『第三部 感謝について:祈りについて 第45主日の3
問118 神はわたしたちに、
何を求めるようにお命じになりましたか。
答 霊的また肉体的に必要なすべてのことです。
主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に、
それをまとめておられます。
問119 主の祈りとはどのようなものですか。
天にましますわれらの父よ。
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
われらの日用の糧を今日も与えたまえ。
われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ。
われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
(国とちからと栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。アーメン。)
「祈り」は、私たちクリスチャンにとって、「感謝」をもって神に近づく、大事な手段である。イエス・キリストの十字架の御業によって、罪の中、滅びの中から救い出された私たちは、救いを与えて下さった神に、感謝をもって近づくことができる。「わたしを呼び求めよ」と語りかけて下さる神がおられ、また、「わたしの名によって、父に求めよ」と命じて下さる御子がおられ、その祈りを導いて下さる、助け主なる聖霊がおられるからである。聖書の教えに従って祈りをささげる時、御心に叶った祈りは必ず聞かれると、信じて祈り続けることができる。けれども、何を祈り求めるのか、折にふれて自分の祈りを振り返ることも大事となる。問118「神はわたしたちに、何を求めるようにとお命じになりましたか。」
1、答は次の通り。「霊的また肉体的に必要なすべてのことです。主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に、それをまとめておられます。」「霊的また肉体的に必要なすべてのこと」を、父なる神に祈り求めるようにと、主イエスが教えて下さっている。「霊的」なこととは、人の「魂」に関わること、あるいは人の内面に関わることである。それは、人の「心」に関わる、人としての一番大事な事柄である。神のかたちに似せて造られた人間の、神と関わる部分のことである。「肉体的」なこととは、肉の体を持った私たち人間の、この地上における目に見える部分の事柄で、衣食住等に表われる、日々の具体的なことの全てである。私たちが地上で生きる限り、いつの時代も、どこの国にあっても、絶えず周りの人々との関係の中で生活することになる。その時々に、右に行くのか左に行くのか、前に進むのか、それとも立ち止まるのかと、選択と決断が迫られる。本来、自律した者として造られた人間であるが、罪に堕ちて以来、人間の自律は大いに危ういものになっている。事実として、人は恐れと迷いの中に閉じ込められたのである。神と共に歩むことなしに、人は恐れと迷いから抜け出すことは、ほとんど不可能なのである。
2、その恐れと迷いから抜け出すために、人は祈るのであるが、それは堕落したとはいえ、神のかたちに造られているからできることである。そして、聖書は、祈るなら、生ける真の神を信じて、その神にのみ祈り求めるよう教え、「霊的また肉体的に必要なすべてのこと」を祈り求めるように、はっきり教えてくれる。実際に神を信じていても、真実な祈りをささげることの難しさがある。神に祈るのでなく、人に見せる祈りがあり、言葉数ばかりが多くなる祈りがあることを、主イエスは警告しておられる。(マタイ6:5-8)その上で、私たちの必要の全てをご存知の神を信頼してこそ、こう祈りなさいと、「主の祈り」を教えて下さった。(6:9-13)この祈りこそ、先ずは「霊的」な必要について、すなわち、目には見えない神ご自身との関わりで祈り、次に「肉体的」な必要について、すなわち、日々の生活の必要を始め、他の人との関わりで心すべきこと、そして、ありとあらゆる災いからの守りを真剣に求めるようにと、祈りの根本が明らかにされている。それでもまだ、私たちを含めて、神を信頼して祈ることの難しさがあるのは、一体どうしてなのであろうか。
3、「霊的また肉体的に必要なすべてのこと」を祈り求めることについて、説教題を「心と体に必要なこと、すべてを祈る」とした。主イエスは、「施し」「祈り」「断食」について触れ、いずれも「隠れた所で見ておられるあなたの父」と言って、父なる神が大事にしておられるのは、私たちの人間の内面であって、「心」の在り様が、何よりも大事との指摘である。父なる神への信頼を後回しにして、地上のことで思い煩い、日々の生活の必要に心を痛めているのではないかと。その後で、「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こいうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」と言われた。(31〜32節)更に「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。・・・」と。(33〜34節)生ける真の神の御手の守りの中で、生かされていることを忘れないように、また父なる神の愛の御手が、一人一人に差し伸べられていることを決して忘れないようにと、主イエスは語られたのである。
<結び> それにしても私たちの心は、地上のこと、目先のことにのみ向かいがちである。自分のこと、日毎の生活、また自分の体のことで、一杯一杯となり易い。そんな日々であるが、12月になって「待降節」を過ごせるのは、とても感謝なことである。救い主の誕生の出来事は、やはり格別の喜びである。天より下り、この地上に来られた御子のお生まれを思う時、私たちの心は、この地上から引き上げられ、天を仰ぐことが導かれる。天を仰ぐことを通して、私たちの心は、地上の思い煩いから解き放たれる。このクリスマスの季節を、感謝をもって過ごしたい。また主の日毎に、礼拝でささげる「主の祈り」だけでなく、日々の生活においても「主の祈り」をささげながら、天に心を向けつつ、また地上の生活において、主の導きを待ち望み、主と共に歩む日々を送ることが導かれるように。もちろん、主の祈りに教えられながら、自分の言葉で祈ることの幸いを経験して、この季節を過ごせるように。
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