礼拝説教要旨(2020.03.01.)  
心を定めて主に従う
(創世記19:30−38) 横田俊樹師 

 創世記を1章から順番に見ていますが、今朝はご覧の通り、爽やかな日曜日の朝に、読みたくない箇所となりました。もし、聖書の中の「読みたくないランキング」をしたら、上位入賞、間違いなし。もしかしたら1位に選ばれるかもしれない、そんな箇所です。聖書というと、きよらかで、いいことしか書いていないというイメージが、一般にあるかと思いますが、聖書、特に旧約聖書のほうに、この手のきわどい箇所がたまに散見されて、意外に思われます。しかしまあ、聖書というのは、人間の闇の深さ、罪の深さを隠さず記録することによって、一つには後の時代の人たちに「罪の力、侮るべからず」と戒めとし、かつ他方では、そんな底なしの人間の罪をさえ、神様はご存知の上で、だからこそ、神ご自身が犠牲となって救いとなってくださったのだ、と神の救いの底なしの深さをも思わせるものなのかもしれません。自分の力では到底太刀打ちできないと思える、人間の罪の巨大な山も、神の赦しの海に沈んで、飲まれて、跡形もなし、そんな歴史のゴールが聖書の最後、黙示録に記されています。だから、うわべだけの、軽い希望ではなくて、懐の深い、どっしりと重厚でビクともしない希望がそこにあらわされているのです。まことの神様の与える希望とは、そういうものだと思います。

 さて、それでは今日の箇所に入りまして、まずお手元の説教要旨にあります要点をお読みします。

<今日の要点>
@世の欲に注意
Aキリストの愛と希望のゆえに、心を定めて主に従う

<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
せっかく人間として造られ、神様から与えられた良心という尊い賜物。それをかなぐり捨てて獣以下に成り下がり、汚れた欲望のまま暴虐の限りを尽くした背徳の町ソドム。その犠牲となった大勢の人たちの叫びが天に届いて、ついに神の激しい御怒りがソドムとその近隣の町にそそぎ出される時が来ました。その直前に、未練がましくソドムを出るのをためらっていたロトでしたが、御使いに手を取られて引っ張り出してもらって、やっとソドムを出ました。しかし、御使いは山を指さしてあの山まで逃げなさいと言ったものの、ロトは今度はそんな遠くまでは無理、近くの町ツォアルで勘弁してくださいと値切りました。この不信仰、不従順が後に禍根を残すことになります。この時は仕方なく御使いは聞き入れたので、ロトたちはツォアルの町に入りました。するとその瞬間、天から硫黄の火がソドムに降り注ぎ、町は全滅。あたかも地獄の火を思わせるような、町全体がかまどとなって燃え上がり、黒々とした煙をもうもうと立ち上らせたのでした。

そんな恐ろしい光景を、ロト自身も目にしたでしょう。それも自分で願って、近くの町ツォアルにしたのですから、より近くで見ることとなったでしょう。もしかしたら火の熱を感じるくらいだったかもしれません。前回言ったように、何らかの火山活動によるものだとすれば、空を割るような耳をつんざく噴火そのものの音。それに続いて硫黄の火とともに岩や石が飛んで落ちて、家々を破壊する音。それらの轟音に混じって聞こえる人々の阿鼻叫喚の叫び。それに火の粉くらいは舞い上がってロトのいるツォアルにも降ったかもしれません。御使いが最初に示した言葉に素直に従っていれば、こんな生々しく神の御怒りをみじかで見、聞き、感じる事もなかったでしょうに。ソドムから離れたヘブロンの高地に住んでいたアブラハムは、離れた所からソドム一帯を見おろして、その恐ろしい光景に心を痛めていました(27-28節)。一生懸命、その町のためにとりなしたアブラハムです(18章)。どれほど無念な気持ちでその光景を見ていたことでしょう。しかしアブラハムは離れた所からその光景を目にするのみでした。しかしロトは自ら望んで、御使いの言葉を押しのけて、もっと近くにしてください、と値切った結果、この恐ろしい光景を身近で見なければならなくなったのです。

