礼拝説教要旨(2020.01.19)  
執り成しの祈り
(創世記18:22-33) 横田俊樹師 
 
創世記18章は、一風変わった章と言われることがあります。ある人は、この18章は前半は、主とサラの間で「笑った」「笑わない」のお笑い問答。そして今日の所は主とアブラハムの間の「値切り問答」と呼んでいます。50人、45人、40人、、、と意地汚い客のように値切っていくアブラハムと、それを受け入れる値切られる主。もっともアブラハムは自分が得をするためではなくて、滅ぼされようとしていたソドムの町を執り成すために必死で食い下がったわけですが。人のために、ここまで真剣に、食い下がる熱心は、どこから来ているのだろう、と思わされ、またその崇高な姿にあこがれさせられます。
 というわけで、今日の要点。

<今日の要点>
自分もキリストに執り成して頂いて救われた事を思い、人のために執り成す心を持つ。

<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
旅人のお姿で現れた主は、アブラハムに悪徳の町ソドムとゴモラから天に届いた叫びがあまりにもひどかったため、本当にその通りかどうか確かめに来たと告げました。神は正義の神です。悪に対していつまでも放っておく事はできない。裁きの時は必ず来る。ですが、その前に慎重の上にも慎重に、むしろ幾人かでも義人がいないものかと主ご自身の方が祈るような気持ちで地上に来られたのではないか。そして愛する人間たちを、その行いに従って裁かなければならない神の苦しい胸の内を分かち合う事のできる人間がいてくれる事を、神は願っておられたのではないか、と思います。そして裁きを受けなければならない人々のために執り成す人がいてくれる事が、神様にとって大きな慰めとなったのではないか(イザヤ59:16参照)、などと思います。

主の言葉を聞いて、アブラハムは身も凍る思いでその場に立ち尽くしました。甥っ子のロトとその家族がソドムに住んでいたからです。一瞬、頭が真っ白になったものの、我に返って何とかしなければ、このままでは彼らが滅んでしまう!と思ったアブラハムは、必死で主に裁きを思いとどまって頂けるよう、執り成した、というのが今日の筋書きで、以下、聖書は、アブラハムのその執り成しの様子に多くを割いています。主を説得するための足がかりは何か、というと、それはソドムにも正しい者がわずかでもいるかもしれないという事でした。それでいきなり「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」とつっかかります。そして「もしかしたらその町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。それなのに滅ぼしてしまわれるのですか?」とたたみかける。さらに「その中にいる50人の正しい者のために、その町全体をお赦しにはならないのですか?」と迫ります。交渉上手のアブラハムです。続けて息をもつかせず神ご自身の御性質に基づいて説得を試みます。「正しい者を悪い者といっしょに殺し、正しい者と悪い者とが同じようになるなどという事を、あなたがなさるはずがありません。ええ、とてもありえません。全世界を裁く方は、公義を行うべきではありませんか。」まるで主に向かって諭すかのような口ぶりです。

しかしここで忘れてはならないのは、アブラハムはソドムの町のためにこれほど熱心だったという事です。それゆえ主も、無礼者!などとは仰らず、むしろ内心、よくぞ言ってくれた、とうなづかれながら「もしソドムで、50人の正しい者を見つけたら、その人たちのために町全部を赦そう。」と答えられたのだろうと思います。天と地とで繰り広げられる祈りのドラマです。かくして以下、アブラハムと神との「値切り問答」が展開される事となります。50人から始めたアブラハムは、まず5人差し引いて恐る恐る様子をうかがいます。「もし50人に5人足りなかったら、どうなさいますか?50人いたら赦すと仰いましたが、それにたった5人足りないだけです。その不足したたった5人のために、あなたは町全部を滅ぼされるのでしょうか?」と。主はそれに対して二つ返事で「滅ぼすまい。もしそこに45人を見つける事ができたら。」と答えられました。渋々でなく二つ返事で承諾して下さったのでしょう。その様子を見て、これはもう一声いけそうだと踏んだアブラハム。もう5人足りなかったら、40人ではどうでしょうか?と言ってみる。すると、それもスンナリ「滅ぼすまい。その40人のために。」と通った。これで手応えを感じたか、次は思い切って一気に10人減らしてみる。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせて下さい。もしそこに30人見つかるかもしれません。」ちょっと厚かましいかなと思いながらも、ドキドキしながら答えを待つとやはり「滅ぼすまい。そこに30人を見つけたら」とのお言葉。いつ、いい加減にしろ!と言われるか、ハラハラしながらもまだアブラハムは食い下がります。「もし20人でしたら?」ときくと、「滅ぼすまい。その20人のために。」との答え。これでスタートから半分以下になりました。しかしここでもまだアブラハムは値切るのをやめず「主よ、どうかお怒りにならないで、今一度だけ、私に言わせて下さい。」と両手を合わせて頼み込むように「もしかしたら10人いるかもしれません。」と最後に言ってみます。すると主はやはり「滅ぼすまい。その10人のために。」と答えられたのです。
アブラハムは、10人でやめました。もしかしたらロトの一家が10人ほどであったのか。彼らは正しい心を持ってくれているだろうと思っていたのかもしれません。それで町全体は救われると。しかし後に見るように、結果的にソドムには10人の正しい人もいなかったのでした。

