<今日の要点>
@ 神の裁きはある
A 神はご自身の民をあわれむあまり、無理にでも救い出してくださる。
<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
前回の続きです。人を人とも思わず力に任せて汚れと悪徳の限りを尽くす町、ソドム。そこで犠牲となった人たちの叫びが天に届き、主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために自分たちを遣わしたのだ、と二人の審判天使はロトに身分を明かしました。そして、すぐに身内の者をみな、この町から連れ出すようにと促しました。これを聞いたロトは、これは一大事!とばかりに、夜中にもかかわらず婿たちの家に行き、たたき起こして、主がこの町を滅ぼそうとしているから、すぐここを出るように!と言いました。今日風に言えば、伝道熱心なロトというところでしょうか。伝道熱心な人は往々にして、迷惑がられることがあります。まあ、だいたい夜中に来るなんて非常識です。よい子の皆さんはまねをなさらないように。ロトの場合は切羽詰まっていましたから、仕方がなかったんですが。ともかく婿たちにしてみれば、こんな夜中に何事かと思ったら、神の裁きだのって、冗談はよしこさんにしてくださいよ、悪い夢でも見たんじゃないですか?まったく迷惑な、、、と生あくびをして、まったくとりあわなかったのでした。こうしてみると、昔の人は素朴で何でも信じやすかったから、神だの裁きだのと信じたのだろう、などというのは現代人のおごり。上から目線なんだなあ、と思います。ロトの時代も、もっと遡ってノアの時代も、人々は神の裁きが来るのを信じなかったんですね。人は、信じたくないものは信じないのです。
こうして真剣に婿たちに裁きを伝えたロトでしたが、ここでオヤオヤ?という場面になります。イザというときになって、なんと夜明けまでためらっていたというのです(16節)。婿たちに軽くあしらわれて、確信が揺らいだのでしょうか。待てよ、あの人たちはあんなことを言っていたけど、本当にそんなことがあるんだろうか、、、と。捨てていくものに後ろ髪を引かれるロトです。金持ちが救われるのは大変なんだなあ、と気の毒に思います。後ろ髪を引かれるものがどれほどあっても、どんなに惜しんでも、それらロトが蓄えた有形無形の財産はすべて、数時間後には天からの硫黄の火で焼き尽くされることになるものです。その結末が本当にわかっていれば、迷いはなかったんだろうと思います。ともかく、あの、人に対して裁きを告げる熱心と、いよいよという時の未練がましさが、ロトという一人の人間のうちに潜んでいたということでした。
御使い達は、そんなぐずぐずしているロトの手と妻たちの手をつかんで、強引に町から連れ出しました(16節)。もしこうでもしなかったら、ロトはそのままソドムに留まり続けたかもしれません。踏ん切りがつかなくて。ソドムの堕落腐敗ぶりに心を痛めながらも、自分ではそこから出て行くことができない、優柔不断な義人ロト。そんなロトを放っておけずに、無理矢理にでも滅びから引っぱり出してくれる主のあわれみのありがたさです。見ていられずに、思わず手を取ってしまう主なる神様の親心です。
こうして彼らは一応、ソドムの町囲みの外に出るには出ましたが、ロトという人物は一筋縄ではいきませんでした。いつまでも物惜しそうに、立ち止まっては後ろを振り返るロトに、御使いは、それどころではないのだ、いのちがかかっているのだ、文字通り命がけで逃げなさい、後ろを振り向かず、途中で立ち止まらず、ひたすら示された山に逃げよ、と命じました(17節)。が、ロトはいやいやそれはできませんからもっと近くで勘弁してください、ほら、あそこにあんなに小さい町があるじゃないですか、あそこにしてください、と駄々をこねます。もし万が一、ソドムが無事だったら、また戻るつもりか、少なくとも近くの町であれば何かと都合が良いとの算段があったのでしょうか。どこまでも中途半端なロト。覚悟のないロト。確かに、ソドムの悪には染まらなかった。それらに心を痛めてはいた。だが決然と主に従うというわけでもなかった。それがロトでした。しかし御使いはここでもそんなロトのいうことを受け入れてくれました。22節の欄外注にあるように、ツォアルとは、小さいの意味の言葉から来た町の名ですが、これはソドム、ゴモラと言った町と同盟を結んでいた、いわば同じ穴のムジナ(14:2)だったと思われます。位置的には現在の死海の南端にあったようです。ツォアルにしてみればロトのおかげで命拾いをしたということになるでしょうか。