ロトは、自分のこれまでの生き方を考えさせられたでしょうか。結婚した娘たちと婿たち、それに孫もいたでしょうか。彼らを失い、そして妻をあんな形で失ってしまった。もちろん、長年にわたって、散々苦労して築き上げてきた財産、そのために生きてきたと言っても過言ではないかもしれない全財産は灰と化してしまった。「さばきつかさみたいな顔をして」と悪口を言われながらも、しぶとくそこに留まり、娘たちを現地の人に嫁がせるなどして食い込んで、一癖も二癖もあるソドム人たち相手に苦労しながら、時に痛い目にも遭いながらやっとの思いで築き上げた財産。それらすべてを失ってしまった。今までの苦労はいったい、何だったのか。何のために生きてきたのか。深い後悔と嘆きとともに、そんなことを思わずにいられなかったでしょうか。欲にとりつかれて、盲目になってしまっていた。大切なものを無視していた。おじさんのアブラハムの生き様を近くで見てきたのですから、アブラハムにならって、第一にするべきことを第一に、神を第一にしなければ、、、と、そこまで思ってくれればよかったのですが、どうもロトのこのあとの行動を見ると、そうではなかったようです。

ソドムへ下された神の御怒りの恐ろしい光景がトラウマになったのでしょうか。自分はどうやらギリギリ助かったけれども、でも平安はなかったのでしょう。もしかしたらここも危ないかもしれない、と。30節に「その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。」とあります。最初御使いが「山に逃げなさい」と言っていたのを思い出して、急に恐れに襲われて、やっぱり山に移ろうというのでしょう。このツォアルという町も、ソドムと同じ匂いのする町、同じ穴のムジナでしたから、なおさら危ないと思ったのでしょう。しかし今度は御使いに命じられたわけでも、誰に言われたわけでもありません。ただ自分の内心の恐れと不安に駆られて、そこにとどまっていることができなかったのです。やることがチグハグです。心が定まらないと、チグハグになりがちなのものです(ヤコブ1:6−8)。そして山に逃げて、ほら穴の中に住んだというのが、また印象的です。どうしてほら穴なのか。おそらくここなら、また空から火が降ってきても安全だと思ったのでしょう。何というべきか。どこまでも、打算でしかないというか、本質をはずしてくると言うか。変えるのはそこではない。主への不信仰、不従順こそ、悔い改めるべきことでしょう。そこを悔い改めずに、場所を変えたり、あそこを変えたりここを変えたり手を尽くしても、平安はありません。案の定、暗いほら穴の中で、いわば自然のシェルターにこもっても平安がないロトは、不安を酒で紛らわすようになったのでしょうか。その顛末は、先ほど、司会者の方に読んで頂いた通りです。中途半端な義人ロトの老年、晩年はあわれでした。

ちなみに、37節にあるモアブ人、38節のアモン人は、血縁関係からすれば、アブラハムの甥っ子のロトの子どもですから、イスラエル人と遠い親戚に当たるのですが、のちにイスラエル人を悩ます民族となってしまいます。ちなみに、ロトに対しての慰めは、このモアブ人の子孫からルツが生まれ、やがてダビデが生れ、そしてイエス・キリストに至るということ。また、アモン人の子孫からナアマという女性がソロモンの妻となってレハブアム王を産み、こちらもやがてイエス・キリストに至るということでしょうか。キリストの系図は、こういう因縁の民族をも巻き込んで、合流させ、包み込んでいるのです。

<@世の欲に注意:中途半端な義人ロトを反面教師として>
 ロトと言う人物については、以前見たように、あの、悪徳のはびこっていた町ソドムで流される事なく、汚れた行いをともにせず、むしろそんなありさまに心を痛めていた「義人」と言われていました(第二ペテロ2:7)。ただ彼の弱さは別の所にありました。物欲、この世的な繁栄に対する過度の執着にあったようです。不品行に対してはノーと言えましたが、物質的な豊かさにはガッチリと魂を捕まれて、そこから離れられなかった。その魅力に抗えなかったのです。それが、キッパリと主に従う事の妨げとなっていたのです。

