礼拝説教要旨(2020.5.10)
神がともにおられる
(創世記21:22−34) 横田俊樹師 
<今日の要点>
@神がともにおられる

<今日のあらすじ>
創世記を順番に見てきまして、アブラハムの生涯をたどっています。
遠くから眺めると美しい、なだらかな曲線を描く雄大な山も、近くで見るとゴツゴツした岩があり、天を突き刺すギザギザした木々があるように、信仰の父と称されるアブラハムの生涯も、その一コマ一コマを見ていくと、決して平坦な道ではなく、罪の世を生きる苦労もあれば、自分の失敗で頭を抱える苦悩の場面もありました。

しかし神さまのあわれみを受けているアブラハムは、その苦しみ、試練の中に神さまが御手を差し伸べて下さって、導いてくださる。
その神さまがともにおられる恵みを、与えられているのでした。
試練や失敗がないのではない。
ただ、そこに神さまがともにいて下さって、恵み深く導いてくださる。
そこが、信仰者の幸いの一つということになるでしょうか。
今日の所は、そんなことも思わせてくれるところです。

ある日、以前、20章で登場したゲラル地方の王アビメレクが将軍ピコルを引き連れてアブラハムのもとに来ました。
アビメレクなる人物は、なかなか良識のある、良心的な王でしたが、このたびは将軍を引き連れてですから、アブラハムも構えたでしょうか。
どんな用向きでと、顔色を伺っていると、どうやらアビメレク王は、アブラハムが何をしても祝福され、力を増し加えてきたのをみて、もしやアブラハムが将来、自分を脅かす存在になるのでは、と、危惧したらしいのです。

それで23節にあるように、アブラハムが決して自分たちに害を加えないようにと言う契約を求めたということでした。
以前見たように、かつてアビメレクはアブラハムが妻サラを妹と偽った一件で、アブラハムに対して危害を加えず、好意的に扱いました。
だから、アブラハムのほうも、そのアビメレクの好意に応じて、友好的な態度を、というのです。
アブラハムも当然、善に代えて悪を返すつもりは毛頭なく二つ返事で了解し「私は誓います」と答えました。

それにしても、20章では、アビメレクはゲラルの王として、アブラハムはそこに一時滞在する旅人として登場し、最初アブラハムはアビメレクを恐れていました。
それがこの章では、アブラハムはアビメレクと対等に交渉の出来る存在、いや神がともにおられるためにアビメレクを恐れさせる存在になっていたのでした。

この度はアビメレクのほうから平和条約を求めてアブラハムに接近して来たのです。
アビメレクは、アブラハムに神がともにおられることを認めました。
それは、創世記12章1-3節で神がアブラハムに約束してくださった、

「わたしはあなたを大いなる国民とする。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者を、わたしは呪う。」
(12:2−3)
という約束がそのまま実現していたからでしょうか。
この人には手を触れてはいけない、害を与えれば自らが被害にあうと知っていたのです。
「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」
とアビメレクが言っている通り、そこには単なるアブラハムの才覚とか力以上の、何か神聖なもの、それこそ神さまがともにいるとしか思えないと、そのように彼の目に映っていたのでしょう。

さて、本文に戻りましてアブラハムはこうしてアビメレクと平和条約を結びましたが、そんな祝福に満たされていたアブラハムも苦労はしていました。
アビメレクの部下の者たちが、せっかくアブラハムが掘り当てた井戸を横取りした、と言うのです(25−32節)。

アブラハムもおそらく腹に据えかねていたのでしょう。
それで、ここぞとばかりにアブラハムは、そのことをアビメレクに抗議しました。
アビメレクは、知らなかったと言っています。
けれども、知っていたけれどもとぼけていた、と解釈する向きもあります。
記憶にございません、と。
そういえば、読みようによっては、26節のアビメレクの言葉は、私も知らなかったし、あなたも言わなかったし今の今まで知らなかったと、なんだかしどろもどろというか、あわてて言っているようにも読めなくもない感じもします。
真偽の程はわかりません。
いずれにしても、神さまがともにおられるアブラハムでしたが、かと言って、この地上で何もトラブルなく、わずらわしい思いをせずに暮らしていたと言うわけではなかったのです。
こういう嫌な思いもし、腹の立つ思いもし、それを耐え忍ばねばならなかったのです。

