<今日の要点>
福音に立ち返って、自分も神の憐れみを受けた者である事を覚えて、感謝と喜びを持ちつつ、塩気を保つ。
<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
1節は「その二人の御使いは」と始まります。前の章で見たように、アブラハムの所に来た時は三人でした。そのうちの一人、主ご自身は前回見たようにアブラハムの所に残り、執り成しを受けられた後、天に帰られたのでしょうか。残りの二人―実は、裁きのために使わされた御使い、審判天使―が、ソドムの入り口に着くと、すぐさまロトがひれ伏して、自分の家に泊まってくれるよう頼みました。時は夕暮れ、日が傾いてあたりも薄暗くなってくる頃合いです。御使いは最初は、広場に泊まるから、と断ったと言います。御使い達自身は、広場に泊まる事でこの町の堕落ぶりを確かめようとしたのかもしれません。確かに、このあと、旅人が来た事をどこからか嗅ぎつけた、よからぬ輩どもは、寄ってたかって二人をなぶり者にしようと、集まって来る事になります。えー?そんな事になって大丈夫なんですか?と思われるかもしれませんが、もちろん、大丈夫なんです。御使いは人間よりはるかに力のすぐれた存在ですので、そのような輩が束になって襲ってきても、映画のヒーローさながらに、水戸黄門の助さん格さんみたいに、どんな相手でも、絶対にやられる事がありません。天使というのは、そういう霊的存在です。しかしそうとは知らぬロトは、見知らぬ旅人が広場になど泊まっては一大事、と是が非でも自分の家に泊まってくれるよう懇願したのでしょう。家に迎え、ごちそうをつくり、もてなしに奔走するロト。パン種の入っていないパンとは、イースト菌の入っていないパンの事で、時間のない時に作るものです。翌朝早く旅に出ようという二人のために、急いで手早く料理をしたのでしょう。旅人をもてなすこの姿は、アブラハムから影響を受けたものでしょうか。聖なる務めを果たしていたロトの姿です。
しかし、食事を終えてしばらくした頃でしょうか、案の定、町中の者がロトの家を取り囲みました。4節を見ると「若い者から年寄りまで」「すべての人が」「町の隅々から」と念入りに描写されています。思慮もあり分別もあるとされる老人までが飢えた狼のように夜陰に乗じてやってきた。それも「隅々から」悪習に染まっていない家は一軒もなかったという事でしょうか。町全体が一軒残らず、一人残らず、堕落腐敗していた事を暗示しているのでしょう。そして彼らはロトに向かって、旅人をここに出せと叫んだと言います。5節「彼らを良く知りたいのだ」の「知る」は、聖書独特の用法で、時々出てくるのですが、性的な関係を持つという意味で使われます。新しい獲物をよこせ!というのです。
ここで最も悪質なのは、力尽くで自分たちの汚れた欲望を満たそうという暴力性でしょう。相手の人格を無視して、力尽くで自分の倒錯した欲望を果たす事しか頭にない。もはや弱肉強食の野獣の世界。良心というものがなく、相手の気持ちを考えず、自分の欲望を力尽くで遂げる事しか頭にないという、暴力的な状態です。そこには、その暴虐による犠牲者がいると言う事です。おそらく数え切れないほどに。その叫びが天に届いて、神は裁きを行うために御使いを遣わされたのでしょう。
ロトは、彼らの牙から二人の旅人を守ろうとしました。ですが、今日では信じられない事を申し出ました。8節で自分の娘を代わりに差し出すから、あの旅人には手を出さないように、という。一瞬、目を疑ってしまいますが、メンツを何よりも重んじる古代中近東では、こう言う事がなかったわけではないようです(士師記19:22-26)。いや、もしかしたら今日でも形を変えて似たような事があるのかもしれませんが。
幸い、このロトの申し出に、野獣化したソドム人たちは聞く耳を持ちませんでした。9節「引っ込んでいろ。」と吠えました。そして今度は、彼らの標的はロトに移りました。自分たちの欲望の邪魔をする者に、憎悪が向くのです。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」こう言って、彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来ました。ここで危機一髪、助さん格さん、あるいは風車の弥七ではありませんが、すんでの所で御使い達がロトの手を取って家の中に入れ、ロトは守られました。そして御使いは、野獣以下に成り下がったソドム人に目潰しをくらわしたといいます。しかしそれでも、見えなくなってもなお、あきらめずに手探りで戸口を探していたとは、欲望にとりつかれたらどんな状態になってもそこから抜けられない、まさに欲望の奴隷と成り果てているソドム人の姿が記されています。
