先週22日にクリスマス礼拝をささげてから一週間、2019年最後の主の日の礼拝である。いつものことであるが、クリスマス後に迎える礼拝は、私にとって気持ちの整理をするのが難しい。25日が日曜日の時は、次は元旦が主の日となる。世の中は、クリスマスは終わり、次は正月という空気の中で、クリスマスの余韻を失いたくない・・・と強く思う。今年のように、もう一度主の日を迎えられるのはとても感謝なことで、今朝も「神がなさる不思議」に目を留めてみたい。私のこだわりは、クリスマスは終わった! 次は正月で、何もかも新しくなるわけでなく、生きておられる神の前に、私たちは心を探られ、生き方そのものが、いつ、いかなる時にも問われていることを、決して忘れないようにしたいことにある。クリスマスを大喜びする者は、キリストにお会いして、生き方がすっかり変わった人のはずである。世界観や人生観が、百八十度転換したはずだからである。もしも忘れていたり、見失っているなら、主によって、心を探っていただきたい・・・、そんな思いで聖書を開きたい。
1、マタイの福音書が記す最初のクリスマスの出来事は、2章1節以下、東方の博士たちの登場となる。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」(1〜2節)彼らの旅の目的は、ユダヤ人の王を拝することにあった。王としてお生まれになった方は、自分たちにも関わりのある方、万難を排しても礼拝をささげる価値のある方との理解が、彼らをしてエルサレムにまで旅をさせることになった。単なる表敬訪問でなく、その方を拝したい、その方に全くひれ伏したいとの思いがあったのである。博士たちは、ヘロデ王がどのような王で、「王の誕生」と聞いてどんな行動に出るのか、知らないわけではなかったと思われる。それでも、新しい王の誕生について告げ、事実を知りたかったのは、地上の王の顔色を窺うより、真の王がおられるなら、その方を拝したいと強く願ったからである。私たちが主の日ごとに礼拝をささげる時、そこまで覚悟しているだろうか。そんな礼拝の心が探られる思いがする。
2、ヘロデ王は、王の誕生に怯えたが、その心は隠して、民の指導者たちから、「王」すなわち「キリスト」の誕生の地を問いただした。その地は「ベツレヘム」と聞き出して、博士たちをベツレヘムに送った。その時、不思議な星の出現の時間を突き止め、「『行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。』」と言った。(3〜8節)王もまた「私も行って拝むから」と言葉に出していた。けれども、王の誕生を恐れた割には、この時、まだ事柄を受け留めてはいなかったと思われる。半信半疑で、本当かどうか分かったわけでない・・・と、余裕を見せていたのであろう。「拝むから」の言葉には、何らの本気さもなかった。他方、博士たちは本気であった。彼らの本気の心を神は知っておられた。「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(9〜10節)王を拝したい、礼拝したいと旅をした博士たちを、神ご自身が導いておられた。神はご自身に近づく者を、必ず受け入れ、励まし、導いていて下さるのである。
3、「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(11節)幼子のイエスを見た博士たちは、「ひれ伏して拝んだ。」理屈抜きの喜びがあり、幼子を王なる方と受け留めてひれ伏している。その王にお仕えする心を、宝の箱をあけての贈り物に込めた。「黄金、乳香、没薬」は、いずれも高価な宝に相応しい品で、彼らはそれらを用意して、幼子の前に出ていた。私たち自身の礼拝は、果たしてどのようなものなのかと、博士たちの姿から問われる思いがする。「宝の箱をあけて」との記述が、いつも心にかかる。記されているのは三品である。他にもあったと思われ、宝の箱の物は全てささげたのではないだろうか。もし何か惜しむ物があったなら、そのささげものは、どうなのか・・・。これも、私たち自身のささげもの、そして礼拝の心が問われることである。そして博士たちは、夢でヘロデのところに戻るなと戒めを受けたので、「別の道」から自分の国に帰って行った。この「別の道」との記述には、キリストを「王」として拝した者は、その礼拝を境に生き方が変わること、人生の大転換があることが込められている。
<結び> このことは、クリスマスの出来事を通して、改めて私たちの心が問われる大切な事柄である。キリストにお会いする前と後で、もしほとんど何も変わりがないなら、それは大問題である。それは日頃の礼拝に関しても言えることで、礼拝をささげて家に帰り、ただ日常に戻るだけなら、それは注意しなければならない。はるばる礼拝の旅を続けてエルサレムに来た博士たちであった。その旅はエルサレムで終わらず、ベツレヘムにまで導かれ、ようやく幼子のイエスをひれ伏して拝することができた。時間にして、一年半から二年がかかっていたと思われる。また宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。私たちも礼拝に導かれて、献金をささげ、自分自身を神にささげることを導かれている。全き献身の心が込められているかどうか、今朝、自己吟味することができるように。信仰の成長の鈍さを思い知らされるかもしれない。一歩でも二歩でも前進する歩みが導かれるよう祈りたい。また成長の鈍さを嘆くことが多いとしても、いつも心の中を見ておられる神の前に、真実であるよう心したい。一人一人が神の前に誠実であり、真実であり、熱心であることが求められている。私たちにとって大事なことは、心から神を愛し、隣人を愛すること、互いに愛し合う交わりの中で、神を喜ぶことである。今年度の主題聖句は来年3月一杯続くものである。今朝もう一度、しっかり心に留めることができるように。
黄金:さびず、黄金色の光沢を保つ金属。富の象徴となる。
乳香:かんらん科の植物の樹脂(乳白色)。高級香料として使われる。香りを神にささげるように使われる。
没薬:かんらん科に属する植物の樹脂、通経薬、健胃薬、うがい薬として使われた。強い殺菌力と芳香があり、オリーブ油に溶かした香油として化粧品や皮膚薬として用いられる貴重品。
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