夜明けちょっと前にソドムを出て、どれくらい走ったのか、太陽が昇った頃、ロトが息を切らせてその町に入るのを待って、ついに裁きの火が天から下りました。ソドムの町には硫黄の火が降り注ぎ、人々が逃げ出す間もなくすべてを焼き尽くしてしまいました。冗談としか思っていなかった裁きの火が本当に来たと知ったとき、あのロトの婿たちの顔面から血の気が引いたでしょう。ですが、後の祭りでした。忍耐に忍耐を重ねて悔い改めてくれるのを待っていた神は、いったん裁きを行なわれるとなると、徹底的になさいます。現在、ここは塩の海(別名 死海)となっています。
ちなみに、この時の硫黄の火について、ある本では次のように解説しています。「北のヘルモン山から流れ出て死海に至るヨルダン川の一帯、ヨルダン渓谷は古い火山活動の後で、この大地の深い溝にこの時、何らかの火山活動が起こり、地震とともに地底のガスが噴出すると火がついて爆発し、空に舞い上がった火が降ったものと思われる。事実、この辺の地層には硫黄、瀝青、石油が埋蔵されている。これが自然現象として起こったとしても、一つの目的、一定の地域を限り、さらに時を指定したこの場所での爆発であって、主なる神の審判であったことは言うまでもない。神は自然現象や、人間の力を用いて裁きを下される。」
こうして危うくソドムから連れ出してもらったロト一家でしたが、気がつけば4人のはずが3人になっていた、という怖い事態になっていました。ロトの妻が、あくまでも御使いの言うことを聞かず後ろを振り返ったので、塩の柱になってしまったのでした。先頭にロト、そのあとに娘たち、一番後ろに妻がいたのでしょうか、ロトも娘たちも気がつかなかったのでしょう。せっかくソドムの町は出たのに、途中で塩の柱になってしまった残念なロトの妻。あまりにも残念でした。今日、死海のほとり、ソドム山というところに、人のかたちをした塩柱があるそうで、それはロトの妻の塩柱と呼ばれているそうです。もちろん、この時のものではないでしょうが、そういうかたちをしているので、この聖書の記事にちなんで、そう呼んでいるのでしょう。
こうして、ついに神の正義はソドムに臨みました。もうもうとかまどのように煙を立ち上らせるソドムの低地一帯。そんな光景を目の当たりにして呆然と立ち尽くすアブラハム(27節)。あれほど熱心にこのソドムのために執り成したアブラハムは、どういう思いでこの光景を見ていたのでしょう(18章)。何よりロトたちは無事だったか、逃げ出せたのだろうか、と案じたでしょう。29節の最後に、神はアブラハムを覚えておられたので、ロトをその破壊の中から逃れさせたとあります。主なる神様のロトへのあわれみと、アブラハムの執り成しと、両方のゆえに彼は救われたのでした。
<@ 神の裁きはある>
神は裁きを行われるということ。これはいつの時代にもなかなか信じられないことです。これが例えばどこかの山から溶岩が流れ出したというように、目に見える形で滅びがもうすぐそこまで迫っていると言うのだったらロトも婿たちも、家も何もかも後にしてすぐさま全速力で逃げたでしょう。それはこのままここにいると滅んでしまうということが確実に目で見えるからです。いわば滅びが来ていると言う実感があるからです。しかし目に見えない神のことばはそれほど確実には思えない。本当は目に見えるものよりも確実なのに、神のことばは(ことばだけだと)実感が沸かない。ここに落とし穴があります。神は御言葉だけで、この世界をお造りになり、今もこの世界を、全宇宙を支えておられます。その、神の御言葉を侮るなどもってのほか、でした。結局の所、神のことばに対する信頼が問われるのです。神のことばを神のことばとして受け取ることが大切です。
それからもう一つ、神の裁きには、聖なる御怒りという面があることも覚えておかなければいけません。被告人が、裁判官から判決文を言い渡されて、粛々と刑に服させられるというようなものでなく、ソドムに降り注いだ燃えさかる硫黄の火のような神の御怒りを、まともに受けることになるのです。雷鳴がすぐ近くに鳴り響いて平気な人がいるでしょうか。すぐ近くに雷が落ちたらどうでしょう。近くの火山が噴火して、火が降り注いできて平気でいられる人はいないと思います。これらを恐れるならば、ましてや全宇宙を造られた神の御怒りの前に、人はどれほど震えおののくことでしょうか。黙示録6:15-17に、世の終わりの光景が、こんなふうに描写されています。「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。『私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。』」これらの御言葉も、冗談のように思われるでしょうか。
