礼拝説教要旨(2020.01.12)  
神の国のリアリティ
(創世記18:16-21) 横田俊樹師 

今日の説教題は、「神の国のリアリティ」と、私としてはイマイチなものとなってしまいました。なるべく横文字と言いますか、カタカナは避けて日本語で言いたいんですけれども、なかなかピッタリくるのがなくて、こんなふうになってしまいました。どういう事かと言いますと、クリスチャンは、信じた時から神の国に生活してると言うけれども、なんかこう実感がわかないなあ、という事はないでしょうか。で、ああ、本当に私は神の国に生活しているんだ、と実感できるような信仰生活とは、どういう事か、という事を、今日はお話ししたいと思います。
 では、お手元の説教要旨の「今日の要点」という所を読みたいと思います。

<今日の要点>
私たちの愛する神は、正義の神。神の国のリアリティは、正義を行なう事のうちにある。

<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
前回、三人の旅人、実は受肉以前の主ご自身と二人の御使いは、アブラハム夫妻にいよいよ来年の今頃、待望の子が与えられると、時期を明示して約束をくりかえされました。最初はそんな馬鹿なと心の中で鼻で笑ったサラも、主にその不信を責められると、今度は恐ろしくなりました。しかし後になって思い巡らしてみて、そのように心の中までお見通しのお方、主ご自身が約束の成就を予告されたのだと気づいて、自分の不信仰を悔い改めるとともに、感謝と喜びに満たされた事でしょう。御心にかなった悔い改めは、その時は悲しくても、後に喜びをもたらすものです(参照:第二コリント7:10、ヘブル12:11)。

さてアブラハムから心づくしのもてなしを受けた三人は、そこからソドムを見おろす方へ上っていきます。ソドムと言えば、物質的には繁栄していましたが、倫理、道徳の腐敗ぶりは目に余るものだったという悪名高き町です。そこには甥っ子のロトが住んでいました。アブラハムは道案内がてらか、もしかしたら何か不吉な予感がしてか、途中まで彼らと連れだって歩いたと言います。主の使いの方が、なにゆえ人の姿を取って、それも三人もここに来られたのか?これまでは主が何かお語りになる時は、お声だけで直接お語り下さったのに。それにこのまま天に帰られる様子もなく、どうやらソドムを見おろす方へ行かれるよう。それも何やら真剣な顔つきで、、、。彼の不安は的中していました。主は、あまりにもひどい堕落腐敗のため暴虐で満ちていたソドム一帯に裁きを下そうとしていたのです。

そんなアブラハムの心配を汲み取られてか、主もまた、これからソドムに裁きを下そうとしている事を、アブラハムに隠しておくべきだろうか、と考えられたとあります。これから起こる事が単なる自然現象ではなくて、ソドムに対する神の裁きである事をあらかじめ、ハッキリと示しておくべきという事でしょうか。神は正義を行われる方、全地を正義をもって裁かれる方であり、正義と公正を踏みにじるならば、必ず裁きを身に受ける事になると、アブラハムがハッキリとその目で見る必要があったのかもしれません。というのは、主がアブラハムを選び出したのは、彼が子へ、子がまたその子へと子孫代々、主の教えを守るよう教え、彼らがこの地で正義と公正を行うため、そのようにして神が支配される神の国が地上に実現するためだったのです。

それで主はアブラハムにソドムとゴモラ(近くの町、同様にひどく堕落腐敗していた)の罪があまりにもひどいため、にわかには信じがたいとでも仰るかのように、天に届いた叫びがその通りかどうかを確かめるために来たと告げました。聞いてもそれが現実の事とは到底信じられないほどのそのおぞましさだったのでしょう。勿論神様は全知でいらっしゃいますが、これは擬人法でそれほどひどい状態だったという事です。

不法がはびこる時、犠牲となる人たちが出る。しかし、その虐げられた人々の叫びは、むなしく空中に消えてしまう事は決してない。ここに信仰が必要とされるでしょう。本当にそうなのか、神はおられるのか、悪を裁かれる正義の神はいるのか、、、。こういう所で、目に見えない事を信じる信仰がものを言います。神は正義の神です。正義を行わずには決しておかない。彼らの叫びは確かに天に届いています。その叫びを聞いておられる方が確かにおられる。この事を知らずに悪に手を染める者は、自分の身に裁きの薪を積み上げているのです。