第一テモテ6:9−10
6:9金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
6:10金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 もちろん、お金は必要です。ただ過大評価も過小評価もしないように。お金はお金としてあるべきところに位置づけておくことです。お金は必要だけども、決して万能ではないし、他にも大切なものはたくさんある。他の大切なものを失ってまで、多くを手に入れようとするべきものではありません。

 ある女性の方が、とても有能な方でIT関係の仕事をしていたんですが、ある時、名前を聞けば誰でもわかるような大きな企業から引き抜きのオファーがあったそうです。給料が、ケタが一つ違う額を提示されたそうです。その方も悩みましたが、今は家族といる時間を失いたくない、優先させたいという判断で、そのオファーを断られたそうです。なかなかできることではないように思いますが、その方の場合はそういう優先順位がしっかりあって、それを選ぶことができたという事でした。

「Money is a good servant, but a bad master.(お金は良いしもべだが、悪い主人である)」という言葉を読んだことがあります。お金は、こちらが主人となって賢く使うならば、役に立つよいしもべだが、お金が主人となってこちらがその奴隷となってしまうと、人を滅ぼす悪い主人になってしまうという意味のようです。賢く使う知恵を主に願いたいものです。

お金に限らず、自分は何かの奴隷になっていないか、時々、探られることも有益かもしれません。主に従うことの妨げとなっているものがあったら、それを十字架につけて、そして主に従っていきましょう。

マタイ16:24−27
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

<A心を定めて主に従う:キリストの愛と希望に生かされて>
 ロトは、ほら穴の中に住みましたが、平安はありませんでした。主に信頼する事を拒んでいる限りは、どこに身を隠しても、どんな手を打っても、それこそ完全防御のシェルターに入っても平安はないでしょう。旧約聖書の中で、主に逆らい続けることの結末が描写されています。(レビ26:16-17、36。)ありもしない影におびえるようになるというのです。

もともと人は神と共に生きるように造られました。神から離れた状態は、本来の状態ではないのです。すべてを愛と知恵と力とをもって支えておられるお方に信頼できず、あるいは敵意を持ち、背を向けて、平安はないのが当然かもしれません。太陽から絶妙な位置に置かれている地球。軌道から外れたら終わりです。人間が制御できない自然災害もあります。普段、それらを抑えて、自然が調和をもって素晴らしい恵みもたらすようにしておられるのはどなたか。私たちが寝ている間に心臓を動かしているのは、肺で呼吸させて下さっているのは、、、?

神を信じ、信頼しましょう。すべてを支配し、愛と知恵と力とを持って私たちを生かして下さっている神に信頼することが、平安の道です。神のお許しなしには雀一羽、地に落ちることはないのです。全世界、全宇宙を造り、今も治めておられる方、私たちを愛し、私たちの細胞の一つ一つにまでキリストの愛と知恵があらわれているのです。そのお方を認め、信頼してそのお方にお従いする。そう腹を決める。そこのところが人間にとって一番大切なのだと思います。世界で一番安全な場所は、主の御心の中なのです。

 キリストは、私たちを深く愛して、私たちのためにご自身のいのちを十字架上にささげられました。このキリストの愛が他ならぬ自分に向けられていることに気づかせていただけるよう、聖霊の導きを祈ります。このキリストに愛されている実感によって生かされ、力を与えられ、喜びを与えられて生きる幸いを恵まれたい。主は私たちを招いておられます。

ヨハネ15:9
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
 
 そしてキリストの愛の中を生き、キリストの愛に生きる道を右にも左にもそれずに、ゴールを目指してまっすぐに歩みたい。私たちにはゴールがあります。地上の旅路の終りに、愛する主イエス様が両手を広げて迎えてくださるというゴールが。

ピリピ3:13−14
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
こう一心に走ってきたパウロの晩年の手紙には、こうありました。

Uテモ 4:8
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
地上の生涯のゴールを目指して、心を定めて主に従う事の幸いを覚えて、あこがれさせられて、パウロの歩みにならわせて頂きたいと願います。