アブラハムが10人でやめずに、もし1人まで食い下がったら、どうだったでしょうか?たった一人でも、神は町全体をお赦しになったでしょう。エレミヤ5:1「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。」と仰っていました。そうすると、このあとロトたちが去った後のソドムには、一人の正しい人もいなかった事になります。

神は正義の神です。が、決して好き好んでお裁きになるのではありません。むしろ出エジプト記34:6に「・・・「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、・・・」とあるように、怒るのにおそい、ギリギリまで忍耐される神様であり、できるものなら赦したい、恵みを施したいと願っておられるお方です。むしろ、赦せる理由はないか、恵みを施せる理由がどこかにないかと探し求めるお方だと思います。神は人を愛しておられますから。絶望的なほどに堕落しても、どこかに良いところがないか、探すのです。そしてもし地上の人々の中に赦せる理由を見つける事ができなかったら、一人の義人も見つけることができなかったら、どうするか。神様は、ご自分でその理由を作り出そうとされました。すなわち、神の御子が地上にくだられ、人となって、神の前に文字通り完全な正しい人となって下さったのです。そして私たちの罪を身代わりに背負って、十字架上で贖いの御業を成し遂げて下さいました。罪の呪いのもとに閉じ込められ、滅びる運命にあった全世界を、神が赦す事ができるために。イエス・キリストは、ご自身のきよいいのちを犠牲にして、赦しの根拠となってくださったのであります。

<もしキリストが私たちのために執り成して下さらなかったら、、、。>
アブラハムが、滅びようとしていたソドムの町のために熱心に執り成す姿の向こう側には、世のために執り成しておられるキリストのお姿が透かし模様のように、映し出されているように見えます。執り成す姿というのは、キリストの似姿のもっとも中心的な要素の一つでしょう。主は、私たちがお互いに執り成しあう群れである事を望んでおられると思います。その姿自体が、神の目に麗しいものでしょう。また、執り成しの祈りの厚い群れは、サタンの攻撃に対しても強い防御力を持つものとなるでしょう。もちろん世の中の人々のためにも執り成す群れである事も、主は願っておられるでしょう。

しかし率直に言って、執り成しの祈りに心を注いで祈るという事は、簡単な事ではないように思います。執り成すよりも、裁きたくなる気持ちが出てくる事はないでしょうか。あるいは自分とは関係のない事と門前払いしてしまう事がないでしょうか。そして自分の冷たさにあきれてしまう事がないでしょうか。執り成しの祈りは、執り成す心から生まれるものです。クリスチャンかどうかに関係なく、生まれつき同情心にあつい人がいると思います。そういう人は、試練にある人のために、我が事のように祈る事ができるかもしれません。しかしそれほどでもない人はどうしたらよいのでしょう。どうしたら執り成す心に変えられるのでしょうか。解決策の一つは、キリストが自分のために執り成して下さったおかげで、自分は永遠の滅びから免れ、神の子とされたという事実を思い巡らす事ではないかと思います。もしキリストが、私のために執り成して下さらなかったら、自分も神の裁きを受け、永遠の滅びに行く運命だった。私たち人間が罪のゆえに滅びる事を、キリストがご自分とは関係のない事と遠くで眺めるだけで、かかわらないでおこうと思われたら、私たちは救われなかった。キリストは何の義理も義務もないにもかかわらず、私たちを憐れみ、私たちのために執り成そうと思われ、しかもご自分のいのちを十字架に渡してまで執り成して下さいました。

