礼拝説教要旨(2020.02.23)  
みこころがなりますように =ハイデルベルク信仰問答= 問答124
(ローマ 12:1〜2)  柳吉弥太師 

『第三部 感謝について:祈りについて                第49主日

問124 第三の願いは何ですか。
答  「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
   すなわち、
   わたしたちやすべての人々が、
    自分自身の思いを捨て去り、
    唯一正しいあなたの御心に、
    何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください、
   そして、一人一人が自分の務めと召命とを、
    天の御使いのように
    喜んで忠実に果たせるようにしてください、
    ということです。

 主イエスが教えて下さった「主の祈り」は、「天にいます私たちの父よ」との呼びかけに続いて、第一に「御名があがめられますように」、第二に「御国がきますように」、そして第三に「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と、祈るべき最初は、神ご自身に関わることと明確である。生ける神を信じて祈る祈りは、私たちの願いを祈り求める前に、神への信頼と服従があるのかないのか、そんな祈りの根本を明らかにしている。神を信頼してこそ、祈りが祈りとして生きたものとなるからである。もし、私たちがいかにも信仰者らしく、神を讃美し、祈りをささげていても、先回も触れたように、自分の生活の全てが何も変わらないなら、それは大問題である。この第三の願いは、正しくそのようなことを気づかせてくれる。

1、問124「第三の願いは何ですか。」答「『みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ』です。すなわち、わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください、そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。」神が神として崇められ、神のご支配が確かに実現するようにと祈り、そして「みこころがなりますように」と祈る時、その意味することは何なのか。それは「わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください」であり、また「一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということ」と言う。他の人がどのような思いで祈っているのか、時々、私たちは周りの人を気にしていることがある。「わたしたちやすべての人々が」と言われているが、大事なのは「わたし自身」である。どれだけ自分の思いを捨て去り、神ご自身の「みこころ」に聞き従うようにして下さいと祈っているか、そのことに尽きる。注意深く読むと「何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください」と。これは自分の力では不可能である。口では言えても、それは口先だけとなる。心の底から神の御心に聞き従えるようにしてくださいと、聖霊の導きと助けを、ただただ祈るしかない。

2、答の後半部分も同様である。「そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。」神の「みこころ」に従うことは、今、この地上にあって生かされている事実を受け留め、自分が置かれているところで、しっかりと生きることである。「自分の務めと召命」とは、私たちがどんな立場にあっても、神の御手の下にあって、そこに置かれている、神のご計画があって今そこにいる、ということである。だから、与えられた務めを「喜んで忠実に果たせるようにしてください」と祈るのである。「天の御使い」は、神に全く服従し、神のために仕える存在である。その御使いの「全き服従」を私たちも祈り求めること、それがこの祈りの中身である。私たちが祈り求め、聞き従い、そして与えられた務めと召命として、喜んで忠実に果たすべき「みこころ」とは何なのか、私たちは、案外ぼんやりと「みこころ」、あるいは「御心」と言っている。時に「御心がよく分からない・・・?」と、もがいているのかもしれない。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(2節)よく考え、思いを巡らすことが必要である。

3、神の「みこころ」は何かを、一言で言い表すのは難しい。しかし、はっきと言える「みこころ」は、神に背いた私たち人間を、神は愛しておられ、罪に堕ちた人間を救うために御子を遣わし、御子イエス・キリストの十字架によって、信じる私たちを罪から救い出し、神との交わりの中に入れて下さるという、救いのご計画そのものである。罪ある私たちを愛し、キリストの救いに導き、永遠の命を与えることにある。それは、神との親しい交わりの回復を与えることにあり、私たちが、神と共なる幸いと平安をいただくことである。このような神との交わりの回復が地に満ちること、世界に実現すること、それが「みこころ」であり、教会は、そのために世に置かれている。(ヨハネ3:16、テモテ第一2:4)そのために、私たち一人一人は「地の塩」「世の光」として、それぞれのところに送り出されてもいる。私たちは、そのような意味を理解して、心からの願いを込め、「みこころが天で行われますように、地でも行われますように」と祈り続けるのである。問われるのは、私たちが、今自分が置かれているところで、また今生かされているところで、イエス・キリストを信じて、神との交わりを回復させられ、神と共なる幸いを得る人が、一人また一人と増し加えられることを祈りつつ、自分自身が、神に全き服従をささげているか、である。キリストを信じて喜んでいるか、忠実に神に従っているか、胸に手をあてることを忘れないように。

<結び> もちろん、神の「みこころ」は、キリストにある救いに限られているのではない。私たちが日々に経験する、あらゆる場面においても、また将来に渡ってどのように生きるのか、神の「みこころ」を追い求めなければならない。だから、主イエスの言葉、また聖書の教えを心に刻んで、本当の意味で神と共に歩むことが大事となる。神の「みこころ」は、決して画一的なものではない。その時その時、また一人一人に務めと召命を与えて下さっているので、必ず多面性があり、多様性がある。皆が同じように振舞うのでなく、賜物に応じて役割を担うのがキリストの教会である。(ローマ12:3以下)それゆえに、一人一人が、聖霊に導かれ、何が神の「みこころ」なのか、何が神に喜ばれるのか、それぞれが祈り、判断し、答を出して歩むことが大事となる。そのようにして、天の父を仰ぎ、父なる神に全き服従をささげて歩むなら、神が私たち一人一人を支え、必ず用いて下さる。「みこころがなりますように」と祈り、時に恐れと不安に陥ったとしても、その時こそ、「みこころのままに」と祈って、主なる神に委ねて立ち上がる時、そして歩む時である。そう祈る私たちを、神がしっかりと支え導いて下さる。それは、ゲッセマネで祈られた主イエスに倣うことである。この信仰で歩めるのは、何と幸いなことであろうか。