<A 神のあわれみの栄光がほめたたえられますように>
しかしキリストを信じる者は、御怒りの日があると知りつつも、過度に恐れる必要はありません。聖書は、裁きを告げるとともに救いのことばを告げています。神の裁きは、一方では正義を執行するときであり、他方では神のあわれみがあらわされるときでもあるのです。ご自身の尊い御子の十字架の犠牲によってあらわされた、この上なく尊く、まばゆいばかりに輝く神様のあわれみの栄光があらわされるときなのです。キリストを信じた者は一人一人が、その、神様のあわれみの栄光をあらわすための器なのです(ローマ9:24)。自分を誇るための器ではなく、神様のあわれみがほめたたえられるための、神のあわれみの豊かさ、その栄光をあらわす器です。この事を心から感謝し、御名をほめたたえたいと思います。
神様は、不意打ちをくらわすようにいきなり、御怒りをそそぎ出されるのではありません。あらかじめ予告し、救いの道を用意し、知らせておられるのです。イエス・キリストの福音は、やがて世にそそぎ出される御怒りから、人々を救い出すものでもあります。神の裁きを冗談と思って拒む人もいれば、信じて救われる人もいる。そして信じはするけれども、ロトのように煮え切らない人もいる。そして神は、その危なっかしい人をも見ていられず、無理矢理にでも救って下さる。ただただ一方的にあわれんでくださるから。
ある人が初めて教会に行ったときのことです。そこで牧師の語るメッセージで、私たちは自分で教会に来ていると思っているけれども、実は大きな意思、大きな力が働いて、教会に導かれている、というようなことを話しました。それを聞いてその人は、何を言っているんだ、自分は自分の意志で来たんだ、だから自分の意志で来ないこともできる、と思って、次からもう二度と教会には来ない!と決めたそうです。ところがバイクで帰る途中に事故にあってしまいました。横断歩道の所でタクシーに追突されたのですが、その時はどこも痛くなかったので、タクシーの運転手が、大丈夫ですか、と聞いたときに、思わず大丈夫です、と言ってしまい、タクシーの運転手はそそくさと車に戻ろうとしたけれども、ちょうど横断歩道の所だったので、そこにいた人たちが、だめだよ、ちゃんと警察呼んだ方がいいよ、などと言ってくれたおかげで、ちゃんと警察を呼んで事故の処理をすることができたそうです。そしてその後、保険か何かの関係で、教会に行かなければならないことになりました。もう二度と来ないと本人は決めたのですが、主は来ざるを得ないようにされたのです。その人はこの事を通して逆に神様の導きを確信し(観念し?)、その後教会に通い続けて、信仰を告白するに至りました。
ちっぽけな人間が、ああでもない、こうでもないとあらがっても、所詮、神様の手のひらの中でバタバタやっているに過ぎない。神様の導きは狂いなく、間違いもなく、必ずその人を救わずにはおかない。こういうのを不可抗的恵みというのでしょうか。神様がこの人を救うと決められたら、誰もー本人でさえもーそれに逆らう事はできない。必ず救いに入れられる。何度も信仰から迷い出そうになってもまた引き戻され、もうやめたと一度は投げ出してみてもまた引き戻される。時に無理にでも、強いてでも。その時には何もわからず、こちらが泣いてもわめいても、大地に爪を立てて抵抗しても、そう導いてくださる。この神だから、自分のようなものも救われるのだとつくづく思います。
余談ですが、この時のロトのように、ギリギリの所で天国に救い挙げられた人というのは、どれくらいいるのか。生前、信仰告白はしていなかった、教会からも離れていた、けれども福音の種は蒔かれていて、イエス・キリストのことを聞いていたし、実は内心、信じたいと思っていたというような、微妙なところに立っていた人たちが、実は最後の最後の瞬間にでも、この時のロトのように、御使いによって無理矢理にでも天に引き上げられて、天国に迎えられたという人も、あるのではないか、もしかしたら案外、私たちが思っている以上に多いのかもしれない、などと個人的には想像してしまいます。もちろん本当のところは、神さまにしかわかりません。でも、そんな可能性も確かにあるということを思わせてくれる箇所でもあります。そんな慰めと言いますか、希望を持つ余地はあるのではないか、と思います。
神様は私たちをあわれんでおられる。いたたまれないほどにあわれんでおられる。だからこそ、尊い御子イエス・キリストを、私たちの罪のための犠牲として十字架に渡された。その神の愛、キリストの愛が、他ならぬ自分に向けられているという霊的現実を、私たち一人一人がハッキリと知ることができるようにと、聖霊の助けを祈り求めたいと思います。(ローマ5:5)
|