しかし今、アビメレクのほうから出向いてきて、平和条約を、と向こうから申し出てきたのですから、これは絶好の機会です。
このアブラハムの訴えに対して、アビメレクはノーとは言えません。
ともかく、アビメレクは将軍を引き連れてですから、威圧して平和条約を結ばせる算段でやってきたのでしょうが、そちらはあっさりと二つ返事で片付いて、ほっとしたところを、今度はアブラハムのほうからそのタイミングを逃さず井戸のことを持ち出して、アビメレクは思わぬカウンターを食らった、一本取られた、という形になりました。
柔道の極意は、相手の力を利用して投げる、ということだそうですが、まさにアビメレクの思惑を利用して見事に一本取ったアブラハム、という図でした。
これも神さまの守り、導きということでしょう。

27節でアブラハムは羊と牛をとって、アビメレク王に贈呈して、これからも友好的な関係を保つ契約を結びました。
それから28節で、改めて今度は、この井戸が自分のものであると言うことのしるしとして雌羊七頭を贈りました。
ベエルと言うのは井戸、シェバは、数字の七の事ですが、これは誓うという言葉シャバとも関係のある言葉と言われます。
数字の七と誓うというのをかけた言葉ということです。
七の井戸。
誓いの井戸。
こう命名しておけば、アビメレクもこれがアブラハムから送られた例のあの七頭の雌羊に因んだ井戸であることが覚えやすいでしょう。
こうして名前の由来となる故事を作ってしまう、やりてのアブラハムでした。

さて、こうしてアブラハムはアビメレク王と特別な契約を結んで、その地での生活がある意味で保証され、しばし平穏な年月を恵まれることとなりました。
33節に「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、そのところで永遠の神、主の御名によって祈った。」
とあります。
 柳の木と訳されていますのは、正確にはシリヤのギョウリュウという木で、枝が垂れ下がっている姿はちょっとしだれ柳に似ているそうです。
高さ9メートルにも達し、地中深く30メートルも根を下ろすので、渇水に強く、また葉が細くて水分の蒸発が少ないために、他の樹木が水涸れで枯れても生き延びることができるので、砂漠地方の記念樹として最適だそうです。
アブラハムはそのギョウリュウの木の下で永遠の神、主を礼拝しました。
神さまの呼び名はこれまで「いと高き神」エル・エルヨーン「全能の神」エル・シャダイときて、ここで永遠の神、エル・オーラームとして示されました。

14章では、異国の地に来たばかりのアブラハムに周囲の王達との戦いに勝利を与えたいと高き神として。
それからアブラハム99歳のとき、生物学的には不可能な状態のアブラハムとサラに子どもを与えるという約束を与えられたときには「全能の神」として。
そして今回、長い地上の旅路をしてきて高齢に達し、念願のわが子イサクも与えられ、しばしの平穏を与えられたときに、永遠の神の国へと思いを導かれたのでしょうか。
無我夢中で人生を歩んできて、老境にさしかかったとき、神の民はその先にある永遠の神の国へ、天の故郷へと明るい希望を持って、むしろますます期待感を持って歩むという道が用意されていたのでした。

私たちとともにおられる神さまは、私たちの人生のその時その時に応じて、ご自身を示されます。
あるときは創造者なる神として、あるときは全能の神として、またあるときは慈しみ深い慰め主として、またあるときは荒野で私たちを導く羊飼いなる神として、そしてまた永遠の神として。
私たちの人生のその時その時に応じてご自身をあらわされる主を、親しく知る者でありたいものです。

