礼拝説教要旨(2019.12.22)  
神がなさる不思議 
(マタイ 1:18〜25) 

 今朝、クリスマス礼拝をささげるため、主の御前に私たちは導かれた。普段の主の日の礼拝が、私たちにとって喜びであり、感謝なひとときであることはもちろんのこと、クリスマスを祝う礼拝の喜びは格別であることを、先ず一同で感謝したい。私たちの罪を赦すためにこの世に来られた御子、その御子のお生まれの出来事は、私たち人間の思いを超えたものである。その一コマ一コマを心に刻むことによって、私たちの喜びは一層大きく、豊かなものとなる。この世の出来事には、嘘や偽りがはびこって、醜くさが増している。一体どこに真実があるのか、はなはだ危うい。世界は明らかに破滅に向かっていると気づきながら、それでも富の追及を止めようとしない現実がある。そんな中で、クリスマスが必ず巡って来るのは、私たちの生きる原点を、見つめ直すよう迫られる思いがする。今年も最初のクリスマスの出来事に目を留めてみたい。そこには、「神がなさる不思議」が溢れていると、はっきり覚えたい。

1、最初のクリスマスの出来事は、マタイとルカの福音書に記されている。マタイの福音書は、冒頭に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と記して、以下、アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン移住まで、そしてバビロン移住からキリストまで、系図を十四代ごとに区切って、神の救いのご計画は、約束の通り実現していることを告げようとする。その上で、「イエス・キリストの誕生は次のようであった。・・・」と記している。今日、多くの人がクリスマスの話は知っていても、それは単なるお話で、おとぎ話か子どものお楽しみに語られるもの、それ位のものと思っているのかもしれない。実際に巷のクリスマスは、プレゼントかケーキに集中し、キリストの誕生は二の次である。その理由の一つが、「処女降誕なんて有り得ない」というものかもしれず、クリスマス物語は科学的な現代人にはなじまない、と言うことなのかもしれない。「処女降誕」だけでなく、「飼葉おけの幼子」と「羊飼いたちへの御使いの知らせ」、そして「星に導かれた博士たちの登場」や「エジプトへの逃亡」は、物語としては成立しても、本当かどうかは疑わしいと言い切って、「キリストの誕生」という中心を忘れるのかもしれない。

2、けれども、科学的な思考は、私たち現代人だからできるというものではない。およそ二千年前、キリストが生まれたローマ帝国の時代においても、人々は十分に科学的な思考や思索を身に着けていたことを、見落とすことはできいない。その当時の人々も「処女降誕」については、常識的には有り得ないこと、そんなことを認めることはできないと、なかなか受け入れられない事柄であった。だからこそ、マタイの福音書は(もちろんルカの福音書も)、その事実をわざわざ書き記したのである。「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」(18節)この事実は、マリヤ本人にとって一大事であり、ヨセフにとっても、どうしたものか・・・と、大いに悩み苦しむことになった。マリヤ自身は、ルカの福音書に記されているように、「神にとって不可能なことは一つもありません」と御使いから告げられ、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と語って、神に信頼することができたが、ヨセフにはどう話してよいのか、戸惑う日々を過ごしていた。ヨセフの苦悩は、いよいよ深まっていた。(ルカ1:26〜38)ようやく彼なりに答を出した時、御使いがヨセフに、安心してマリヤを妻として迎えるようにと告げた。マリヤの胎の子は聖霊によると、はっきりと知らされたのであった。(19〜20節)

3、ヨセフには、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」とも告げられた。(21節)彼は、神を信じていた。また神の前に自分の罪を認めて生きる、そのような人であった。マリヤをさらし者にしたくないと考え、マリヤの最善を願うことのできる人で、神を恐れる「正しい人」であった。幼子の誕生は神の御業であるなら、そのために自分のできることをしようと心を決めることができた。眠りから覚めたヨセフは、「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(24〜25節)ヨセフはマリヤを支え、そうすることによって、神の言葉に従った。神がなさる不思議を受け入れ、神に仕えたのである。ヨセフが神を信じて従ったことの中心に、「イエス」という名の男の子について、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と告げられたことが、心に響いたものと思われる。「罪からの救い」は、人間の力では不可能と知っていたので、聖霊によってマリヤの胎に宿った男の子を、罪のない方、罪からの救い主と信じたものと思われる。自分の罪を知る者、罪を認めて悔いる者は、必ずや罪からの救いを願う者となるからである。(※罪を認めない者は、罪からの救いの必要に、決して気づくことはない。)

<結び> 私たちは、今朝、この礼拝に集い、神がなさる不思議に目を留めるよう導かれている。「処女降誕なんて信じられない」と退けるのでなく、かえって、そこまで確かな御業として、罪からの救い主がお生まれになったことを、心から感謝し、喜びをもって賛美をささげ、また祈りをささげたい。礼拝に集う私たち一人一人と、いつでも、どこにいても、神が共にいて下さるために、「インマヌエル」と呼ばれるお方として、御子はお生まれになられたのである。しかも、その出来事は、旧約聖書の預言の成就として、確かなこととして起こっていた。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(22〜23節)クリスマスの出来事には「神がなさる不思議」が溢れている。預言の成就しかり! またベツレヘムでの誕生しかり! 飼葉おけに寝かせられたみどりごしかり! 羊飼いや博士たちの礼拝!! それらの「不思議」はみな、確かな神の御業のしるしである。そのことを忘れずに、幼子のイエスを拝するクリスマスを過ごせるように。
(※イザヤ9:6〜7)