<今日の要点>
神さまに信頼して従う。
<今日のあらすじ>
前回の続きです。
ベエル・シェバで平穏な生活を送っていたアブラハムに、ある日、突然、臨んだ主なる神さまのお言葉。
「あなたの愛するひとり子イサクを、わたしへの全焼のいけにえとしてささげよ。」
降って湧いたような試練でした。
これは歴史上、ただ一度きりの特別な出来事だったのですが、こんな試練を受ける役回りを仰せつかったアブラハムは、発狂せんばかりにわめき、嘆くかと思いきや、聖書の記述は、3節にあったごとく「翌日朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。
彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。
こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」
と、実に淡々と、この仰せに従うアブラハムの姿を記していました。
それは前回見たように、すでにイサクが、神との契約を受け継ぐ者であること、イサクから生まれ出る子孫を神さまは、祝福されると語っておられたことと考え合わせて、神さまはイサクを何らかの形で生きて帰らせて下さると、聖霊によって確信を与えられていたからでした。
イサクは、必ず生きて帰って、子孫を与えられる。
神さまが約束されていたとおりに。
その聖霊による確信が、アブラハムを支えていました(ヘブル11:17−19)。
とはいえ、です。
取り戻すことができるからと言って、では、わが子を全焼のいけにえとしてほふり、焼き尽くすことが、たやすくできるかというと、そういうことは決してありません。
愛するわが子が、痛み、苦しむ姿を見るのは、親にとっては我が身を切られるより痛いものです。
熱でうなされているわが子を見て、できるものなら代ってあげたいとは、親なら誰しも覚えがあるでしょう。
。
しかしやはり聖書は、アブラハムが淡々と、というより、決然と、主の仰せに従う姿を記すのです。
6節「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。」
アブラハムがいったい、どういう気持ちで、イサクと肩を並べて歩いていたのか。
途中、イサクが問いかけた質問にアブラハムは、ギクリとしたでしょうか。
7節「イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
『お父さん。
』すると彼は、『何だ。
イサク』と答えた。
イサクは尋ねた。
『火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。
』」まさか、自分がほふられようとは夢にも思っていない無邪気なイサクの質問。
不憫です。
あわれです。
それに対するアブラハムの答えは、知ってか、知らずか、このあとの展開を預言していました。
8節「アブラハムは答えた。
『イサク。
神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。
』こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。」
アブラハムは、どういうつもりでこう言ったのか。
本人に「実は、お前がその全焼のいけにえなのだよ」とは、さすがに言えずに、とっさにこう口から出たのか。
それとも、そうと知ったらイサクが逃げ出すかも知れないと思ってか。
逃げ出さないにしても、この時点で告げて、イサクが怖がる時間を長くするよりは、その時に一気にした方が、という思いからか。
いづれにせよ、わが子イサクを全焼のいけにえにささげる道中、何も知らないイサクと、そのイサクをささげるための刀と火と手に持つアブラハムとの緊迫したやりとりの場面でした。
そしてとうとう、その場所に着きました。
着いてしまいました。
着くやいなや、ここでも一瞬のためらいもなく事を決行するかのようなアブラハムの姿が記されます。
9-10節「ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。
そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。」
思わず、読んでいるこちらが「あっ」と息を飲みます。
このとき、当のイサクは10代後半にはなっていたのだから、抵抗しようと思えばできたのだから、イサクも父アブラハムに自ら従ったのだ、と解釈する向きもあります。
けれども、もしかしたら、当のイサクは何が何だか、わけがわからないうちにアレヨアレヨという間に、、、だったかもしれません。
祭壇を築いて、たきぎを並べたかと思ったら、突然、縛り上げられて、たきぎの上に寝かせられる。
え、お父さん、これは何のまねですか?頭が混乱して、父アブラハムがまさか自分をほふるなどとは、全く頭にありませんから、事態を理解できずに混乱していたのかもしれません。
それで、まさか、まさか、、、。
と思っているうちに、アブラハムは刀を振りかざして、今まさに振り下ろそうとしました。
思わず、目をつぶるイサク。
と、そのとき。
間一髪で主の使いの「待った」が入りました。
11節「そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。
アブラハム』と仰せられた。
彼は答えた。
『はい。
ここにおります。
』」レンブラントの「アブラハムの犠牲」もしくは「イサクの犠牲」と呼ばれる有名な宗教画があるそうですが、そこでは、アブラハムの左手は、イサクの顔を押さえつけて、喉元を切り裂くために後ろにのけぞらせています。
右手は刀を振り下ろすべく上に構えていたところを、御使いがアブラハムのその右手を払いのけたので、刀が宙に飛んでいます。
まるで刀が地面に落ちる音まで聞こえてきそうな、迫真の絵です。
そしてここで、御使い(実は、受肉以前のキリスト)によって、アブラハム合格の宣言が続きました。
12節「御使いは仰せられた。
『あなたの手を、その子に下してはならない。
その子に何もしてはならない。
今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。
』」ここの「神を恐れる」とは、奴隷が横暴な主人をビクビクと怖がるような、恐怖という意味ではなくて、神聖な存在に対して抱く畏怖の念という意味合いと言われます。