人間はここまで堕落するものか、と思わされる聖書の記述です。動物でもしない事まではまり込む。動物以下にまで、悪魔のようにまでなってしまう罪を秘めているという事でしょうか。罪の力を見くびってはならないのです。
<さばきつかさのように? というより、赦された罪人として!>
9節のソドム人たちがロトに言った言葉に注目したいと思います。彼らの「さばきつかさのようにふるまっている。」という言い草からすると、ロトはもしかしたら日頃からソドムの町のあまりのひどいふるまいに、「兄弟よ、それはよくない」などと諫める事もあったのかもしれません。また、仮に実際に言葉に出さなくても、ロトが彼らといっしょに汚れた行いをせずにいる事が、目障りだったのかもしれません。無言のうちに責められているようで。ロトは、ソドムでは煙たがられていたのではないかと思います。ロト自身は、ソドムの悪習に染まらなかったのです。それゆえロトは、新約では義人と言われています。
Uペテロ2:6−8
2:6また(神は)、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。
2:7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。
2:8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
使徒ペテロはロトを義人と呼んでいます。聖書に親しんでいる方は、このあとの展開もあって、ロトという人物にあまりいい印象はないんじゃないかと思います。私も昔、そうでした。ある時、新約聖書で義人と言われている事を知って驚いた記憶があります。でも考えてみれば、です。ロトは、周囲の不法、暴虐、悪に対して、彼が何ができたというわけではないでしょう。ロト自身は社会の現実に対して己の無力さを感じていたかもしれません。ですが、彼らのその汚れた行いをともにしないという事、心を痛めるという事だけでも地の塩、世の光としての存在意義は十分にあるのだと思います。そしてそれは聖なる神様の御目には闇夜に輝く灯火のように、尊く写っているのではないでしょうか。川の流れに流されないようにするには、それだけで力のいる事です。周囲の流れに抗するのも、けっこうパワーのいるものです。そう考えると、ソドムのような状況において、流されず、汚れた行いをともにしない、きよさを保ったというのは、もちろん神様の恵み、助けがあっての事ですけれども、大変な事だっただろな、と思うわけです。そう考えると、ソドムのような所において「さばきつかさのように、、、」はほめ言葉、そう言われるのは義人の勲章と言えるのかもしれません。よくぞ耐えた!と。(参考 マタイ5:10-12)
ちなみにですが、逆に、良心の破船は、信仰の破船と言われます。
Tテモ1:19-20
1:19 ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。
1:20 その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。
これを書いた使徒パウロは、良心の破船は信仰の破船と言いました。そして問題の人たちに神を汚してはならない事を学ばせるために、サタンに引き渡す(除名の事?)事さえしたと言います。神を汚す行いに染まって恥じる事も悔い改める事もなく、開き直っていたのでしょうか。それに対して使徒は決然とした態度を示さざるを得なかったのです。世の罪や汚れに対して、何でもかんでも、わかる、わかる、と合わせ過ぎて、話がわかるクリスチャンとおだてられて、いい気になっているうちに、気がついたらすっかり塩気を失っていた、などという事のないように自戒したいものでもあります。
