<今日の要点>
試練のとき、全力で神さまに信頼して、勝利を得る。
<今日のあらすじ>
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。」
と22章は始まります。
「これらの出来事」とは、神さまを信頼し、神さまの言葉に従って、生まれ故郷ウルを出た事から始まって、それ以来、通ってきた数々の試練のことでしょうか。
思えば、ウルを出てから試練続きと言っても良いかもしれません。
約束の地カナンに入ってからも、幾度かのききんがあり、甥っ子のロトとの別れがあり、東方の連合軍に襲われ、捕虜とされたロトを、いのちをかけて奪還したこともありました。
そして何より、約束の子を得るまでの長い長い忍耐の試練。
それに愛する子イシュマエルとの別れ。
それら数々の試練を通して、アブラハムが神への信頼、信仰を養われ、深められ、強められてのち、今回、いわば集大成として、最大の試練に会うことになった。
そういう意味合いでしょうか。
神さまはいきなり信仰の高嶺を要求するのでなく、一歩一歩、導いてくださるのです。
前回見ましたようにペリシテ人の王アビメレクと平和条約を結び、ようやく愛妻サラ、一人息子イサクとともに親子水入らずの平和な日々を送っていたことでしょうか。
直前の21章の33節に「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、そのところで永遠の神、主の御名によって祈った。」
とありますように、柳の木など植えまして、神様を礼拝しつつ、アブラハムは静かな平穏な生活を送っていました。
ちなみに、この頃アブラハムは何歳だったのか。
このあとの展開を見ると、イサクがたきぎを背負って山に登れるくらいにはなっていたようなので、十代後半ではないか、などと推測されるようです。
とするとアブラハムは110歳台後半ということになります。
そんなアブラハムを、神は試練に会わせられた、と聖書は告げます。
ある日、何年ぶりでしょうか、長らく途絶えていた神さまの御声が、アブラハムに臨みました。
「アブラハムよ」聞き覚えのある御声に、アブラハムは即座に「はい、ここにおります。」
と答えました。
主の御声に即座に応答するアブラハムは、平穏で幸いな日々を恵まれていたからと言って、平和ボケなどしていませんでした。
もう念願のわが子も得たし、ベエル・シェバでの生活もアビメレク王との平和条約を結んで、心配なさそうだし、もう神さまには用なしだ、などと神さまを忘れたりはしていませんでした。
恵まれた平和な日々を送る中にも、神さまが呼ばれたら、即座に「はい、ここに」といつでも応じる従順の用意ができていました。
このたびは、どんなお言葉をお与えになるのだろうか。
次のお言葉を待っていると、聞こえてきたのは驚くべき言葉でした。
「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。
そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
あやうく「神さま、お気は確かですか!」と問い返したくなるようなお言葉でした。
何かの間違いではないか、聞き間違いか、と思いたくなるようなお言葉です。
しかし、意外なことに、これに対するアブラハムの反応が、聖書には一言も書かれていません。
ただ「イサクをささげなさい」との主のお言葉が、余韻をもって残ります。
あなたなら、もし、主からこのように語られたら、どう応じるかね?と問うように。
聖書の記述は、アブラハムの様子には一切触れず、そのまま翌朝早くの場面に切り替わります。
そして、まるで迷いなく従ったかのようなアブラハムの姿が淡々と記されるのです。
3節「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。
彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。
こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」
先にイシュマエルを追い出すときには、「アブラハムは、非常に悩んだ」(21:11)とあったのに、ここではアブラハムがどう思ったかは一言も触れずに、ただ淡々と主のお言葉に従う姿が記されるのです。
まるで悩まなかったかのように。
翌朝早く。
ぐずぐずせず、何日もたってから、仕方がないと重い腰を上げたのではなく、神さまからの御言葉には、即座に従う、という姿勢です。
従順の模範と言えばそうでしょうが、ですが何か、それだけだと説明がつかないような気がしないでもありません。
ちょっと違和感を感じないわけでもない。
そんな気もしますが、続けて読み進めましょう。
4節に、三日目になって、ようやく目指すところがはるか彼方に見えた、とあります。
三日坊主などという言葉がありますが、その時は「よし、神様の御言葉だから従おう」と思っても、一日経ち、二日経ちとするうちに、気持ちが揺れてくると言うことがあります。
三日間、しかもイサクと肩を並べて歩き、一緒に食事もし、一緒に寝て、と過ごしていく内に、「こうしてイサクと一緒にいれるのも、これが最後か」などと思ったら、たまらないでしょう。
しかしアブラハムの意志は変わらなかったようです。
そして5節で、アブラハムは、ここまで一緒に来た若い者二人は、イザというときに止めに入らないようにでしょうか、そこで待たせて、そこから先はイサクと二人で山に登り、そこで礼拝を捧げて、また戻ってくると言いました。
アブラハムは、芝居でなく、本気だったのです。
さて、以上見てきまして、ちょっと引っかかるというか、意外なのは、先ほども触れましたが、アブラハムが悩んだ様子が一切、記されていないこと、むしろ何の迷いもなく淡々と主のお言葉に従っているように見えることです。
主からお言葉があって、翌朝早くにはもう支度をして出かけていますから、何日も迷ったということはない。
迷ったとしても一晩。
でも、悩むとしたら、一晩悩んで解決するような問題でもないように思われます。
もしかしたら、アブラハムは最初から、決心がついていたのではないか。
言われた瞬間は、面食らったかもしれませんが、比較的短時間で、決心がついたのではないかとも思われるのです。
そう思って考えてみると、そういえば、と思い当たることがありました。
ページを一枚戻していただいて、31ページの下の段、21章の12節の最後の方に「イサクから出るものが、あなたの子孫と呼ばれるからだ」と神さまの言葉があります。
何度目を皿にしてみてみても「イサクから出るもの」と書いてあります。
