以前、ある教会で、95才でキリストを信じ、洗礼の恵みに与った姉妹が、その心のうちを詠まれた歌がありました。「人間に 死に花咲くと言うがあり 神の恵みのいかに尊き」人間には死に際に花を咲かせるという言葉があるけれども、九十五才にもなって洗礼に与らせてくださった神様のお恵みはなんと尊いことでしょう、と神様への感謝の思いを歌っておられるのだと思います。それに対してそこの牧師さんは返歌を詠んで送ったそうです。「青丹よし−これは枕詞ですが−青丹よし 奈良の都もなんのその 九十五才の花盛りなり」と95才で洗礼を受けられて、死に花ではなくて、今花盛りではありませんか、と返されたのです。確かにパウロも「たとい私達の外なる人は衰えても、内なる人は日々新にされています。」と言っています。永遠の御国に向かわせる神様の恵みは末広がりなのであって、決して尻すぼみであるはずはありません。むしろ体力的には全盛期を過ぎ、目に見える力は衰えてきたとしても「見えるところによらず、信仰によって歩む」という信仰の力は、こうした老聖徒においてこそ、よく発揮されるのでしょう。「見えるところによらず、信仰によって歩む。」この事を私達に教えるのに、神様は血気盛んで勢いに任せてバリバリやってしまう若い信仰者によってではなく、99才になったアブラハムと89歳のサラによって教えようとされました。
<今日の要点>
神は、全能の御力を、信じる私たちの内にも働かせてくださると信頼する。
神の全能の御力は、信じる者の内に働かせて下さる。年は関係ない。若くても年を取っていても、信じる者の内に働かせてくださる。男でも女でも、健康な人でも病の人でも、金持ち、貧乏関係なく、条件はただ一つ。信じる者の内に、神はご自身の全能の御力を働かせて下さる。信仰が、神の力が働かれる唯一の管であります。その管の通りをよくしましょう、という話です。いろいろ詰まってるものがあるものなので、信仰という管の通りをよくして、神様の全能の御力を、宝の持ち腐れにしないように。そしてその神様の全能の力を、他でもない、私たちの内に、心に、魂に、働かせていただきましょうという事です。
<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
ではまずいつものように、最初に先ほど呼んだところのあらすじです。
今日の所は、前回の17章の出来事から間もない頃の事と思われます。1節を見るとアブラハムは、マムレという場所の樫の木のそばに天幕を張っていて、そこに主が現れて下さいました。「マムレ」は「力強い」の意、樫の木も読んで字のごとく堅牢であり、地中深く根を張る木だという。何か象徴的なものを感じます。神から離れては、私たち自身は弱く、もろいものですが、すべてを治めておられる全能の神のうちに信仰/信頼の根をしっかりと張る事ができるなら、私たち自身は弱くても、その歩みは力強く堅固なものになるという(参照ヨハネ15:4-5)。なかなかそのような信仰にはほど遠くて右往左往するばかりですが、「私たちの信仰を増してください」という願いは、常に持ち続けないといけないなと、このところ改めて思わされています(ルカ17:5)。人生にはいろんな事がありますが、やはり最後の最後、ギリギリのところで物を言うのは父なる神への信頼なのだとつくづく思うこの頃です。今日の箇所は、サラの不信仰ぶりにスポットライトが当たっている観がありますが、私たちも同じではないでしょうか。ここから私たちも一緒に自らの不信仰を悔い改める機会とできたら幸いだと思います。
