪を犯さないようにしたのだ、あなたが彼女に触れることがないようにしたのだ。」と仰いました。神様が何か、超自然的に介入して、アビメレクがサラに触れないようにして、守って下さったんですね。あとの17節をみると、アビメレクは何らかの病気にかかっていたようですので、それでサラに近づくことができなかったのでしょう。こういうこともありますね。不思議に神様が働いて守られたということ。アブラハムも、その間、平気でいたとは思えませんから、サラを守ってくださいと祈ってもいたでしょう。神様はサラを守られました。神様のあわれみです。続けて神様は、アビメレクに、今、彼女を返していのちを得なさい、と仰いました。そうするなら、アブラハムは預言者であって、あなたのために祈ってくれるだろう、と。日本語で預言者というと、本来は、その言葉の通り、神様の言葉を預かって、人々に伝える人のことを言いますが、ここでは神様に特別に覚えられている人というような意味で使われているのでしょう。だから彼がアビメレクのために祈ってくれるなら、その祈りを神様は聞いて下さる。しかし、もしサラを返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい、と念を押されました。
神様からこのお告げを受けたアビメレクは、時を移さず、翌朝、それも早く、とあります。いの一番で、アブラハムを呼び寄せて抗議しました。9節の彼の抗議の内容を見てみると、ここにも彼の倫理観の高さがうかがわれます。「あなたは何ということをしてくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」「こんな大きな罪」と言っています。姦淫、不倫は大きな罪。アビメレクという人はそういう高い倫理観を持った人だったようです。
ちなみに、12節でアブラハムは、サラのことを実際、父親が同じで母親が違う、異母妹だと言い訳がましいことを言っていますが、これは言い訳に過ぎません。たとえサラが事実、アブラハムの妹でも、妻である事を隠して単に妹とだけ、言うのは、お気に召しましたら、どうぞお召しください、と言っているようなもの。アビメレクを欺く意図であることは明白。実際にそのうそによって、アビメレクはだまされて、大きな罪を犯すところだったし、サラも大きな危険にさらされたのです。
14節以下、アビメレクはアブラハムにサラを返したのはもちろん、羊や牛、奴隷などを与え、また自分の領地の好きなところに住んで良い、とお墨付きを与えました。これで新参者のアブラハムに、文句を言う者はいないでしょう。そしてアビメレクはサラに向かっては、16節、銀千枚を兄アブラハムに与えると言いました。これはあなたといっしょにいるすべての人の前であなたを守るものになるだろう、と言うのですが、これはどういう意味なのか。サラを守るもの、の守るものは、もとのヘブル語では覆いという言葉ですが、サラを覆う覆いとなるということで、これも、私たちが知らない当時の習慣によるものなのか。不明です。ともかく要は、アビメレクはアブラハムにもサラにも誠意を尽くしたということのようです。「これですべて、正しいとされよう」と結びました。
このように誠意を見せられて、心を動かされない人はいません。むしろ、アブラハムは、かえって「ああ、アビメレクという人は、こんな立派な人だったんだ。誠実な人だったんだ。知らなかったとは言え、本当に申し訳ないことをした」と心から申し訳なく思ったのではないでしょうか。そしてアブラハムは心から彼のために祈ったでしょう。そして、神様はアブラハムの祈りに答えて、アビメレクとその妻、はしためたちを癒され、また彼女たちは再び、子を産むようになったと言います。それというのも、主がそれまでサラのゆえに彼女たちの胎を閉じていたということでした。
<主の守りは、罪の赦しとセットで用意されている。>
今日の20章は、アブラハムの弱さのあらわれた記事でした。他人事ではなくて、罪の世の中で生きるということは、時に難しい局面にぶつかることがあります。この世が、天国みたいな所だったら、みんないい人ばっかりだったら、どれほど世界は素晴らしいことかと思いますが。ところが、3章で見たように、人は神から離れて、正義はおろそかにされ、自己中心の欲のうごめく世界となってしまった。そんな中で、きよくただしく生きていくということの困難さというものも、この箇所は、思わされるところでもあったのかなあ、と。自分が安全なところにいてアブラハムを非難するのは簡単だけども、自分がそういう時代に生きていたらどうか。いや、アブラハムの時代でなくたって、危ない橋を渡って、ギリギリのところで、どうにか神様のあわれみによって守られた、という経験をした人は、少なくないかもしれない。
先週、柳先生が第一ヨハネ1:8―2:2から説教なさいました。8.9節だけ読みますと、
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
それを受けてこないだの祈り会で、私たちもうそや偽りで切り抜けてきたということはないか、もしそういうことがあるなら、神さまに罪を告白して、赦しを改めて確かめて、そしてまた赦されているものとして歩んでいく、そういうクリスチャンの歩みというものを教えてくださいました。
