礼拝説教要旨(2020.5.3)
試練を通って祝福へ
(創世記21:14−21) 横田俊樹師 
<今日の要点>
@すでにある恵みに目が開かれることを求める。

A試練を通って祝福へ。


<今日のあらすじ>
つらい、つらい、アブラハムとイシュマエル親子の別れです。
前回見ましたようないきさつで、奥さんのサラから偉い剣幕で突き上げをくらい、悩んでいたところに、神様からのみことばがあって、女奴隷ハガルと彼女によってもうけたアブラハムの子イシュマエルを家から追い出すことになったアブラハム。
つらいことでしたが、それでも朝早く、実行に移しました。

神様がイシュマエルの前途の祝福を約束してくださったので、ようやく送り出す決心は付いたものの、これで17年間ともに暮らしてきた我が子と生き別れとなります。
ハガルたちには、背負えるだけのパンと水を与えて、エジプトに向かう方面、ベエル・シェバという方面に向けて送り出しました。
ハガルは、エジプトの出身でしたから、とりあえずはエジプトの方に向かったのでしょうか。
イシュマエルたちの後ろ姿が見えなくなるまで、いつまでも見送るアブラハムの姿が目に浮かぶようです。
アブラハムはその後もたびたびイシュマエルのことを思い出しては祈ったでしょう。
いや、もしかしたら毎日、祈っていたのかもしれません。

彼女たちが向かったベエル・シェバには、いくつか町があったそうですから、そこまで行けば何とかなるかもしれない。
ところが、ハガルは方向音痴だったのでしょうか。
14節の「荒野をさまよい歩いた」とあるのは、荒野で迷ってしまったということのようです。
やがて水が尽き、先にイシュマエルが脱水症状にでもなったのでしょうか。
歩くこともできなくなったイシュマエルを、それでも母はおんぶして、しばらく歩いたようです。
しかし17才にもなっていたイシュマエルを最後の力を振り絞っておんぶしてきたものの、もはや力尽き、一本の灌木の下に我が子を置くと、母は少し離れたところで座りこみ、声を挙げて泣きました。
私は子どもの死ぬのを見たくない、と荒野のど真中で絶望して、離れて泣いたと言うのです。
あわれなハガル。
神様がアブラハムに、イシュマエル祝福すると仰ったというが、あれはうそだったのか。
私を追い出すための方便だったのか。
やっぱりこんなことになってしまって、神様の言うことなんか、嘘っぱちだわ!そんな嘆きも出てきたでしょうか。
イシュマエルにしてみれば、父に捨てられ、母に放り出され、砂漠のど真中に文字通りの天涯孤独となりました。
しかし、イシュマエルという、これは御使いがつけた名前で「主は聞き給う」という意味ですが、その名の由来をハガルから聞かされていたでしょう。
イシュマエルは、あきらめず、神さまに祈っていたのです。

17節「神は少年の声を聞かれ」とあります。
イシュマエルは、自分で歩けないくらい弱り果てていた中、もしかしたら意識ももうろうとしていた中、小さな声で、それこそうめきか何かわからないような声ででしょう、それでも、神様に祈っていた。
そして神様はそんな小さな声をも聞き逃さない。
聞き漏らさない。
ちゃんと聞きあげてくださったのです。
そんなつぶやくような小声の祈りでも、神さまに届いているのです。
神様は御使いを遣わしてハガルに告げます。
「ハガルよ。
どうしたのか。
恐れてはいけない。
神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。
私はあの子を大いなる国民とするからだ。」
目の前に御使いが現れて、恐れるな、神があの子の声を聞かれたから、と言われて、急にぱーっと目の前が明るくなったでしょうか。
そして「私はあの子を大いなる国民とするからだ」と、神様のお約束を念を押されて、ああ、やっぱり、神様は私たちのことをお忘れになっていないのだ、あのお約束はうそではなかったのだ、と元気百倍、立ち上がる力を得たことでしょう。

 神様は、ハガルの目を開いて、近くにあった井戸を見つけさせてくださいました。
まさにいのちの水です。
彼女たちはその井戸からくみ上げた水で渇きを潤し、息を吹き返しました。
その後、神様がイシュマエルとともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者になったと言います。
獣を射止める弓のことだとすると猟師ということになりますが、あるいは武器としての弓だとすると、武力という意味での力をつけて、そのあたりに勢力を張るようになったということなのか。
彼はパランの荒野という、シナイ半島東部に位置する荒野に住むようになり、お嫁さんをエジプトから迎えることができるほどに、生活も豊かになったようです。
後に彼からも12部族が出るようになります。
神様のお約束どおり、イシュマエルの子孫も大いなる国民となりました。

 一時はどうなることか、いやもうだめだ、とわが子を投げ出してしまったハガルでしたが、息子のイシュマエルの方が信仰を持っていて、息も絶え絶えになりながらも主に助けを求めた。
そのイシュマエルの祈りが天に届き、絶体絶命の危機を免れました。
人生の荒野のような中でも、一切の人間的な頼みが切られたとしても、生きておられる主なる神様は私達の声を聞いて、助けてくださいます祈りは命綱です。

「苦難の日には、わたしを呼べ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。」
(詩50:15)というみことばを心に刻んでおきたいものです。

<@神がハガルの目を開かれたので>
以上、見てきましたように、神様はイシュマエルの声を聞かれて、絶体絶命のピンチからハガルとイシュマエルを助け出しました。
しかし一口に助けると言っても、ここでの主の助け方も印象的です。
つまり神はハガルの目を開かれて、それで彼女はすぐ近くにあった泉に気がついた、と言う点です。
ハガルのために新しく泉を湧き出させた、と言うのではなくて、もともとあった泉にハガルは気がつかなかった。
それを目が開かれて、泉を見つけ、命を助けられた、と言うのです。
これはなかなか意味深長です。
私達に必要な助けは、外から新しく与えられる場合よりもむしろ、すでに与えられているものに目が開かれ、気づかされることが必要だった。
まわりの状況を変えるよりも、自分の目が開かれて、それまで見えていなかったものが見えてくることが必要だった、という場合があるのかもしれません。