<神がともにおられるー困難の中で、ともにおられる神に信頼するということ>
さて、アブラハムは、神さまがともにおられると、異邦人のアビメレクの目にもわかるほどでした。
あやうく「うらやましいな」などとひとごとのように思ってしまいがちなのですが、考えてみればキリストを信じる私たちにだって神さまがともにいてくださっているのでした。
イエス・キリストを信じたとき、その十字架が私の罪のための身代わりの死だったと信じたときに、私たちと神さまとの間を隔てる唯一の壁である罪が、すべて取り除かれました。
それで、キリストを信じ、わが主と受け入れた者には、世界の造り主なる神さまがともにいてくださる。
そう聖書は教えています。

もちろん、アブラハムの井戸の一件で見たように、神さまがともにおられるからと言って、何も問題がなく、困難もなく、お花畑をスキップして行くように歩めると言うことではありません。
アブラハムも、せっかく苦労して掘った井戸、生活がかかっている、いのちの水を得るための井戸を横取りされるという、はらわたの煮えくりかえる経験をしていました。
神さまがともにおられたアブラハムにも、こういったいわば不条理を受け、生活を守るための戦いや困難というものがあったのです。
改めてこの地上は安住の地ではなく、人の罪ゆえに、いばらとあざみの生い茂るところなのだと思い知らされます。

ただそういった中で、肉の思いで復讐心に燃え、何百人もいた家来を引き連れて、その奪い取った男に襲いかからなかったのは、アブラハムの思慮深さであり、信仰深いところだったと思います。
人間的な復讐心はグッと押さえて、裁きは神さまに委ねる。
こっちには神さまがともにおられるのだから、などと思い上がって肉の思いで、戦いを仕掛けたりしない。

むしろ神さまがともにおられるのだから、その神さまに裁きを委ねて、祈る。
そうした結果、こうして神さまがちゃんと合法的・かつ平和的に解決の道を備えてくださり、生活に欠かせない井戸を取り戻すことができたのです。
後腐れなく、きれいに決着をつけることができました。
これが、もしアブラハムが、力尽くで奪い返したりしていたら、もしかしたらまた向こうからやり返されて、争いが大きくなっていったかもしれません。
それが平和的、合法的な形で決着がついた。
それでその後、長くその地に滞在して、落ち着いた生活を営むことができたのです。
ちまたにも短気は損気などといいますが、旧約聖書の箴言の中にも「愚かものはすぐに怒りを表わす。」

などというものがあります。
怒ること自体は必ずしも罪ではありませんし、むしろ事柄によっては怒りを覚えるべきときもありますが、怒りからやってしまったことというのは、あとで後悔を生む結果になることが多いものです。
その点、アブラハムも、神さまがともにおられると言うことを知っていたからこそ、その怒りの原因を神さまに委ねると言うことができ、短気を起こさずグッとこらえることができたのでしょう。

ここにはやはり、信仰が必要です。
信仰を働かせるという、信仰の実践が必要です。
腹に据えかねる事というのはいつの時代にもそれなりにあるのでしょうが、アブラハムもまたそんな思いをしながら、それらのことを、ともにおられる神さまに委ねると言うことができて、それゆえに神さまもまたそのアブラハムの信仰に応えて、解決を与えられた。
アブラハムが何をしても神がともにおられる、と言うのは、ただ棚ぼた式にうまい話が転がり込んでくるということではなくて、やはりアブラハム自身も肉の思いによってではなく、ともにおられる神さまにより頼んで、信仰をもって物事に処していたからだったのではないか、とそんなことを思わされるのです。
私たちも、ともにおられる神さまへの信頼を、絵に描いた餅でなく、実際の生活で実践して、そして実際の生活でその実を頂く幸いにあずからせて頂けたら、と思うのです。

最後に詩篇1篇1−3節をお読みしたいと思います。

幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、罪人との道に立たず、あざけるものの座に着かなかった、その人。
まことにその人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。
その人は水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。

主の教えを喜びとし、その教えをいつも口ずさむ。
そのようにして、神さまとともにいる生活の醍醐味を体験させていただけたら、と思います。