キリストの執り成しがなかったら、滅んでいた!その事がわかると、自分も他の人のために執り成そうという気持ちに自然と変えられていくのではないでしょうか。自分自身が執り成しの恩恵に身をもってあずかった体験を持つ者は、他の人にも同じようにしたいという気持ちを持つものです。執り成しは、してもしなくてもいいが、できたらすばらしい、というようなオプションではなく、執り成しを必要としている側にとっては、切実な事なのだと思えるのではないかと思います。
執り成しの祈りを続けるのは、忍耐のいる事です。時には、執り成した相手から牙をむかれたりする事も、もしかしたらあるかもしれません。そんな時は十字架の釘が我が身に食い込むように感じるかもしれません。しかしそれは、いっそうキリストのお気持ちをわからせて頂く機会ともなり、キリストのお心の近くに引き寄せられる機会ともなるのでしょう。

では執り成しの祈りは、どのように祈ったらよいのか。もちろん、具体的な助けを今、必要としている人、特別な神の助けを必要としている時は、そのために祈りますが、一般的な原則として参考になる事が、コロサイ4:12にあります。

あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。

完全な人となるように、そして神のすべてのみこころを十分に確信して立つ事ができるように、という祈りです。「完全な人になるように」とは、別な言葉で言えば、キリストの似姿に変えられていくようにという事でしょう。もちろん自分自身の事も含めてこう祈る必要があります。そんな大それた事を、、、と思ってしまいますが、言うまでもなく、一足飛びにではなく、徐々に、徐々に、であります。まあ、実際には、徐々にどころかむしろ後退しているように感じる事さえあるかもしれません。しかしこの方向性を忘れない事は大切です。有名なローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださる事を、私たちは知っています。」という聖句も、その後に続く節を読むと、この方向に向かって益とされるという趣旨である事がわかります。

そして、おそらくその方向性をおさえた上で、それぞれの置かれている状況において、「神のすべての御心を十分に確信して立つことができるよう」にという祈りが続きます。「すべての御心」を「十分に」と言います。キリストの似姿に造りかえられるためという方向性があるからと言って、すぐにすべてが解決するわけではない。試練の中にある人の、一つ一つの痛みや苦しみには、その時には神にしかわからない深い意味がある場合があるのでしょう。それが時間をかけて少しずつ、明かされていく。明かされるだけでなく、その一つ一つの痛みが癒され、苦しみを乗り越えて行くには、多くの時間が必要です。そこに執り成しの祈りによって支えられる必要があります。自分では祈る事もできない場合も少なくありません。

キリスト教に対する厳しい弾圧のなされている国の兄弟姉妹のために祈る時、彼らをお守り下さい、必要を満たして下さい、迫害が止み、自由に信仰をあらわせるようになるように、などとももちろん祈ります。しかしそれとともに、彼らが主への愛を貫き通す事ができるよう、信仰を全うする事ができるよう、御霊の助けをお与え下さい、とも祈る事も忘れてはならない祈りです。

ブルース・ヤング師のためにもお祈りをお願いしていますが、ヤング師自身もALSという病の癒しではなく、この状況の中で福音をあかしするという自分の召しに忠実に応えられるように祈って欲しいと願っておられます。その目的のために、今の状況も有益なものとして与えられていると確信しておられます。確信しているとはいえ、それは戦いがないという事ではありません。長い時間をかけて、少しずつ衰えて、死に至るという病です。苦しみ、恐れ、不安、さまざまな感情が襲ってくるでしょう。その戦いの厳しさを予想しているからこそ、ヤング師も、自分のために祈って欲しいと言ってこられたのでしょう。

祈って何になる、という人もいます。しかし御心にかなった祈りは、確かに力があるのです。私たちの祈りなしでも、主は御心をなさる事がおできになりますが、そんな冷たい、関係ではなく、私たちの祈りを用いて事を行われる事を主は喜ばれるし、特にしつこい祈りが聖書ではあちこちで勧められています。私たちを愛しておられる神様は、私たちとの血の通った祈りの交わりを喜ばれるのでしょう。そして私たちが執り成しの祈りをもって主に願う時、主はその兄弟愛、隣人愛のわざを喜ばれ、心動かされてくださるのかもしれません。そういう意味で、祈りの援護射撃は、私たちが思っている以上に力のあるものなのかもしれません。