また「侮る」ことの反対、神を神とすること、と言えるかも知れません。
アブラハムは、神を神とした。
神のことばを神のことばとして受け取ったということ。
そしてその事が、実際の行いにおいて証明されたということです。
御使いの、「それまで!もう試験は終わり、見事合格!」との宣言を得て、アブラハムがふと目を上げて見ると、一頭の雄羊がヤブに角を引っかけていたと言います。
もちろん、神さまのお計らいです。
それでアブラハムは、その雄羊を取って、イサクの代わりに、全焼のいけにえとしてささげました(13節)。
それで、この故事から一つの格言が生まれたと言います。
14節「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。
今日でも、『【主】の山の上には備えがある』と言い伝えられている。」
アドナイ・イルエ。
主、備えたもう。
私が求道者の頃、確か三浦綾子さんの「旧約聖書入門」という本の中にこの言葉が取り上げられていて、印象に残っています。
困った状況になって、ああ、どうしよう、あれがない、これもない、と気をもんでいたら、ちゃんと神さまが先回りして備えて下さっていた、というあかしは、教会生活が長いと、どこかで読んだり耳にしたことがあるかもしれません。
ちまたにも「案ずるより産むが易し」と言います。
主が先回りして備えて下さっていることを信じて、心配しすぎない。
心配しすぎて自滅してしまう方が心配?ということもあるかもしれませんので、「主の山に備えあり」この御言葉を暗唱聖句にして口ずさむようにするのも、精神衛生上、よろしいかもしれません。
新約では、ちょっと長いですが、次の御言葉を暗唱しておられる方も多いようです。
第一コリント10:13
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
ここにも「備えてくださいます。」
とありますね。
私たちの神さまは、備えて下さる神さまです。
そのことを信頼できたら、生活の重荷が少し(あるいは人によっては大いに)軽くなるかも知れません。
私たちの信仰を増してください、と主に願いましょう(ルカ17:5)。
<信仰の従順―主を信頼するということは、主に従うということ>
この箇所で印象的なのは、アブラハムが最後の最後まで、主に信頼して、主の御言葉に従いきったところです。
先に述べたように、イサクを取り戻すことができると、わかっていたからと言って、簡単にできることではありません。
アブラハムがイサクのことを愛していなかったかというと、決してそんなことはありません。
心の中をご存知の主ご自身が「あなたの愛しているひとり子イサクを」と仰っています
(2節)。
間違いなくアブラハムは、イサクを愛していました。
しかしまた、最愛のイサクを偶像にもしていなかったということです。
アブラハムは、心の痛みをこらえながらも、主が生きてイサクを帰らせてくださると信じて、従ったのです。
このアブラハムの出来事は特別なもので、このとき限りだったと思いますが、多かれ少なかれ、主に信頼して、痛みをこらえながら、従っていく、ということは、信仰者の歩みとして心に留めておくべきかもしれません。
イエス様も、おのおの、自分の十字架を負って、わたしについてきなさい、とおっしゃいました。
それぞれに痛みを覚えること、あるかもしれません。
これがなかったら、どれほどいいことか、と思うことがあるかもしれません。
しかし、その十字架を負いながらも、主に信頼して、従う。
その先に復活があることを信じて、その希望を握りしめて。
3人の宗教改革者たちが、信仰とはなんぞや?という問いに、次のように答えているそうです。
マルチン・ルターは、信仰とは「委ねること」、メランヒトンは「同意すること」、それに対してカルヴァンは「服従すること」と。
どれも、それぞれに信仰のある面を言い当てているのだと思いますが、カルヴァンの「服従すること」とは、言うならば、口先だけの信仰は信仰ではない、実践が伴って、はじめて本当の信仰なのだということだと思います。
脳内信仰は、つもりでしかない。
信じているつもり。
それが本物かどうかは、行いとして現れて、はじめてわかると。
ヤコブも口をそろえて言っていました。
ヤコブ2:20−23
2:20 ああ愚かな人よ。
あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、
2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
誤解のないように。
行いによって、功績を積むことによって、救われるのではありません。
救われるのは、イエス・キリストへの信仰によるのです。
ただ、本物の信仰は、神への従順という行いとなって実を結ぶのです。
私たちは、法律とか、職務上とか、従わなければいけないものがありますが、仮に、誰か、従うべき人を選ばなければいけないという状況におかれた場合、信頼できる人でないと従えません。
この人に従っていけば、間違いないと信頼できる人になら、従えるでしょう。
その信頼が強ければ強いほど、たとえ途中で苦しいことがあっても、不安がよぎることがあっても、従うことをやめずに続けることができるでしょう。
口先では何と言おうと、信頼がないと従うことはできません。
それは行動にあらわれます。
本当の信頼とは、そういうものです。
神さまとの関係においても、信頼しているから従うことができるのです。
神さまの仰ることに間違いはない。
神さまの御言葉に間違いはない。
最後にはハッピーエンド、大・大・大ハッピーエンドを用意して下さっている。
その希望をもって、従う。
行う。
それは仕方なくいやいやながらではなく、信頼しているから従おうと思えるのです。
たとえ試練となることであっても。
痛みをこらえながらでも、信頼して、従う。
使徒パウロは、実にこの信仰の従順をもたらすことを自分の使命と言っていました。
(ローマ1:5)
神への信頼から、信頼するがゆえの従順へ。
この一週間の間、神を信頼して、御言葉に従い、行うことができますようにと、御霊の助けを祈りたいと思います。
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