そのほかにも、神さまは「イサクとわたしの契約を結ぶ」とも仰っていました(17:21)。
イサクを神さまが祝福しておられ、契約を結ぶ者とされていることは、間違いない。
それはもう、確信していたでしょう。
それと、「イサクをささげなさい」というこのたびの神さまのお言葉は、どう調和するのか。
聖霊に導かれて、アブラハムが到達した結論が、どんな形でか分からないけれども、必ず神様はイサクを生きて戻らせ、イサクから子孫を生まれ出るようにされる。
文字通り全能の神様は、たとえ一度捧げてからでも、イサクを生き返らせてでも、これまで何度も約束してくださったことを実現されるということだったと思われます。
新約聖書のヘブル書11章17節から19節。
信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクを捧げました。
彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
神はアブラハムに対して「イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は神には人を死者の中からよみらせることもできる、と考えました。
それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。
ただ神さまからこうしなさい、と言われたから従った、というよりも、必ず復活させてくださるという信仰―聖霊による強い確信―があったからこそ、このように行動できたのだと思います。
神さまは決して偽ることがない。
そして恵み深く、あわれみ深いお方。
全身全霊を傾けて信頼するにふさわしいお方。
神さまが特別にこの時、聖霊によって、そのようにアブラハムの信仰を強め、導いておられたのだと思います。
そうでなければ、いくらアブラハムでも、人間には、とてもこのようには行動できないと思います。
愛してやまないひとり子なのですから。
この試練は、次の次の回に触れますが、遠い将来に行われる神さまの救いの御業、最愛のひとり子イエス・キリストの犠牲による救いをあらわす型でした。
そういう意味で、これは特別な出来事でした。
<試練の意味―神さまとの関係において>
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。」
神様は、時に私たちを試練に会わせられるようです。
試練といいますのは、ある状況にその人をおいてその人の信仰を試す、テストするということです。
ペーパーの試験ではなくて実地試験。
試練とは、それが犠牲を強いられることであれ、忍耐を強いられることあれ、本質的には神への信仰、神への信頼が問われている。
神が善にして、義にして、聖であられ、恵み深く、あわれみに富み、真実であられる。
そのことを信じるか。
信じ続けるか。
そのことを疑わせるような出来事が、人生にはある。
なぜ、どうして、ということ。
私たちには、どうして神さまがこんなことを許されるのか、許されたのか、わからないということ。
その事の信頼が揺すぶられる。
疑問、疑念が湧く。
そのときに、それでも神さま、あなたに信頼します、と絞り出すようになされる告白は、この世のどんな宝石よりも神さまの目に尊いでしょう。
エデンでの最初の誘惑もそこだった。
神への全き信頼を疑わせるサタンの言葉に耳を傾け、受け入れてしまった。
そこが罪の本質。
信頼関係がなくては、愛の関係もありえない。
神さまは人との愛の関係を望んでおられる。
信頼関係は不可欠。
アダムとエバは、最初の試練でこけてしまった。
ロープ。
実験室で何キロまで耐えられるか、平時、何キロまで耐えられる、と大丈夫だと。
実際に崖にロープ一本でぶら下がったとき、大丈夫か?と不安になる。
ルカ 8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。
聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
根とは何か。
キリストの愛に根ざす。
愛は強い。
目に見える現実、揺れ動く。
不安になる。
恐れる。
それは仕方がない。
サルではないから。
人間だもの。
でも、そういうものにやられっぱなしではない。
そこから、それらのマイナスの感情を押し返す。
二枚腰で耐える。
そこが信仰。
神さまの御真実を疑うのは、もってのほか。
十字架が目に入らぬか。
この世界を造られた神様。
世界は、神さまと人間の関係、信頼関係、愛の関係を繰り広げる舞台。
神さまへの信頼、愛が、もっとも価値あるもの。
金や銀は消え去るとき、神への信頼、愛は、永遠に残り、むしろ永遠の輝きを放つ。
どこかの宝石のうたい文句ではないが、文字通り、永遠の輝きを放つ。
ヤコブ 1:12 試練に耐える人は幸いです。
耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
Tペテ 1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。
いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
Tペテ 1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
もちろん、私たちが試練のときにも、神さまは聖霊によって、私たちを支えられます。
私たちが信仰を持っていること。
それ自体が、聖霊による働きです。
神の愛と真実、最後のハッピーエンドを保証するもの。
イエス・キリストの十字架。
その犠牲による救い。
そこにあらわされた神の真実な御愛。
神さまを疑わせようとしているサタンに対する勝利でもある。
信頼を試すため、とすると、意地悪な感じ。
試すためと言うよりも、信頼をあらわし、勝利することを神さまは願っておられる。
勝利して、神さまの栄光を現し、サタンに勝利し、勝利を得る者に約束されている栄光を与えたいと願っておられる。
このことがわかると、あの有名な御言葉もしっくりくる。
ローマ書8章28節です、「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
父への信頼において、御子の似姿に変えられる。
十字架上で、御父へのまったき信頼が揺るがなかった御子。
コロナの試練の中、神さまへの信頼が問われている。
聖霊によって、揺るがない信仰を。
不安や恐れに勝利する信仰を。
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