さて、ある日、アブラハムが日盛りの暑い中、天幕の入り口に座っていました。通常、この時間帯は天幕の中で休む習慣ではないかと思いますが、前回見た主のお告げを思い巡らして、休めなかったのでしょうか。神様は、妻のサラから私の子が生まれると仰った。確かに間違いなくハッキリと。女奴隷ハガルによってもうけたイシュマエルではなく。そのあかしにイサクという名前までお与え下さった。うむ、確かに間違いない。そのしるしとして割礼まで施した。さて、その約束の成就はいつになるのだろうか、、、。今度こそは手応えを感じながら、期待に胸を膨らませて思い巡らしていたのでしょうか。あるいは、もしかしたら、思慮深いアブラハムの事ですから、後々起りそうな問題を見越して頭を悩ませていたのかもしれません。イサクが生まれた後、イシュマエルとの関係が案じられたとか。イシュマエルのあの性格では、イサクをかわいがってくれるかどうか、難しいかもしれない。どうしたものか、、、。アブラハムのこの懸念は不幸にものちに的中して、イシュマエルがイサクをいじめたため、結局彼は大いに心を痛めながら、ハガルと、そしてこちらも我が子であるイシュマエルを家から追い出さなければならなくなったという記事が後に21章に出てきます。
ともかくあれこれと思い巡らしていたところに、ふと目を上げてみると三人の人が立っていました。あとのほうに書かれている事などから、ひとりは主ご自身、あとの二人は御使いだと言われます。彼らの姿をみるやアブラハムは天幕の入り口から大急ぎで走っていき、地にひれ伏して礼をしました。これが当時の単なる習慣なのか、それとも特別な何か神聖なものを感じてこのようにしたのか、わりません。そして足を洗う水を用意するので、この木の下でお休みください、その間に少しばかり食事も用意しますので、ぜひに、、、と懇願するかのように言いました。これはいわゆる「京都の茶漬け」ではなく本心からの言葉です。足を水で洗うというのは当時良く行なわれていた習慣で、熱い石と砂の世界を旅してきた人にとっては、生き返る心地がしたでしょう。三セアの上等な小麦粉のパン菓子も作ったと言います。3セアは約23リットル、一人あたま8リットル弱。一人分として、1リットル入りの牛乳8本分の小麦粉で作ったパン菓子となると、いくらなんでも多すぎるでしょうから、持たせてあげる分も用意しのでしょう。それに仔牛の料理と凝乳と牛乳。凝乳とは牛乳を発酵させたちょっと酸味のあるヨーグルトのようなもので、あちらでは非常に好まれるとの事。そしてアブラハム自身がかいがいしく給仕をしました。これらは当時の最大級のもてなしだったと思われます。当時、宿屋もレストランもなく、飲み水を得るのも一苦労する時代。旅は命がけでしたから、こうして見知らぬ旅人をもてなす事は、最大の美徳の一つとされました。お返しができない通りすがりの旅人に善を行うのは、神様がお返ししてくれる事とされました。イエス様も、お返しできない人に善を行う事は、義人の復活の時に神様がその人に報いてくださると教えられました(ルカ14:14)。地上では見返りなしに、天に宝!と信じ、励みとして、善を行うのも信仰のわざの一つでしょう。
さて食べ終わった頃でしょうか、三人の人はアブラハムに「あなたの妻サラはどこにいるか」と尋ねました。アブラハムが「天幕の中にいます」と答えると、一人が言いました。「わたしは来年の今頃、必ずあなたのところに戻って来る。その時、あなたの妻サラには男の子が与えられている。」待望の告知!来年!主の使いは来年と言った!来年!いよいよ、いよいよこの時が来た!さすがのアブラハムも興奮したのではないでしょうか。最初に神様がアブラハムに現れて、生まれ故郷のウルを出てから24年。24年待って、待って、待ったこの時がついに来た!99歳、白寿のアブラハムと89歳、こちらは米寿を過ぎたサラとの老夫婦に!前回17章で信仰を取り戻していたアブラハムは、素直にこの言葉を信じ、喜んだでしょう。