ところで先に、ソドムのような状況においては、さばきつかさのような顔をして、、、と言われるのも義人の勲章かもしれないと言いました。ですが、現代の日本の社会において、それぞれの遣わされている所はソドムのような場所ではないでしょう。普段、私たちが置かれている所では必ずしもいつも「さばきつかさのように」振る舞う必要はありません。ではどういう振る舞いがいいのかと思って考えてみると、やはり原点は福音にあると思うのです。福音を信じているにふさわしいあり方を心がけたいのです。それは、自分も神様から憐れみを受けた者だという事を覚える事です。神様の憐れみがなければ、自分も救われなかった者だったと覚える事です。プライドが邪魔をするかもしれません。しかしそのプライドが砕かれた時に、その人のところにキリストが、神の国が訪れるのです。自分が立派で、自分がこんなにきよいから、頑張っているから、神さまに受け入れられた、と心のどこかでそういう事が自分の支えるものなっていると、神様の憐れみを受けて救われたという事の本当のありがたさ、また喜び、幸い、平安、自由というものを味わう事ができません。ただただ100%、神様が憐れんで下さって救われた。10%でも50%でも90%でもなく100%、ただ神様の一方的な憐れみだけで、救われているという事がわかる事が、幸いなクリスチャンライフの秘訣です。それによって謙虚にさせられて、また喜びと神への感謝とをもって、歴史のゴールの希望を抱きつつ、悪や汚れから離れて塩気を保つ。それが福音が結ばせてくれる実なのではないかな、と思います。クリスチャンとは、自分を義人と自認するパリサイ人のようにやたらと人を裁いて良い気持ちになっているようなさばきつかさではなく(ルカ18:9-14)、神の憐れみを受けて喜び、感謝し、自分が受けた憐れみを他の人にも知ってもらいたいという、その救いをまた希望を分かち合う者です。上から目線でなく、かつ塩気を保つ。これはなかなか難しい事ですが、それを可能にするのは福音です。自分も神の憐れみを受けてはじめて救われた者である事を忘れてはいけません。
キリストの福音は、正義と愛の調和を教え、また信じる者のうちにその両者を形作る力です。神の愛は真実な愛です。徹底的に、どこまでも私たちに付き合って下さり、決して私たちを見捨てる事はない、ご自分のいのちを犠牲にしてまでも、、、その事を十字架上で示して下さった愛です。と同時に、神の正義は、決してごまかしたり、曲げたり、妥協する事のない正義です。神の正義は聖なるもの。汚れた心で近づくならば、たちまち滅ぼされてしまうものです。その事も神は十字架で示して下さいました。この両方の神の御性質が矛盾や妥協なく完全に調和してあらわされているのが、御子イエス・キリストの十字架なのです。このキリストにあらわされている神の正義と愛の調和した光が、私たちの内の心を照らして、癒しを与え、きよめ、御子キリストの似姿に造り変えてくれるのです。もちろん少しずつ、少しずつ、何度も失敗を繰り返しながら、です。でも、主がそれを成し遂げて下さいます。
生まれながらの私たちはどっちかに偏っているものです。正義の観念の強い人は、そうでない人を愛ばかり言って正義がないがしろにされる事に我慢ができない。同情心のあつい人は、そうでない人を正義ばかり言って愛がないと言って我慢ができない。これは、生まれつき人それぞれの性格もあって、ある程度、仕方がない事かもしれません。ですが、それでお互いを裁きあう事のないようにしなければいけません。正義と愛とが、完全に調和の取れた方は、イエス・キリストただお一人です。また、群れとしては、両方あってバランスが取れているという事にもなるのでしょう。初代教会にパウロとバルナバがいたように。ある人はキリストの正義を、ある人はキリストの愛を映し出して、教会全体としてキリストの似姿を形作っている。そう思うと、ある程度は幅があって良いのだと思います。自分はどっちかというとこっちの傾向が強いと弁えていれば、多少は気をつける事もできるでしょう。肝心なのは、一人ひとりが福音から離れない事、福音に立ち返るという事です。私たちは一度、福音を信じてクリスチャンになった後も、常に福音の真理からそれていこうとする性質があるのですから。
最後に、それでは私たちの日常生活において、具体的にどういうふうにしたらいいのか、二つの御言葉に心を留めたいと思います。まずは使徒パウロが書いてくれたアドバイスから。
コロサイ4:6
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
もう一つ、主イエスご自身の御言葉。
マルコ9:50
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
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