ハガルは、パニックになっていたのかもしれません。
もうだめだ、もうだめだと。
荒野で迷子になってしまったら、そう思うのも無理はないのかもしれません。
しかし、ダメだダメだばかりに心が占められていると、すぐそばにある救いも見えなくなって、気がつかない、ということもあるのです。
絶望が彼女の目を塞いで、神様が備えていた恵みを見えなくさせていたと言えるかもしれません。
悪い方向にばかり考えが行きがちかな、悪い情報に過敏に反応しがちかな、と思われる方は、ちょっと心に留めておくと良いことかもしれません。
「神がハガルの目を開かれたので」私たちの目も開いてください、と祈りたいものです。

それから、これを霊的な意味に適用することもできます。
何度も目にし、耳にもしてきた御言葉が、ある時、はっと霊の目が開かれて、そうだったのか、と感動するときがあります。
心に迫るときがあります。
御霊が働いて、霊の目を開かれる瞬間です。
先日、水曜日のメッセージでご紹介した姉妹もそうでした。
それまで何度も聞いてきたことだと思いますが、神様が定めたときが来たということなのでしょう、私たちが何をしたからと言うのでなく、本当に神様が一方的にあわれんでくださって、神様のお恵みとして、救われているということがわかって、喜びでいっぱいです、と仰ってくださった。
そういう神聖な瞬間というものを一つでも多く恵まれたいものです。
荒野のような地上の旅路をさまよい、飢え渇いている魂は、その手の中にある聖書を開き、私達の心の目を開いていただきさえすれば、それこそ、そこにすでに尽きないいのちの泉がこんこんと湧き出ているのを発見して、魂を潤すことができるはずなんですね。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネ7:37-38)とは、イエス様のお約束でした。
イエス様のもとに来て、目を開いていただいて、まことのいのちの水を汲ませていただきたいと思います。


A試練を通って祝福へ!
イシュマエルは、結局は、神様の約束通り、大いに祝福され、彼から12部族が出るほどになりました。
しかし、先ほど見ましたように、何事もなくそのままスンナリ祝福の道を進めたわけではありませんでした。
その前に、もはやこれまでか、、、と言うほどのピンチを通らなければなりませんでした。
あやうく、神さまにだまされた!とさえ、口から出そうな試練を通らされたのです。

しかしそのギリギリの試練の中で、イシュマエルは神さまに助けを求めました。
祈りました。
そしてその祈りを聞かれて、助けられるという経験をしました。
この経験を通して、イシュマエルは、神様が確かに自分の声に耳を傾けておられるという確信を得たでしょう。
もともと「イシュマエル」という名前の由来も、母ハガルの苦しみの声を神様が聞いて下さったということだと聞いていたでしょう(16:11)。
父アブラハムからも神様のことは聞いていたでしょう。
そして今回の経験を通して、彼は神さまが生きて働いておられること、助けが必要なときに叫べば、応えてくださることの確信を深められたでしょう。
それはこれから荒野で生きていく彼にとって必要なことであり、彼が神さまから祝福された歩みを恵まれるために必要なことでした。
自分の力に頼まず、神さまにより頼む者となるために、必要な経験だったのです。
この経験は彼にとって宝でした。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
あなたの御口の教えは、私にとって幾千の金銀にもまさるものです。」
(詩篇119:71-72)。
とある通りです。

昔、昔の出エジプトの時代、イスラエルの民も同じような経験を通らされました。
彼らも、奴隷の国エジプトを出たものの、そのままスンナリと約束の地に導かれたのではありませんでした。
一つには、彼ら自身の不信仰のためでもあったのですが、それだけでなく、彼ら自身が主により頼むということを身をもって学ぶために、40年間、荒野で旅をしなければならなかったのです(申命記8章参照。旧約p318)。
そしてそれは、ついには彼らを幸せにするためだったと言うのです!(申命記8:16)
神さまは、ただ人を苦しめようとは思っておられません(哀歌3:33)。
また父がその子を訓練するように、ご自身の子を訓練されるともあります
(申命記8:5、ヘブル12:5−7)。

訓練とは、将来のためのものです。
将来の栄光のための今の訓練です。
みなさん、それぞれ個人的にもさまざまな試みがあるかと思います。
また教会としても今は、試練の時です。
しかし、今の試練の時が、無駄だとは思っていません。
このトンネルを抜けた暁には、神さまが豊かにあふれるばかりの祝福をご用意くださっていると信じます。

その希望に励まされて、今は敬虔を訓練されるときではないかと思います。
神により頼むということ、神の御言葉に聴くこと、祈りに励むこと、兄弟姉妹たちとの交わりを、できる方法で保ち、祈りあうこと等々。
忍耐も必要なのは確かです。
しかしその忍耐を支える希望と励ましを神さまは与えてくださいます。
また、トンネルを抜けた暁にも、自分の力で通り抜けたとか、その後の祝福を得たというように、高ぶることのないように、今、いっさいが神さまの恵みによって支えられ、導かれているのだということを体験を通して学ばされているときでもあると思います。
兄弟姉妹がたの励まし、支え、奉仕、祈りなどの恵みの数々も、神さまからの尊い賜物として、感謝しています。

この一週間の歩みも、主が、みなさんとともにいてくださって、目に見えるところにおいても、見えないところにおいても、恵みをもってお一人びとりを導いてくださいますように。