裁きには時があります。神は、ある所までは忍耐をもって待たれるがけれども、ある所まで達すると、全面的な裁きに向かわざるを得なくなります。だがそれでも神は、怒りにまかせて十把一絡げに裁きを下される方ではない。その前に、一縷の望みを託してというべきか、一人でも二人でも悪から遠ざかって良心を保ち、心を痛めている人がいないか、ご自身、地に降りて自分自身の目で確かめてみたいというお気持ちもあったのではないか、と思います。主の言葉を聞いたアブラハムはこの後、ソドムの住人のために、特に甥っ子のロトのためにであろうか、必死で主にとりなします。

<私達の愛する神は、正義の神。神の国のリアリティは、正義を行なう事のうちにある>
19節の主の言葉に注意を向けたい。主がアブラハムを選ばれたのは、彼が子孫代々に命じて主の道を守らせる事、正義と公正とを行わせるためであるという。これは神の国の本質です。

私たちの愛する神は、正義の神であるという点を心に留めたい。私たちの神は、不義や不正を喜ばれる方ではない。神の国が完全に成就するのは世の終わりの時ですが、同時に、今、すでに悔い改めてキリストを信じ、キリストを主と告白している私たちの心、私たちの生活、家庭、そして私たちが集う教会も、キリストがご支配くださる神の国として、神におささげすべき場所です。キリストは愛と恵みとともに、正義と公正とによってご自身の民を治めるのです。

ところで、聖書の言う正義とは、もしかしたら多くの人が考える正義と違う面があるかもしれません。マタイの福音書の6章でイエス様は、当時行われていた「善行」について教えておられる。ここで新改訳「善行」と訳されている語は、普通は「義」と訳される語(ディカイオシュネー)で、口語訳は「義」と訳しています。そして義のわざとして、施し、祈り、断食の三つについて教えられています。「施し」つまり貧しい人を顧みる事は、義の行いの一つなのである。してもしなくてもいいけど、善意でやってあげたという事でなく、なすべき正しいわざなのである。また「施し」について、新聖書辞典(いのちのことば社)に次のような説明がある。「(施しをあらわす)エレエーモシュネーは「あわれみ」「同情」の意味があるが、特に貧者に対し金銭や親切を施し救済せずにはいられない慈善を表す.旧約聖書では,律法により,貧者への心遣いが命じられている。」あわれみとか同情とかいうと、時に上から目線と言われる事があるが、そういう事ではなく、自分がもしその立場だったらどうだろうと考えたら、いてもたってもいられない、何とか助けなければと思う、そういう事だろう。つまり「自分がその立場だったら、、、」という視点、自分をその当事者の身に置いてみるという事である。これが、イエス様が最大の戒めと教えられた「自分と同じようにあなたの隣人を愛せよ」という事なのだろう。神の義を体系的にあらわす律法や戒め、そのすべての戒律の根底に流れている最も大切な戒めは、隣人愛である。(参照マタイ22:35-40,ローマ13:8-10,ガラテヤ5:14)正義と公正は、隣人愛にかなった事。正義と公正に反するとは、隣人を害する事です。

その上で、改めて思い返すと、旧約聖書にも正義を求める御言葉がたくさんあります。以下にいくつかを列挙しますが、神がいかに正義が地上で行われる事を熱く望んでおられるか、汲み取っておきたいと思います。
詩 11:7 【主】は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。
詩 23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
詩 103:6 【主】はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。
箴 21:3 正義と公義を行うことは、いけにえにまさって【主】に喜ばれる。
箴 21:15 公義が行われることは、正しい者には喜びであり、不法を行う者には滅びである。
イザ 1:17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。
イザ 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。
イザ 30:18 それゆえ、【主】はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。【主】は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
イザ 42:1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
イザ 42:3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
イザ 42:4 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
イザ 48:18 あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。
イザ 56:1 【主】はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ。」
エレ 9:24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──【主】の御告げ──
エレ 22:15 あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福だった。
アモ 5:24 公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。
 
