『第三部 感謝について:祈りについて 第47主日
問122 第一の願いは何ですか。
答 「み名をあがめさせたまえ」です。
すなわち、
第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、
あなたの全能、知恵、善、正義、
慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、
あなたを聖なるお方とし、あがめ、
讃美できるようにさせてください、ということ。
第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、
すなわち、その思いと言葉と行いを正して、
あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、
かえってあがめられ讃美されるようにしてください、
ということです。
私たちクリスチャンが「感謝」をもって神に近づくための「祈り」について、主イエスは、「だから、こう祈りなさい」と「主の祈り」を教えて下さった。「天にいます私たちの父よ」と呼びかけ、何を祈るのか、どのように祈るのか、その模範となる祈りを教えて下さった。幼子が、何のためらいもなく、全幅の信頼を寄せて父親に近づく心をもって、私たちも天におられる神を「父よ」と呼ぶことができる。この幸いは何ものにも勝る。この幸いな祈りの前半は、神を神と信じて、この方にお従いする思いに関することで、後半は祈る私たち自身の必要に関することである。信仰問答は、その一つ一つを、順次説き明かしてくれる。
1、問122「第一の願いは何ですか。」答「『み名をあがめさせたまえ』です。すなわち、第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、正義、慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、讃美できるようにさせてください、ということ。」新改訳聖書は「御名があがめられますように」と、文語訳の訳語とほぼ同じである。新改訳2017では、「御名が聖なるものとされますように」と訳して、「あがめる」とは「聖なるものとする」ことと訳している。「あがめる」を「崇める」という漢字で表しても、「聖なるものとする」と訳しても、その意味するところを理解するのは案外と難しい。「崇める」には、「敬う」や「ほめたたえる」、また「尊ぶ」などの意味が込められている。神を神として信じ、敬うこと、また、人を超えた方であることを認めること、尊重することを言い表している。「聖なるものとする」は、「特別なお方として、神を敬い、信じます」という意味が込められている。信仰問答は、先ず「第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り」と言って、「あなたの全能、知恵、善、正義、慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、讃美できるようにさせてください、ということ」と答えるのは、「神を神として、正しく知ることができますように、また、神が成された全ての御業を知って、神を聖なるお方といよいよ、あがめ、讃美できますように」と、心を込めて祈ることを説いている。
2、何よりも大事なことは、神を正しく知ることで、それが出発点である。生ける真の神は、全知にして、全能なるお方である。善においても、正義においても、そして慈愛においても、無限にして永遠なるお方である。神だけが、真理そのものであられる。他方、私たちは、有限にして、知識も知恵も不十分であって、善を追い求めても、また人を愛そうとしても、不完全極まりない。だから、先ず祈るべきことは、神を神として正しく知ることを得させて下さい、そして、神の全ての御業を知り、あなたを聖なるお方としてあがめ、讃美させて下さい、なのである。けれども、ここで神を知るとは、単なる知識としてでなく、神の御性質や御業の一つ一つに具体的に触れ、神を心から喜ぶことができるようになる、ということである。そのことは答の後半ににつながる。「第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ讃美されるようにしてください、ということです。」私たちが注意すべきことは、「御名があがめられますように」と祈る時、他人事のように祈ってはならない、ということである。神の御名があがめられていないからでなく、また神の栄光が現わされていないからでもない。神が神としてあがめられているかいないか、それは、私自身が神を信じて歩んでいるかどうか、そのことにかかっている。これこそが肝心である。
3、私たちが神について正しく知る時、私たちの生き方が変わるかどうか、このことについて、心を込めて祈ることが大事となる。「御名があがめられますように」と祈るなら、私自身の生き方が、神を中心として動き始めるのか、少しでも神から逸れているいると気づくなら、正しい道を歩ませていただくよう、軌道修正することが必要となる。「自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して」と言われることを、今の自分に当てはめて祈っているか、祈って来たか、その点こそが大いに問われている。「あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ讃美されるようにしてください」と祈っているか・・・なのである。私は大いに反省とさせられるばかりである。主の祈りをささげながら、「御名をあがめさせたまえ」また「御名があがめられますように」と祈り、もちろん、自分自身が心から神を信じ、あなたにお従いします・・・と祈って、自分を見つめてきた。それでも、改めて、「自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して」を問われるなら、全く不十分でうかつであっただけでなく、今もなお、うかつであると心から思う。私は、果たして「御名があがめれますように」と歩んでいるか、それとも、御名を汚す思いや言葉、そして行いを正さないまま、歩んでいるのではないか、心騒ぐことが、幾つも思い浮かぶ。
<結び> どうしたら良いのか。この祈りを教えて下さった御子イエス・キリストの十字架に立ち返ること、そのことを教えられる。私たちは、自分の力や努力によっては、何一つ解決しないと知って、十字架の主イエスを仰ぎ見たはずである。それ故に、いつでも、いかなる時も、どんな事柄であっても、十字架の主、イエス・キリストのもとに立ち返ることによって、進むべき道がそこにあると、安心を見出すことができる。私たちにも、「あなたがたは、地の塩です。・・・世界の光です。」と語って、更に「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と命じていてくださる主イエスは、私たちを造り変え、新しい命に生きる者としていて下さる。この世に生きる限り、この世で生かしていて下さる限り、必ず、生き方を正して下さる。その確かな神の御業を信じてこそ、主の祈りを祈り続けることができるのである。私たちは、一層神を正しく知り、生き方を正していただくことを願いながら、「主の祈り」を心を込めて祈りたいと思う。私たちの生きている姿、日々の言動が良い証しとして用いられるなら幸いである。もちろん、心の中にある思いも整えられて。
(マタイ5:13〜16)
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