『第三部 感謝について:祈りについて 第50主日
問125 第四の願いは何ですか。
答 「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」です。
すなわち、
わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください、
それによって、わたしたちが、
あなたこそよきものすべての唯一の源であられること、
また、あなたの祝福なしには、
わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物でさえも、
わたしたちの益にならないことを知り、
そうしてわたしたちが、
自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、
ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、
ということです。
「主の祈り」により何を願うのか、その願いの最初は、神ご自身を仰いで願うべき三つの事柄であった。先ず「御名があがめられますように」と祈り、次に「御国がきますように」、そして「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と、神への信頼と服従を言い表す、そのような意味合いのある願いである。祈る私たち自身が、祈りつつ、神によって生き方が変えられことを良しとしているのか、心の内を探られるものである。その上で、祈りは自分自身の日毎の事柄について、神が御手を伸べて下さるよう祈る、後半の願いに続く。その第四の願いは、私たちの日常の生活に関わるものである。実際に私たち人間の心に迫る祈りの多くは、日々の生活に関して、何かの助けを求めるものであって、神を信じていようといないとに拘わらず、何と心配事が多いものかと、改めて気づかされる。主イエスは、そのような万人に共通すること、「日用の糧」について、先ず祈るよう教えておられる。
1、問125「第四の願いは何ですか。」答「『われらの日用の糧をきょうも与えたまえ』です。すなわち、わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください、それによって、わたしたちが、あなたこそ良きものすべての唯一の源であられること、また、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物でさえも、わたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです。」「糧」とは「パン」のことであって、人が生きていく上での食べ物は、何としても必要と、神ご自身が知っておられる。人となられた主イエスご自身が、自らの地上の生涯において、空腹を経験され、生活の苦労を味わっておられたと、改めて知ることの大事さがあると思う。実に様々な事柄で心を騒がせ、ちょっとした環境の変化に戸惑う私たちである。主イエスは、そのような私たちの弱さや脆さを、私たちと同じように味わって、この地上を歩まれた。だからこそ「日用の糧」を先ず祈り求め、神が私たちを生かして下さっていることを忘れないようにと。生ける神は私たち人間に、「肉体的に必要なすべてのもの」を備えて下さっているのである。
2、私たちが心に刻むべきことは、造り主である神こそが、「良きものすべての唯一の源であられること」、また神の「祝福なしには、わたしたちの心配りや労働」も、神からの「賜物でさえも、わたしたの益にはならない」ことを、はっきりと知ることである。私たちは、神を信じている。その神を「良きものすべての唯一の源である」方と、心から信じて、この方に拠り頼み、この方の祝福なしには、私たちの心配りも、また手の業も、何らの益をもたらすことはできないと、分かっているだろうか。神からいただいた賜物でさえも、益にならないと知っているだろうか。私たちは、「日用の糧をきょうも与えたまえ」と祈りつつ、神が備え、与えて下さる良きもすべてを、確かに目に留め、感謝し、神を喜ぶことが求められている。大きなことにも、小さなことにも、神の恵みと祝福が満ちていることを知る人は、真に幸いである。良きものすべての源である神が、私たちを導き、守り、支えて下さっているのである。その上になお、心すべきことがある。
3、生きておられる真の神は、私たちの肉の目には見えないお方である。そのためか、私たち人間は、目に見えるものに頼りたくなるものである。良きものすべてを神が備え、与えて下さっているにも拘わらず、目の前にいる有力な人に憧れ、その人に頼ろうとする。また人が刻んだ像にひれ伏し、死にゆく生き物にさえひれ伏すことを厭わない。あらゆる被造物が、私たち人間の拠り所とされることが、実際に起こるのである。それが真の神以外のものを礼拝する、この世に広がる偶像礼拝の姿である。私たちが「主の祈り」において、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」と祈るなら、そこには、「わたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください」との心からの願いを、しっかり込めるのを忘れないように。私たちは、生きるも死ぬも、神の御手の中にある。「君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。霊が出て行くと、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り・・・・」(3〜7節)
<結び> 年明け前から、少しずつ報じられていた「新型コロナウィルス」のことが、2月に入って世界的な脅威として、いよいよ身近な危機と迫る状況となった。私たちは、一体何を信じて、何を頼りに生きているのか、日々、問われている。「日用の糧」とは、日々の食べ物をはじめ、神が備えて下さる、ありとあらゆる良きもの全てである。肉体に必要な「糧」のみならず、霊的な必要である「糧」、すなわち「みことば」も含まれている。けれども、「主の祈り」においては、先ずは日常的で、物質的な必要の全てのことを、神に求めて生きることが中心と気づかされる。主なる神ご自身が、私たちのことを覚え、心配して、必要を満たして下さっている。この信仰に生きることは、何にも勝る、安心と喜びの源である。良きものすべての源である神が、いつも共におられ、私たちのことを守り、支え、祝福して下さっている。だから、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足するべきです」とも言われている。(テモテ第一6:6-8)更に、私たちの喜びと満足は、この地上のことだけに留まってはいない。私たちの魂の救いは、地上の生涯を終えた後、天の御国に入れられることにつながっている。この確かな救いの完成を待ち望むからこそ、神を仰いで「日用の糧をきょうも与えたまえ」と祈るのである。生ける神にのみ信頼して、天の御国に入る日まで、「主の祈り」を祈り続けることが出来るように。(※ピリピ3:20-21)
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