 また義人ヨブも、社会的弱者と言われる人たちのために力を尽くして助けた。ヨブ記29:12-17を以下に引用します。
・・・それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。 死にかかっている者の祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。私は目の見えない者の目となり、足のなえた者の足となった。私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。 私はまた、不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。
 聖書の言う義とは、こういうものなんですね。ある法律を勉強している大学生が、旧約聖書の律法を読んで、聖書の律法は愛に満ちていると感想を述べたといいますが、その通りです。

私たちも自分のできる範囲で、足もとからキリストの義を行うものでありたいものです。正義と公正と言って、何も大げさに考える必要はありません。自分のできる範囲で助けを必要としている人の助けとなる事。また自分自身の事に関して言うならば、感謝すべき人に感謝し、謝るべき人に謝るという事も、身近で大切な正義を行う事でしょう。「ありがとう」「ごめんなさい」こういう言葉が聞かれる場所ほど、キリストの恵みが溢れているように思う。奥さんに対して、夫に対して。あるいは子供に対して。謝るべき事があるならば、謝って赦しを乞わなければいけません。それが正義と公正を行うという事でしょう。自分の詰まらないプライドやメンツのために、正義をゆがめて、抑えてつけていてはいけません。ありがとうと言うべき相手には大人子ども関係なく言い、ごめんなさいと謝るべき相手には、正義を流れさせるため、正義をせき止めてしまわないように、ちゃんと言う。また、それぞれ与えられている賜物(目に見えるもの、見えないものあわせて)をキリストの御心に従って管理し、活用する。それに人に対して寛容である事。ネガティブな事としては、自分を正当化するために人をおとしめたり、うそを言わない。その他、あらゆる不正、不義、偽り、悪口、陰口等々、キリストが忌み嫌っておられる事から離れる事などです。

アメリカの方のある牧師さんのお話です。その方が、ある日の夕方に集会で話す事になっていたのですが、心に余裕がなくてちょっとイライラしていたそうです。牧師も人間ですね。それで中学生くらいでしょうか、娘さんに、不必要に、不適切に、大きな声を出してしまったそうです。それでその時、娘さんはとても悲しそうな顔をしたそうです。牧師さんの方もその後、何だか平安がなくて、心にとげが刺さったみたいで、苦しい感じがしました。それで娘さんのところに行って、さっきはあんな大きな声で怒鳴ってしまってすまなかった、と謝ったのだそうです。すると娘さんも顔がぱっと明るくなって、赦してくれたそうです。そうしてその牧師さんも平安を取り戻しました。神様の義を通す、自我を十字架につけて正義を通す時に、本当の平安が回復するのでしょう。

そこには戦いがあります。というのは、私たちの内には罪の性質が残っていますから。頑固で執拗で手強い。何度も挫折し、転んでは、嫌になって投げ出してしまいたくなる時もあります。忍耐のなさを恥じ入るばかりであす。しかしそんな者をもキリストは忍耐して、支え、義の道に導こうと、取り扱って下さっています(詩23篇)。

信仰者の歩みは、地上では日々、悔い改めである、という事をしっかりとわきまえておきたいと思います。同時に、悔い改めは恵みである事も忘れないように。悔い改める時に、キリストの十字架の御業を同時に覚えるので、悔い改めはキリストの愛を覚える最も適した機会でもある。これによって、ますますキリストの犠牲を伴った愛を自分の事として実感する事ができるでしょう。「あなたの、その罪のために、わたしは十字架にかかったのだよ。」という主の御声を聞く耳を持っていたいものです。そう思うと、悔い改めを拒む事は、キリストの十字架を拒んでいる事とも言えるかもしれません。そして、キリストの十字架のもとで悔い改めの祈りを捧げる時に、悔い改めはキリストの愛ゆえに喜びの時となり、そこから感謝と賛美が生まれる。そしてキリストに従う事ができるようにと、御霊によって心を造り変えて下さいと祈り、御霊の力により頼む。この歩みを続けていく中で、私たちの心はキリストとますます親しく結び合わされ、その結果、私たちの心が少しずつ少しずつ造り変えられて神のかたちが回復し、それによって私たちを通して神の栄光を現すという目的に至ります。もちろん、徐々に徐々に、です。