礼拝説教要旨(2020.03.15)  
罪を赦される恵み =ハイデルベルク信仰問答= 問答126
(ヨハネ第一 1:8〜2:2)  柳吉弥太師 

『第三部 感謝について:祈りについて                第51主日

問126 第五の願いは何ですか。
答  「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、
     われらの罪をもゆるしたまえ」です。
   すなわち、
   わたしたちのあらゆる過失、
    さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、
    キリストの血のゆえに、
    みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください。
   わたしたちもまた、
    あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、
    わたしたちの隣人を心から赦そうと
    かたく決心していますから、ということです。

 「主の祈り」の後半は、私たちの日頃の生活において、神が御手を伸べて下さるよう願う祈りである。主イエスは、先ず「日用の糧」を祈り求めるよう教え、「良きものすべての唯一の源である」神を信じて祈ること、このお方の祝福なしには、私たちがどんなに労しても、何も益にならないこと、そして、自分の信頼は、ただ生きておられる神にのみ置く信仰へと進みなさい・・・と教えておられた。短い祈りの言葉の中にある、教えの深さに圧倒されそうである。次に信仰問答は、「罪の赦し」という私たちの信仰の本質に迫る事柄へと続く。この祈りを理解する上での大事な視点は、祈る私たちは、既に主イエスを救い主キリストと信じて、罪を赦された者であると覚えることにある。すなわち、「われらの罪をゆるしたまえ」「私たちの負いめをお赦しください」と祈る時、キリストの十字架の血潮のゆえに、罪を赦された者として、その恵みの深さや豊かさ、測り知れなさを覚えて祈ることである。

1、問126「第五の願いは何ですか。」答「『われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ』です。すなわち、わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください。わたしたちもまた、あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心していますから、ということです。」マタイの福音書5章〜7章に記されている「山上の説教」は、主イエスが弟子たちに語られた大切な教えである。集まって来た人々、「群衆に」と言うより、「弟子たちに」語られたもので、イエスに従う人々、信仰をもって生まれ変わった人々、クリスチャンたちこそが「心の貧しい者」とされた、「幸いな人々である」との視点で語られている。自分の罪を認め、悟り、心砕かれて、キリストの十字架による罪の赦しを信じた私たちである。罪の赦しは完全で、揺るがないものとしても、この地上にある限り、なお残る罪に悩まされ、時に打ち負かされてしまう現実が、私たちに付きまとう。そのような私たちであるので、この第五の願いを、心を込めて祈るよう主は教えておられるのである。

2、「罪」の事実、すなわち、自分の内に「善」が宿っているとしても、「悪」もまた宿り、住み着いていて、絶えず「善」よりも「悪」に心が惹かれる事実を、私たちは、本気で自覚しているだろうか。この「罪の自覚」あるいは「認罪」という課題は、やっかいなものである。生まれつきの人、神に背いた全人類は、そもそも罪を自覚しない存在である。では私たちは、どのようにして罪を自覚したのか。それは神が手を差し伸べ、聖霊なる神が働きかけて下さったからである。聖霊によって心を照らされ、キリストの十字架が、私の罪の身代わりの死であると信じて、罪の赦しをいただいたのである。この罪の赦しの恵みこそ、私たちが罪による滅びから、神との交わりの回復と、永遠のいのちへ移される、魂の救いの肝心なことである。この罪を赦される恵みを受けたからこそ、この地上にある限り、罪を気づかされる度にキリストを仰ぎ、罪の赦しを祈り求めて、信仰の生涯を歩ませていただけるのである。「あらゆる過失、さらに今なおわたしたちについてまわる悪」とは、私たちが、神の前に正直に自分を見つめる時、必ず付いてまわる罪のことであり、その罪を認め、罪の赦しを祈り求めること、そのような信仰の尊さを忘れないように。(1:8〜2:2節)

3、けれどもまた、この祈りをささげる難しさがある。自分自身の罪ばかりでなく、自分と隣人との関わりで、他の人の罪を赦すことの難しさを思い知らされるからである。「われらに罪を犯す者をゆるすごとく」と祈ろうと、新改訳の言葉、「私たちも、私たちに負いめのある人をたちを赦しました」と祈ったとしても、決して人を赦せない自分を、常々思い知らされる。新改訳2017は「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と訳している。いずれも、神によって罪を赦された私たちが、他の人々との関わりの中で、私たちの隣人の罪を心から赦します・・・と心から祈るかどうか、それがこの願いの中身である。「わたしたちもまた、あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心していますから、ということです。」このように祈ることによって、私たちは、神の民、神の子、またキリストの弟子として、罪を赦される恵みをより深く知り、神を喜ぶ者として歩ませていただくのである。もし、この祈りをただ口先で祈っているなら、私たちは、世界で一番哀れな人々、哀れというより、もっと質の悪い、どうにもならない鼻つまみ者となってしまう。主イエスはこの願いに関連して、14〜15節を語っておられる。そんな罠に陥らないように!

<結び> 神に背を向けた人間の罪、その罪があらゆる悪や悲惨の根源である。その罪からの救いは、イエス・キリストの十字架の死、私たちの身代わりとなって死なれた、贖いの御業によってだけ成し遂げられる。キリストを救い主と信じる者に与えられる救い、罪を赦される恵みは完全なものである。私たちの地上の歩みが、どんなに不完全であっても、また揺れ動くものであったとしても、赦しの恵みは変わらない。その変わらなさを覚えて、なお祈り続けることを主イエスは教えて下さったのである。今なお付いてまわる罪や悪を、キリストの血潮のゆえにお赦し下さいと祈る人は、神の前に一層心を低くすることが導かれるからである。神が目を留めて下さり、良しとして下さるのは、心砕かれた人だけである。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16-17)第五の祈りをささげながら、私の魂が砕かれることを良しとする歩みが、日々導かれ、天の御国を目指すことが導かれるなら幸いである。