ところが、妻のサラは違いました。アブラハムから前回の出来事を聞いていたはずですが、冷めた目で見ていました。バカじゃないの?まだそんな事、信じてるの…?何かの聞き間違いか、気のせいにきまってるじゃないの、と。生物学的に、もうそんな事はありえない体になってしまったという事は、サラ自身が一番良く知っていました。もうまったく可能性ゼロの体になってしまったのに、それはありえない。サラは心の中で17:17のアブラハムと同じようにシニカルな笑いを浮かべて、「老いぼれてしまったこの私に子が与えられるなんて、そんな楽しみはありえない。それに主人も年寄りで。」とつい吐き出すように心の中でつぶやいてしまいました。しかし主は、心の中のつぶやきもすべてお見通しです。すぐさま彼女の不信をとがめてアブラハムに言いました。「あなたの妻サラはなぜ、『私は本当に子を産めるだろうか、こんなに年を取っているのに。』と言って笑うのか」と言い、続けて「主に不可能な事があろうか。わたしは来年の今頃、定めた時に、あなたの所に戻ってくる。その時、サラには男の子が与えられている。」ズバリ、名指しで心の中のつぶやきを指摘されて、サラはドキッと息も止まらんばかりだったでしょう。つい「いえ、私は笑いませんでした」と見え透いた嘘が口から出てしまいました。人間相手にはそうシラを切って突っぱねる事もできるかもしれないが、主なる神様相手にそれは通じない。嘘をついてもダメだよ、アブラハムは言い負かせても?わたし相手にそれは通用しない。「いや、確かにあなたは笑った」ととどめを刺されて、二の句の継げないサラでした。
サラは恐ろしかったといいます。こういう恐れも私たち人間には必要です。これはサラを生かす恐れ、不信の心を癒し、信仰/信頼へと悔い改めに導く恐れです。命に至る悔い改めをもたらす恐れです。人はあまりに深く傷つき、自暴自棄になってしまいそうな時、シニカルになってしまっている時、こういう恐れによって留められ、目を覚まさせられる必要があります。こうしてサラの不信の心をズバリ、指摘して恐れを抱かせる事も、主の真実な恵みなのです。後に落ち着きを取り戻してこの事を思い巡らしたサラは、ハッキリとこの方は主である事を身をもって知ったでしょう。そして主を恐れる心を取り戻して、やっぱり主を信じなければ、主を侮ってはいけないのだ、と悔い改める事ができたでしょう。そして、このお方が確かに神様の使いだと言う事は、私に子が与えられるというメッセージも、アブラハムの気のせいなんかではなくて、確かに神様のお言葉だったのだ!私に子どもが与えられるというのは、確かに神様のお言葉だった!こうして、失いかけていた信仰が目を覚まし、それとともに希望の光が射し、力と喜びが回復し始めたでしょう。
信仰(神への信頼)は希望を生み出し、そして希望は力と喜びを生み出します。
<神は、全能の御力を私たちの心に働かせてくださる>
さて、最後に今日のポイントです。神は、全能の御力を、信じる私たちの心に働かせて下さる。この事を覚えたいと思います。13,14節をご一緒にお読みしましょう。
18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。
18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
サラは最初、信じられませんでしたが、それが神様のことばでなかったら、当然です。でもこれは神様の言葉ですから、これは不信の罪と言わざるを得ないわけです。
ただ心情的には同情の余地もあるかもしれません。これまで散々期待してきては、そうならずにきて、ついに可能性ゼロになったという失望感、そこから来る神様への不信があったでしょう。当時は不妊は女性の側のせいと思われていましたから、一番傷ついているのはサラ本人だったでしょう。本当は自分の子が欲しかった。それだけに、信じてそうならないと深く傷つく。だから無意識のうちにか、自分を守るために、信じない方を選んでいたのかもしれません。ですが、神様への真の信頼を持つようになるには、そこを乗り越えなければいけない。二枚腰の信仰と言いましょうか。落胆し、失望させられる時期があっても、そこで信仰を捨ててしまうのでなく踏みとどまり(微妙な所なんですが、しっかり握りしめているというわけでもないけれども、完全に捨ててしまったというわけでもないという感じかもしれません)、そしてやがて時が来たら盛り返し、押し返していく信仰です。時が来たならば、神様がそのようにすべてを導かれます。凍てついた大地に、神様が季節を巡らせて春を訪れさせて、木の枝が芽吹き、草花も芽を出して来るように、神様はひとりひとりの人生の季節も巡らせて、回復の時を用意しておられるのだと思います。