アブラハムには特別な恵みが与えられていました。特別な恵み。それは、罪の赦しという恵みです。これは、どんなにお金を積んでも、滝に打たれて修行しても、手に入れることのできない恵みです。そして100%罪赦されているがゆえに、神様がともにいてくださるという確信をもって、神様が自分の味方だという確信をもって、歩む事ができる。そういう恵みです。天地を造られた神様が、私の味方、わたしの羊飼い。罪が取り除かれて、消え去ったら、心からそう確信して良いんですね。罪が取り除かれたら、もう何も神様と私たちの間を隔てる物はありません。目には見えませんが、神様は私たちとピッタリくっついて、あらゆる悪から守っていてくださいます。神様の支配は、私たちの細胞の一つ一つにまで及んでいるんです。自分がきよいからとか立派だからでなくて、ただただ私たちの身代わりに十字架にかかってくださったキリストがおられるから、神様は、私たちに恵み深く、ともにいて守って下さる。私たちが犯してしまう罪にも覆いをかけてくださって、―キリストの血潮で覆ってくださってー私たちをご自分の子として守り、導いてくださる。そういう、特別の恵みです。
以前、神様の呼びかけに応じて、生まれ故郷を後にしたアブラハムに対して、神様は「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」(12:3)と仰いました。これは神様がアブラハムと一体となるということでしたね。アブラハムに害を加える者は、神ご自身に害を加える者と同じと見なす。それくらい神様はアブラハムと一体となってくださった。あたかもご自分の子どもとして受け入れたかのように。親にとっては、子どもに害を加えるものは、自分に害を加えられたかのように感じられるものでしょう。そのように、神様はアブラハムとサラを、アビメレク王から守られました。それも、アブラハムが特別にきよかったとか、偉かったからとかではなくて、100%キリストによるまったき罪の赦しのゆえです。旧約の時代の聖徒達も、ただただキリストのゆえに罪の赦し、神の民とされる恵みにあずかっていました。
そして今も、キリストのゆえに、神様の子どもとされたひとりひとりのために、神様は恵み深く、アブラハムのように弱さゆえに失敗しても、なおキリストのゆえに赦しに赦して、赦し続けて、ご自身の子どもとしてお守り下さいます。 今日の交読文で読んだ詩篇91篇。長くなるので読みませんが、家に帰って、あるいは今週、どこかでお読みいただければと思います。
またコリント人への手紙10:13の御言葉も支えになるでしょうか。そこには神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます、とあります。これもキリストにあって、こう確信して良いのです。
さらに、脱出の道を備えて下さるだけでなく、益とされるとも。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる、、、(ローマ8:28)。キリストにあって神の愛を確信し、神がともにおられると確信するなら、これらの御言葉を信じる信仰へと導かれ、その約束が自分のものとなるでしょう。
最後に、主は守られるというのならば、どうして守られなかった人がいるのか?という疑問を持つ方もいると思います。新約聖書の使徒の働きというところを見ると、同じ使徒でも、ペテロは牢獄に入れられ、鎖につながれて、翌日、首を切られるというときに、御使いを遣わされて、奇跡的に鎖を解き放たれ、牢獄から救い出されました。けれども同じ使徒でもヤコブは、使徒の中の最初の殉教者となりました。12使徒の中でも、ペテロ、ヨハネと並んで三羽がらす的な存在だったヤコブが、です。ペテロが偉くてヤコブが偉くなかったというのではないし、ペテロが愛されていてヤコブが愛されていなかったというのでもない。ただ、計り知れない、最善以下のことはなさらない神様の御心だったということです。そして忘れてはならないのは、ヤコブの魂は守られて、天に迎えられているということです。私たちからすると、地上の命のほうがいいように思いますが、パウロは、自分のためだけだったら、地上から召されて天に迎えられてイエス様と一緒にいる方がはるかにまさっていると言っています(ピリピ1:23)。残された方からすると、悲しいわけですけれども、本人にとっては、地上にいるよりも天のほうがはるかに幸い。それがクリスチャンの死生観です。みなさん、永遠のいのちを持っていることを確信していますか?遠慮しないで、確信すべきですね。自分がいい人間だから永遠のいのちを持てるとかいうのでなくて、キリストが完全だから、キリストからただで永遠の命をもらったから、私は永遠のいのちを持っている。そういう強い確信を持つ事が、特にこう言う時代には必要なのかもしれません。
神様の、私たちに対する守りは、私たちが完全だったらとか、優等生だったら、とかいう条件付きではなくて、罪の赦しとセットの守りです。だから、恐れるのでなく、すべてを主の御手に委ねて、主の守りを信じて、確信を持って歩んでいける。だから、信じる者のうちに住まれる聖霊に励まされて、罪を犯しても、失敗しても、それを神さまに告白して、また神様の御愛を確信し、喜びをもって歩んでいける。御子キリストによる罪の赦しとセットの守りを用意してくださっている神様は、何と恵み深く、あわれみ深いお方でしょうか。
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