『第三部 感謝について:祈りについて 第46主日
問120 なぜキリストはわたしたちに、
神に対して「われらの父よ」と呼びかけるように
お命じになったのですか。
答 この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、
わたしたちの祈りの土台となるべき、
神に対する子どものような畏れと信頼とを、
わたしたちに思い起こさせようとなさったからです。
言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、
わたしたちの父親たちがわたしたちに地上のものを拒まないように、
ましてや神は、わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを
拒もうとなさらない、ということです。
問121 なぜ「天にまします」と付け加えられているのですか。
答 わたしたちが、神の天上の威厳については
何か地上のことを思うことなく、
その全能の御性質に対しては
体と魂に必要なことすべてを期待するためです。
私たちクリスチャンにとって、「感謝」をもって神に近づくための「祈り」について、「だから、こう祈りなさい」と、イエスご自身が「主の祈り」を教えて下さった。そこには、祈りの祈りたる中心が明らかにされている。ハイデルバルク信仰問答の最後の部分は、その「主の祈り」についての丁寧な問答である。よく耳を傾け、祈りの真髄を学ぶことが導かれるなら幸いである。
1、主の祈りの冒頭は、新改訳聖書で「天にいます私たち父よ」と訳されている。多くの教会で共通する訳語は、「天にましますわれらの父よ」であるが、日本語訳は、いずれも「堅苦しさ」を感じる。原文は、幼子が父親を呼ぶ時に使う言葉の「父よ」で、神に呼びかけるよう主イエスは命じられた。「私たちの父よ」でなく「われらの父よ」でもなく、先ず「父よ」と呼び、「私たちの」はその後に続く。日本語の「父よ」には、どうしても堅苦しさがついてまわるが、本来は、アラム語の幼児語「アッバ」「父ちゃん」と呼んで祈るように教えて下さった。「この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようてなさったからです。」私たちの祈りは、単なる願望を独り言のように繰り返すものではない。神を父として信じる者は、神を畏れ敬うからこそ、この方に信頼して、自分の思いを申し述べることができるので、それは、幼子の心をもって祈ることができるということである。そのようにして神に近づきなさい、そうしてよいのだ!と、主イエスは言われた。徒に恐れることなく、また打算やへつらいもなく、ただただ近づいてよい!と。
2、そのようにしてよい根拠は、「神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親たちがわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神は、わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとなさらない、ということです。」私たち人間は、最初の人アダムにおいて神に背いて堕落した存在である。自分からは決して神に心を向けることはしないため、神に立ち返ることはできない者である。けれども、キリストを信じ、キリストの十字架の血潮によって罪を赦されることによって、神の子とされるのである。「神がキリストを通してわたしたちの父となられ」ることは、この救いの恵みを指している。私たちがキリストを信じているなら、またキリストに在るなら、神を父として仰いで、「アッバ、父ちゃん」と親しく近づくことができる。幼子であればあるほど、父親また両親の愛を疑うことはない。全幅の信頼を寄せて近づくものである。祈りの根拠、また土台となるのは、神に対する子どものような畏れと信頼なのである。心を騒がせることなく、どんな時も、どんなことでも、信頼して神に近づきなさいと言われているのである。
3、「天にまします」と付け加えられているのは、「わたしたちが、神の天上の威厳については何か地上のことを思うことなく、その全能の御性質に対しては体と魂に必要なことすべてを期待するためです。」と言われる。私たちの思いは、いつも地上のことばかりで、何が大事で、何を優先すべきか、一番大事なことは後回しになっているので、私たちの心を、地上から天上へと向けるように命じられている。すなわち、私たち人間が祈る時、実際にこの地上の事柄にのみ、心が奪われている事実を思い知らされる。日々の思い煩いは底なしである。父なる神が、全知全能と知っていても、今日のこと、明日のことに心を奪われている。「そうは言っても・・・」「分かってはいるけど・・・」とか、言い訳ばかりに振り回される。私たちは、全能なる神が、父として私たちを見守って下さっていることを、決して忘れないようにしなければならない。ようするに、子どものように神を父として信頼していないことが多い。いつも目の前のことで、心を騒がせている。この世の栄誉や利害ばかり、また目先の平穏を求めて祈っている。しかし、私たちの体と魂に必要なことは全て、神は御存知である。その神の御手の守りは絶大である。目も心も天を仰ぎ、父なる神の守りを信じて祈ることが導かれるように。
<結び> 年の始めのこの国、この日本の社会現象は、いつになく「祈り」が溢れる状況である。何を祈るのか、誰に祈るのか、実に曖昧なまま、数日を過ごし、今週から日常に戻るようである。一年ごとに「けじめ」をつけることによって、思い新たに立ち上がるのはとても大事であろう。もし、それぞれが導かれる決意や期待が膨らむことを祈るなら、イエス・キリストを信じる私たちは、主に在ってこそ、思いを新たに祈り、心を新たにさせられるように。礼拝において「主の祈り」をささげる時、全能の神を父として仰ぎ、一層、畏れを信頼を込めて祈ることが導かれるように。地上から天上へと心が向けられ、神への信頼が増し加えられるように。何よりも幼子の心をもって祈ることが導かれるように。つたなくても真実な祈りこそ、神は聞き入れて下さるからである。人は賢さや強さに惹かれるとしても、幼子の心で祈る人にこそ、主は御手を伸べて下さることを忘れないように。
「・・・まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。・・・」 (マルコ10:13-16)
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