「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見ると、わたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)愛する弟ラザロはすでに死んで四日経っていました。もう手遅れ、と誰もが思いました。ラザロの姉妹、マルタとマリヤは祈ったのに、イエス様にお願いしに人を使わしてお願いしたのに、イエス様が来たのはラザロが死んで四日も経ってからだった。もう腐敗して臭くなっていると思われる時だった。ところが、どうなったか?ラザロが葬られていた洞窟に向かってイエス様が「ラザロよ、出てきなさい」と仰ると、なんと四日前に死んだはずのラザロが生きて、出てきたではありませんか!こうして病人を癒すよりもさらに大きな栄光を現されました。
100歳と90歳のアブラハム夫婦に子を与え、死んで四日経ったラザロを生き返らせた神様は、今も変わる事なく私たちにも全能の御力をもって御業を行われます。では、その神様の全能の御力は、今日、私たちはどこに用いて頂けるのでしょうか。
まず、神様は、深く傷ついた魂を癒すために、全能の御力を用いられると思います。人には神様にしか癒やせない傷があります。新聖歌443番「悩む者よ、疾く立ちて、恵みの座に来たれや 天の力に癒し得ぬ悲しみは世にあらじ」自分の内側を見ている限り、この傷が癒される事など不可能としか思えない。しかし目を天にあげて、全能の神様に目を注いで「神様、どうか私の心を癒して下さい」と祈り、主に触れて頂く事を許す時、主の癒しの御手は伸ばされ、その心に触れて下さるのでしょう。
ただし、癒して欲しいと願えるようになるまでに時間がかかるかもしれません。あまりに傷が深いと癒される事を拒むと言います(マタイ2:18)。もっと嘆いていたい、まだ嘆き足りないという魂の声でしょう。そういう場合はそう願えるようになるまで待つしかない。無理をする必要はありません。むしろ、無理はしてはいけない。すべての事に時がある。しかしそう願える時が来たら、思い切って神様に信頼して、全能の御力をもって癒して下さるよう、祈るべきです。神様は必ずやその魂に触れて下さり、全能の救い主としての栄光を現されるでしょう。
あるいはまた、人を赦すという事に、神様の全能の御力が必要かもしれません。ルカ17:3−6で使徒たちが「私たちの信仰を増してください」と言ったのも、人を赦すという文脈においてでした。これも自分の内側を見ているだけでは不可能と感じられる事かもしれません。しかしこれも、目を天に上げて、主の全能の御力に信頼する時に、主が私たちの心を造り変えて下さるのでしょう。これもそう思えるようになるまでに時間が必要な場合があるかもしれません。主は忍耐深いお方です。そして主が赦しなさいと命じておられるがゆえに、赦すべきだと思えるようになったなら、主の全能の御力によって、私の心を造り変えて、赦す事ができるようにして下さいと祈るべきです。その祈りは確実に神様に聞かれています。
深い嘆き、怒り、憎しみ、赦さない思いなどは、たとえそれが正当なものであったとしても、その人自身を不幸にするものです。その人を縛り、正しい道を歩めなくし、神様との関係にも壁を作ってしまうものです。だからイエス様も、もしあなた方が人を赦さないならば、天の父もあなたがたの罪を赦さないと主は教えられました(マタイ6:14-15)。自分にはできないと思うでしょうか。その通りかもしれません。自分の内側に目を向けている限り、できる気がしないかもしれません。だからこそ「主に不可能な事はあろうか。」と語りかける主の声に耳を傾けたいのです。そして「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る事になる」との主の御声も。
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